私は、体罰が嫌いだ!
体罰という表現が嫌いだ!
罪を犯したから身体的に罰を与える!
間違いを犯したから罰を与える!
そんなの可笑しい!
人は人を罰する程に偉くない、と私は思う。
ネットの定義だと「体罰」とは以下のように書かれていた。
>体罰とは(国語辞典的定義) 体罰とは、「肉体的苦痛を与えるような懲戒」です。 懲戒とは、「特別の監督関係ないし身分関係にある者に対し一定の義務違反を理由として科する制裁」です。 つまり体罰とは、親、教師、監督などが、悪いことをした子を叩いたり、長時間立たせるなどして、こらしめ、指導することです。<
そう~「肉体的苦痛を…」と書かれている。
さて~ここで問題が…
人間には、サドディスとマゾヒストという者がいるが…
これらは、極端な者達ではあるが…
ここまでいかなくとも…
筋肉痛が快感と感じる者もいれば、
同じ筋肉痛を苦痛と感じる者もいる。
教育の過程において、親が与えた「肉体的刺激」を、
その子が苦痛と感じ得ない時、
それは「体罰」と言い得るだろうか?
その子が、親からの教育的指導の過程の身体への刺激を心の励み・糧…にでき得るなら、
それは、「体罰」ではなく、教育的指導であり、教育的な身体への刺激となる。
体罰も暴力も現象的には、どちらも同じ、身体への刺激である。
体罰と暴力の相違は、
刺激する者の立場と刺激を受ける者の感じ方あろう。
その違いによって、同じような身体的刺激が、時に体罰、時に暴力となり、
そして、時に何て事ない、日常の生活指導の一コマであったり、である。
私は、「暴力」だと判断・認識・感じさせてしまうような身体への刺激には反対である。
同様に、「体罰」だと判断・認識・感じさせてしまうような身体への刺激にも反対である。
別言するなら、「体罰」とも「暴力」とも判断・認識・感じさせない身体への刺激…
それも相手の為になり得るような成長・発展を促す刺激には大賛成である。
だから、体罰・暴力には、時に反対、時に賛成である。
その反対・賛成の理由は、同じような身体への刺激でも、
それが、教育者と非教育者間では単なる指導であり、
当事者以外の者には、体罰と見られるな身体への刺激である場合である。
このように書いても…
体罰は体罰、暴力は暴力、としか思えないソクラテスには、
何の事やら皆目見当もつかないだろうが…
事実として存在しているのは、体罰でも暴力でもなく、身体への刺激であるのに…
それを、体罰?暴力?教育指導?…と分けるのは、人間の認識であるのに…
だ・か・ら・そんなソクラテスだから、
自由びとブログの記事の記述が、読んでも読んでも全く理解不能なのである。
理解不能な癖に、
イッチョ前にコメントを寄越して自己満足している自己満ソクラテスよ!
まあ~まあ~お宅はお宅で一所懸命に頑張り続けたまえ!
そうこうする内、少しは…まともに賢くなり得るかもしれないし…