新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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私は、何故に、「アキレスと亀」を考え続けるか?

2023-03-25 08:06:58 | ~認識~
私は、何故に、「アキレスと亀」を考え続けるか?


「アキレスと亀」は、「ゼノンのパラドックス」とか「ゼノンの詭弁」とか言われ続けいたモノ。
それを南郷師範は、「絶対矛盾」と言い切っている。

そこで、私は考えた「何と何の絶対矛盾なのか?」

現実界では、足の速い者は遅い者に追いつけるのに…
「アキレスと亀」の競争で追いつけない事。
現実で正しい事が「アキレスと亀」の世界では正しくない。
同じ事が、正しくて、正しくない…矛盾?

ゼノンの真意は詭弁でないのに、「詭弁」と捉えている矛盾?
ゼノンの真意はパラドックスではないのに、パラドックス…?

ゼノンが「アキレスと亀」で伝えない認識を誤解しているのに…理解していると思っている事?

アキレスは亀に追いつけると確信している認識…?

ここで再度、「アキレスと亀」でのゼノンの思考法を振り返るなら、

初めに、アキレスは100m先の亀の位置を目標に、その完全一致を目指した。
次に、アキレス到達時の少し先の亀の位置を目標に、その完全一致を目指した。

普通の競争で目指すのは、前のライバルの位置ではなく、目標であるゴール。
また相手を捕獲する時には、相手のいる位置を目目指す。
でも、その時には捕獲する瞬間には減速の必要がある。

確か、師範は、「ゼノンのように考えるなら」アキレスは亀に追いつけない(追い越せない・到達できない)…と書いていた。

現実の競争では速い者が遅い者の横・上・下を通過する事ありえるが、
遅い者が走っている、その者の身体・空間を通過して追い越す事は不可能。
もっとも…幽霊なら身体を通過するが…

もっとも…自然界には、人間・物質・原子を通過する素粒子がある、そうですが…

ゼノンの真意は、その表現である「アキレスと亀」は、相対的独立関係。
ゼノンの真意は認識、「アキレスと亀」は言葉。


確か…どこかに、ゼノンは「運動はある」を「運動はない」と否定の為に…?

初めは一つ、そこから今の万物?
万物は、初めから万物?


一つのモノの変化・運動から今の万物?
万物が運動・変化して今の万物?



結論的に書くなら、「アキレスと亀」から、ゼノンの真意を正しく知り理解したいなら、この記述を書いた当時のゼノンを知らねばならない。
当時のゼノンの立場、ゼノンの人柄、ゼノンの生い立ち…知り得る全ての情報が、己の中に「ゼノンの概念」の創像が必要である。
「ゼノンの概念とは、ゼノンという人物の「概略的観念」・アバウト像と言えよう。

そう「概念」とは、外界の対象を人間が概略的観念として認識したモノ。
概念⇒観念⇒⇒認識⇒人間の頭脳内…

例えば「イヌの概念」は、現実のイヌのにない、人がイヌと関わる事で、その人の頭脳内に創像する・創像し続けるモノ。

人が、セノンを知らず・ゼノンの真意を知らずに、「アキレスと亀」を否定続ける姿が、「絶対矛盾」?
人が、己の認識している対象の概念が、現実との対象と「完全に一致」とする判断・認識が「絶対矛盾」?
人が、どんなに頑張っても、人間の認識が対象と完全一致する事はない。

異なった二つ以上の運動体が、同一空間で同時に一致する事は不可能。
これを「一致する」と考える事は可能である。
このような「自分の考え・認識は、現実と完全一致する」と考える・認識する事が「絶対矛盾」。

ここで、「考えるには以下のような「二重性」がある。

それぞれの言葉の知識・意味を使って考える⇒
⇒「言葉・知識で考える」

それぞれの言葉の意味を知り・理解して、その言葉の対象と関わって創像した言葉の概念を使って考える⇒
⇒対象認識・概の像で考える

対象を概念・認識像で考えても…
その考え・認識像とその運動体である現実の対象との、完全一致はあり得ない「絶対矛盾」。

従って、「アキレスと亀」は、ゼノンのように考える限り、アキレスは永遠にカメを追いつけない…という結論である。


そうそう今、突然想起した事がある。
それは、昔々聞いた以下のようなクイズである。

「止まっている時計」と「一分進んでいる時計」とでは、どちらが「正確」。
答えは、「止まっている時計」。

理由は、必ず一日に、二回(午前・午後)は、ピッタリな時刻を示しているから…
時刻とは、一日の中の今を知りたいモノである。
しかし、止まっている時計の針の時刻が、現実の変化・時刻と一致しているかどうか、他の時計を持たない人間には判断不能である。


時計の針の時刻を人間の認識とするなら、
殆ど変化・運動しない頑固な認識でも、変化・運動している現実と一致する瞬間はある。
止まっている認識・観念を、変化・運動している現実が通過する瞬間である。


では、現実と完全一致のない認識は、どうすれば、よいか?
それは、一分・(一秒ベスト)進んでいる時計の針のようになれればよい。
一分・一秒進んでいる時計から、一分・一秒後の現実を振り返って、現実・時の一致を確認しながら前に進める。
その時、針が合わねば、時計を修正すればよい。

そして、時計は、人に「一分・一秒進んだ時計」と知らせ続ける。
もっとも…現代の音波時計は、自動的に時刻修正をし続けているので…


人間の認識なら、先を読み続けながら過去を振り返る。
前に進みながら、反省を繰り返す。
目標・夢を設定しながら、反省を続ける。

反省とは、自分の目標・目的・夢の実現・達成に対する反省。

過去を振り返るのがマズイのではなく、
未来を見続けないで、過去だけを見るのがマズイ。

年寄・老人が、マズイのは近づく自己の肉体の死・人生の終わりを見続けるから…
そのてん…宗教は、死後の世界をみる事ができる。
天国の存在を信じ、目指して頑張れるのは、目標・目的・夢になり得る。
これなら、老い先短い老人でも前を見続けられる。



老い先短い今の俺の前にあるのは、「悟りの世界」~
知る⇒識る⇒悟る。
悟った内容・概念が、その人の「悟り」。

「悟る」は、皆が共通な運動・変化であっても、悟りの中身・概念は、人それぞれ…

その人の発した言葉、その人の認識は、その人のもの。
でも…言葉・認識は、社会のモノ。

言葉・認識というも文字の意味・内容・概念は社会的人々のモノ。
でも、その人の発した言葉・内容・概念は、その人だけのモノ。

この二つは、相対的独立関係にある。
言葉の二重性とは、社会的かつ個人的。

自分の言葉が、正しいと信じるなら「絶対矛盾」
言葉の意味は、時・状況・場合によって変化する。
また、同じ言葉をでも、人よって異なって理解している場合もある…


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