技の崩れと変化~
技とは~
人間が、初めは無かった・出来なかった、ある行為・行動・思考・認識…が、
意識的に練習・訓練した結果、
ある形式として自然に特に意識しなくても、出来るようになった状態~。
「技の変化」とは、技として体得した形式を、
状況に即して意図的・意識的に変化させる事。
「技の崩れ」とは、技を変化させて多用した結果、元の技・形式・に戻れなくなった状態。
ある人の行為・行動をみて、
それが技の崩れなのか?技の変化なのか?を判断するには~
その人の技の形式・原型を知る必要がある。
何故なら、変化した技も崩れた技も、元の形式・技とは、違って現象している事に変わりないのだから…
例えば、書道で
楷書体で体得した人が、草書体を覚えて、草書体で書き続けた結果、初めのような楷書体で書けなくなった、ならそれは「技の崩れ」。
初めに「草書体」で文字を体得した人が、楷書で書いていた文字が変わっても、それを「技の崩れ」とは言わない。
特定の行為・行動の形式が、体得(技化)されていない場合、そこに「技の変化も崩れ」も存在しない。
そもそも…技と技でないモノを見分けられない者に、「技の変化・崩れ」の判定は無理であろう。
技とは~
人間が、初めは無かった・出来なかった、ある行為・行動・思考・認識…が、
意識的に練習・訓練した結果、
ある形式として自然に特に意識しなくても、出来るようになった状態~。
「技の変化」とは、技として体得した形式を、
状況に即して意図的・意識的に変化させる事。
「技の崩れ」とは、技を変化させて多用した結果、元の技・形式・に戻れなくなった状態。
ある人の行為・行動をみて、
それが技の崩れなのか?技の変化なのか?を判断するには~
その人の技の形式・原型を知る必要がある。
何故なら、変化した技も崩れた技も、元の形式・技とは、違って現象している事に変わりないのだから…
例えば、書道で
楷書体で体得した人が、草書体を覚えて、草書体で書き続けた結果、初めのような楷書体で書けなくなった、ならそれは「技の崩れ」。
初めに「草書体」で文字を体得した人が、楷書で書いていた文字が変わっても、それを「技の崩れ」とは言わない。
特定の行為・行動の形式が、体得(技化)されていない場合、そこに「技の変化も崩れ」も存在しない。
そもそも…技と技でないモノを見分けられない者に、「技の変化・崩れ」の判定は無理であろう。
『武道の復権』でしたっけ?
私が現在師事している先生が南郷先生に信奉していますので迂闊に批判めいたこと書くと大変なことになりますけど、『武道の復権』では相当に具体的なこと書いていたと思います。
若い一時期、試合で栄光を極めた空手選手がある時期から勝てなくなった話しで。
そのときの選手の主観的な訴えが「以前はもっと速く順突きを極められていた、もっと深く踏み込んで攻撃できていた」というもので、
要するに「効果(威力)あるものとして身につけていたものの効果(機能)が失われていく」といったもので、「元に戻らないから崩れで、元に戻るなら崩れではない」といった判断は無かったように思います。
例えば次のようなことです。その流派で技に威力を出すために「土台技」というものを訓練したとします。それで突きにしろ蹴りにしろ地面からの反力を活用して威力を出す術を身につけていたところ、闘う相手が「揺さぶり」と称して運足を縦横に使って心理的・肉体的にタイミングなど乱していって、その「土台技」を使わせなかったとしたなら、心身ともに崩されてヘッドアップして体が泳いで突きや蹴りを出したなら、それは「技が崩れた」と言えるのではないかと私は考えます。
「土台技」を働かせるために軸足にしっかり重心を乗せられなかった、という「技の機能が失われた」という意味での「崩れ」であり、その後に基本稽古や型稽古をしたなら再び元に戻ったなら、戻ったからあれは崩れじゃないのだ、なぜなら崩れるとは元に戻らなくなることだから、という理屈にはならないように思います。
自分が「使えない」という事です。
これは、その技が未熟・未完という事でしょう。
練習で出来ても、試合・闘いで使えない技は、
「技の使い方」技が未熟・未完…という事になりますね。
そもそも、未熟・未完の技に崩れは考えられません。それは、「技の崩れ」以前の問題だと私は捉えます。
どうやら…
お宅の「崩れ」と私の「崩れ」とでは、
その概念・意味…が違っているようですね。