~tadaさんに読んで欲しい!~
「認識と言語~(始まり)」⇒「概念の弁証法」へ
認識と言語?or言語と認識?
認識が先?or言語が先? タマゴが先か?or鶏が先?
赤子が誕生した時、既に世界言語で満たされている。
ならば、言語が先で認識は後!?
しかし、人類が、まだサルの時代には、言語は皆無。
本能的なサルから、本能が薄れていく過程で、言語が自然成長的に発生・誕生していった。
そこには、「言語をつくろう」意識はなく、あるのは「何か(事実・思い・認識)を伝えたい!」想いであろう。
言語の始まりは、そのサル叫び・唸り・沈黙…での認識の表現であった。
その後、サルがヒトへの進化の過程で、サルの声帯の変化…多種類の発声が可能…が起こったのだろう…
ならば、現代人にとっても、認識が先・言語は後、であろう。筈…
さて、昨日の事である。
私が洗濯を始めようとしていた時~
息子―「この服、色落ちするから…」と言いながら、その服を洗濯物入れから取り出そうとしていた。
私―『「色落ち」なら分けて洗濯かな…と思っていると…』
息子―「…室内に干して…」と衣服を私の前に出しながら続けた。
私―『「室内とは?」…そうか「色落ちではなく、色焼け」の事か!』と確信した。
息子は、「衣服の変色する事実」を「色落ち」と表現した。
私は、「色落ち」を「洗濯中に色物の色が落ちる」と理解した。
実際は、洗濯物を外の強烈な太陽光線の元に長時間干した「色焼け」であった。
私に言葉「色落ち」に対する誤解はなかった。
しかし、初めの私は、息子の「色落ち」を息子のレベルで理解していなかった。
今さっき、ネットで「色落ちと色焼けの違い」をネット検索したら、
「色落ち」とは、衣類摩擦や汗…(物理的)での変色」、
「色焼けとは、化学的変化で染料分子が分解されて変色」と書かれていた。
この双方とは、共通概念の区別と連関~
抽象的概念― どちらも、「色の変化・変色」。
具象的概念―
「色落ちは、物理的原因での変色」、
「色焼けは、化学的原因での変色」。
具体的な原因には、
「色落ちは、衣類の摩擦・汗…での変色」
「色焼けは、染料の分子が分解されて変色」、
現実的な理由―
「色落ちは、洗濯(機)での衣類間の摩擦や汗をかいて運動する身体と衣類間の摩擦」、
「色焼けは、長時間・長期にわたる日当たり」」
以上は、色落ちとお色焼けの「概念の「抽象⇒具象⇒具体」の変化運動と言えようか…
さてさて・そろそろ~この記事のまとめを書こう!
息子は、「衣服の変色する事実」を「色落ち」と表現した。
初めの私は、「色落ち」を「洗濯中に色物の濃い色が落ちる」と理解した。
その後、私は、息子の言葉―「外に干さないで!」から~
息子の「色落ち」とは、洗濯物を外の強烈な太陽光線の元に長時間干した変色であり、
それは、私にとっては「色焼け」であった…と理解できた。
初めの私は、息子の「「色落ち」言葉を具体レベルの洗濯中の摩擦での変色」と理解した。
この理解は、正しいモノであったが…
しかし、息子の「色落ちとは、抽象レベルの変色」であった。
その事を、私は、息子の言葉を最後まで聞いて確信できた。
このように、相手の言葉の「言語概念レベル」が、
「抽象レベル・具象レベル・具体レベル」のどれかの判定が可能な能力―
自己の相手の言語に対する理解・認識レベルを相手の認識に合わせて、
意識的・意図的に変化・運動させる事を「概念の弁証法」と言うだろう…
「言語は、認識の表現である」
逆から説くなら~
話し手の認識の正しい理解には、聞き手の弁証法的な言語・理解・認識能力が必要である。
「認識と言語~(始まり)」⇒「概念の弁証法」へ
認識と言語?or言語と認識?
認識が先?or言語が先? タマゴが先か?or鶏が先?
赤子が誕生した時、既に世界言語で満たされている。
ならば、言語が先で認識は後!?
しかし、人類が、まだサルの時代には、言語は皆無。
本能的なサルから、本能が薄れていく過程で、言語が自然成長的に発生・誕生していった。
そこには、「言語をつくろう」意識はなく、あるのは「何か(事実・思い・認識)を伝えたい!」想いであろう。
言語の始まりは、そのサル叫び・唸り・沈黙…での認識の表現であった。
その後、サルがヒトへの進化の過程で、サルの声帯の変化…多種類の発声が可能…が起こったのだろう…
ならば、現代人にとっても、認識が先・言語は後、であろう。筈…
さて、昨日の事である。
私が洗濯を始めようとしていた時~
息子―「この服、色落ちするから…」と言いながら、その服を洗濯物入れから取り出そうとしていた。
私―『「色落ち」なら分けて洗濯かな…と思っていると…』
息子―「…室内に干して…」と衣服を私の前に出しながら続けた。
私―『「室内とは?」…そうか「色落ちではなく、色焼け」の事か!』と確信した。
息子は、「衣服の変色する事実」を「色落ち」と表現した。
私は、「色落ち」を「洗濯中に色物の色が落ちる」と理解した。
実際は、洗濯物を外の強烈な太陽光線の元に長時間干した「色焼け」であった。
私に言葉「色落ち」に対する誤解はなかった。
しかし、初めの私は、息子の「色落ち」を息子のレベルで理解していなかった。
今さっき、ネットで「色落ちと色焼けの違い」をネット検索したら、
「色落ち」とは、衣類摩擦や汗…(物理的)での変色」、
「色焼けとは、化学的変化で染料分子が分解されて変色」と書かれていた。
この双方とは、共通概念の区別と連関~
抽象的概念― どちらも、「色の変化・変色」。
具象的概念―
「色落ちは、物理的原因での変色」、
「色焼けは、化学的原因での変色」。
具体的な原因には、
「色落ちは、衣類の摩擦・汗…での変色」
「色焼けは、染料の分子が分解されて変色」、
現実的な理由―
「色落ちは、洗濯(機)での衣類間の摩擦や汗をかいて運動する身体と衣類間の摩擦」、
「色焼けは、長時間・長期にわたる日当たり」」
以上は、色落ちとお色焼けの「概念の「抽象⇒具象⇒具体」の変化運動と言えようか…
さてさて・そろそろ~この記事のまとめを書こう!
息子は、「衣服の変色する事実」を「色落ち」と表現した。
初めの私は、「色落ち」を「洗濯中に色物の濃い色が落ちる」と理解した。
その後、私は、息子の言葉―「外に干さないで!」から~
息子の「色落ち」とは、洗濯物を外の強烈な太陽光線の元に長時間干した変色であり、
それは、私にとっては「色焼け」であった…と理解できた。
初めの私は、息子の「「色落ち」言葉を具体レベルの洗濯中の摩擦での変色」と理解した。
この理解は、正しいモノであったが…
しかし、息子の「色落ちとは、抽象レベルの変色」であった。
その事を、私は、息子の言葉を最後まで聞いて確信できた。
このように、相手の言葉の「言語概念レベル」が、
「抽象レベル・具象レベル・具体レベル」のどれかの判定が可能な能力―
自己の相手の言語に対する理解・認識レベルを相手の認識に合わせて、
意識的・意図的に変化・運動させる事を「概念の弁証法」と言うだろう…
「言語は、認識の表現である」
逆から説くなら~
話し手の認識の正しい理解には、聞き手の弁証法的な言語・理解・認識能力が必要である。
私は違う考えです。もっとも、ここでポイントになるのは「認識」という概念かも知れませんけどね。
それで私が「認識が先ではない」と考えることのヒントは海保静子の『育児の認識学』にもありますね。
言わば三國志の劉備や関羽、張飛らが義兄弟の契りを結んだ如くにと述べたなら、少しカッコつけ過ぎかも知れませんけどね。
人類史における言語の発生について詳しく説いているところは見当たりませんでしたね。検索したところでは。
言語の始まりは文字言語ではなく音声言語であるのは間違いないのでしょうけれど、その歴史の痕跡は考古学的な遺物の中には残されていないのだから仕方ないのでしょうけれど。
学者のコメントを見ても「おそらくはコミュニケーションのために生み出された」ということで、あまり具体的な仮説すら見つけられませんでした。
他の人に受け入れられるか分かりませんけど、私が考える仮説には「唯物論」と「弁証法」が非常に関わってきます。
当然に個体発生の過程から系統発生たる人類史における言語発生を推測・類推するわけですが、ここで大事になるのは「何をしたかったか?」という《目的》ではなく、
「何をしているのか?」という《物質的な行為》だと考えますね。
そして、それは弁証法的に「元々は、そのためのものでは無かったものが、そのためのものに移行・変化していった」という運動性・変化性の可能性です。
現代の赤ん坊が最初に話し始める言葉を見てみると「パパ」や「ママ」という両親の呼び名とともに「ワンワン」や「ニャーニャー」という動物の呼び名があります。
この、動物をその鳴き声で表すという「擬声語」が言語の始まりの可能性もあるな、と仮説を立ててみました。このときに赤ん坊は犬や猫、牛や豚の絵や玩具を見ながら「ワンワン」「ニャーニャー」「モーモー」「ブーブー」と声に出して認識しても、それを必ずしも誰かに伝えるために、といった要求には結びつけていないのではないだろうか?と。
しかし、人間は家族で生活しますし、もっと広くは群れで生活しますから、誰かが獲物を擬声語で表したなら、それは他の仲間たちに伝搬して皆が同じように音声で対象を表すようになり、それが相互浸透や量質転化という過程を経て、すべての対象を言語で意志伝達するようになった、みたいな。
>マルクス
>コメント
>>認識が先・言語は後
>私は違う考えです。もっとも、ここでポイントになるのは「認識」という概念かも知れませんけどね。
↑
人間の「認識」は、人間の頭脳活動・五感情像・映像…(だ、そうです)
赤ちゃんの頭脳活動は、その産声と同時…(だ、そうです)
その時の赤ちゃんの認識は、何が何だかわからない・分からない事も分からない(だ、そうです)
それは、赤ちゃんが、何が何だか分からないメチャクチャ像を描いていて、
それを見ているのに、その事も分からない状態(だ、そうです)
赤ちゃんの認識活動が先で、その時、赤ちゃんには周囲の人達の声・言葉が聞こえてくる(のに赤ちゃんには分からない・聞こえていない…)
>それで私が「認識が先ではない」と考えることのヒントは海保静子の『育児の認識学』にもありますね。
↑
そのヒントを元に、ここで、書いてみませんか?
お宅が何をどのように書こうが、私は「認識が先」を変えるつもりはありませんので…
決して盗用…は、あり得ないので御安心は無用ですよ!
私と反対の立場のお宅言説を叩き潰す事はあり得ますが…
まあ~どうせいつものように、
また、お宅は適当な理由をでっち上げ書かない、でしょうが…
>マルクス
>・コメント
>私は南郷先生と一度だけ酒席を共にしたことがあります。
>言わば三國志の劉備や関羽、張飛らが義兄弟の契りを結んだ如くにと述べたなら、少しカッコつけ過ぎかも知れませんけどね。
↑
そう言えば…誰か聞きました。
玄和会の新年会は、会員なら誰でも会費さえ払えば参加可能だと…だそうです。
それでも…その人が言うには「なかなか恐れ多くて参加できない」…と。
>人類史における言語の発生について詳しく説いているところは見当たりませんでしたね。検索したところでは。
>言語の始まりは文字言語ではなく音声言語であるのは間違いないのでしょうけれど、その歴史の痕跡は考古学的な遺物の中には残されていないのだから仕方ないのでしょうけれど。
↑
石壁に書かれた「壁画」が、「言語以前」だと、聞いた・読んだ事がありますが…
「壁画」で何かを伝えた。
だから、初期の文字は、象形文字、でしょう。
>学者のコメントを見ても「おそらくはコミュニケーションのために生み出された」ということで、あまり具体的な仮説すら見つけられませんでした。
>他の人に受け入れられるか分かりませんけど、私が考える仮説には「唯物論」と「弁証法」が非常に関わってきます。
>当然に個体発生の過程から系統発生たる人類史における言語発生を推測・類推するわけですが、ここで大事になるのは「何をしたかったか?」という《目的》ではなく、
>「何をしているのか?」という《物質的な行為》だと考えますね。
>そして、それは弁証法的に「元々は、そのためのものでは無かったものが、そのためのものに移行・変化していった」という運動性・変化性の可能性です。
↑
理解不能・意味不明…
>現代の赤ん坊が最初に話し始める言葉を見てみると「パパ」や「ママ」という両親の呼び名とともに「ワンワン」や「ニャーニャー」という動物の呼び名があります。
>この、動物をその鳴き声で表すという「擬声語」が言語の始まりの可能性もあるな、と仮説を立ててみました。このときに赤ん坊は犬や猫、牛や豚の絵や玩具を見ながら「ワンワン」「ニャーニャー」「モーモー」「ブーブー」と声に出して認識しても、それを必ずしも誰かに伝えるために、といった要求には結びつけていないのではないだろうか?と。
↑
ん!↓
>…必ずしも誰かに伝えるため…要求に結び付けていない…」
↑
可笑しいでしょう。
言葉を覚えた赤ちゃんは、近くの保護者(父母・祖父母…)…
その場面を想像してみて!
赤ちゃんは(指を指しながら)~「ワンワン」「モーモー」「ブーブー」と言うのでしょう。
この言動は、「近くの保護者ら伝えている事ですよね!」
>しかし、人間は家族で生活しますし、もっと広くは群れで生活しますから、誰かが獲物を擬声語で表したなら、それは他の仲間たちに伝搬して皆が同じように音声で対象を表すようになり、それが相互浸透や量質転化という過程を経て、すべての対象を言語で意志伝達するようになった、みたいな。
↑
動物の群れは、生きる・生き抜く為に群れるのでしょう。
原始時代人類の群れる生活の目的は、生きる・生き抜く為。
擬声語で動物を表したなら、それは生きる為の食糧になりえるから伝える。
または、襲われる危険あるモノだから伝える為…と私は考えますが…
なんの理由もなしに、「もうもう」「ワンワン」なんて人は言いません。
母親は赤ちゃんが興味を示したから「あれ!ワンワン」と教え、
または、赤ちゃんの前を通ったから「ワンワン」と教えたりする。
そのように、母親が言われた・伝えられたから、母親に「ワンワン」と伝える、のでしょう。
赤ちゃんは、周囲の人間の声掛けなしに言葉を覚えられない…でしょう。
新年会でも忘年会でも玄和会で酒を飲む会合には私は遭遇したことは無いですね、その南郷先生を含めた「青雲塾生の集まり」以外には。
様々な合宿などで稽古した夜の食事でも、玄和会では酒が出ることはありませんでした。他の流派なら有りますけどね。
しかし、お宅は私より前から青雲塾に在籍していたと述べながら、その事が理解できない。
お宅のコメントから高橋衛さんかとも思ったけれど、高橋衛さんも酒席の場にいたからお宅ではない。
私には進化における色々なことが見えてきているが、それを披露する相手としてはお宅は相応しくない。
お宅も自分で理解しているはずだ。私なんぞが指導する空手にしろ学問にしろ学びたい人間などいるはずがない、と。
何しろ、教えるのが無様な私なのだから、と。
「概念の弁証法」について~
↓
「現実的には 2つの認識のキャッチボールで認識が成り立っていると思います。
概念的弁証法とは 弁証法的認識運動を反復することにより 概念の層が厚く 認識同士が紐付けされていくイメージです。」
↑
を参考にして、私的に思惟してみました。
二つの認識とは、「認識を非言語的認識、言語を言語的認識」
いや~!「認識の二重化」失念していましたね。
「非言語的認識」の二重化―
未言語化的認識―認識・像を描いていても、まだ言語化していないモノ。
非言語的認識―ハッキリした映像が描けない…描けていても何か分からない。
それが、見えているのに、見えない。
訳も分からず泣く事で、更に混乱する…訳も分からなくなる。
赤ちゃんの認識は、映像が描けない(滅茶滅茶な映像を描いている)。
それを見えているのに、みえている事が分からない。
一つ、対象に対する自己の主観的な認識・概念(未・非・言語的認識)
二つ、対象に対する他人の客観的な認識・概念(既・言語的認識)
過去の体験・経験的認識or今眼前の現実的対象を媒介にした、この二つの間の往復の繰り返し。
この未・「非言語的認識」とは、自己の対象と関わった事実・体験・経験…全ての認識。
認識と概念の区別と連関は、
認識とは、ある対象を描いた映像。
概念とは、ある対象に対する概ね・アバウトな観念。
観念とは、観た対象への強い思い・考え(認識)。
初めは、ある対象のただの認識。
その同じ対象と関わり・認識続ける事で「認識が観念化」。
ある対象認識の量質転化化が「観念」。
その対象の観念のアバウトな認識を概念。
その対象と、知識文字・絵・写真・映像…の視覚(中心)で関わり続ければ、
その対象の概念は、視覚的な概念。
その対象に対する感情は、視覚的で見た感じから想像した感情レベルとなり得る。
「概念規定」とは、自己の対象に対する観念を大まかに規定したモノ・言語。
>そのうち 自由びとさんに 下品なマルクスさんは おマル クスさんと呼ばれますよ(冗談)
↑
素晴らしい!ドンピシャの未来予想ですね。
tadaさんに「座布団100枚!」ですね♪♪♪
次回からは、あのソクラテスお宅の事を~
「おマル・クソさん」と呼ぼうかな…(冗談)
一つ、対象の概念化が、できていても、
まだ概念規定・言語化していない場合。
一つ、対象の概念化は、まだできていないが、
それでも対象の観念的認識がある場合。
>>玄和会の新年会は
おマル・クソお宅へ
~なんか…しっくり・ピッタリHDですね♪
>新年会でも忘年会でも玄和会で酒を飲む会合には私は遭遇したことは無いですね、その南郷先生を含めた「青雲塾生の集まり」以外には。
↑
お宅の>「私は遭遇したこと無い…」<とは、「酒を飲む会合」との遭遇ですか?
だったら、「遭遇」ではなく、」、「希望者の申し込み」のようですよ!
また「私との遭遇」なら
私は、そのような会へ一度も参加した事はありません。
そもそも…私と全く面識のない、おマル・お宅では、例え「遭遇していても分からない」でしょうがね。
>様々な合宿などで稽古した夜の食事でも、玄和会では酒が出ることはありませんでした。他の流派なら有りますけどね。
>しかし、お宅は私より前から青雲塾に在籍していたと述べながら、その事が理解できない。
↑
確か、旧・「悟りを求めてブログ…」で書いたと思うのですが…
青雲塾は、微熱が続いての欠席が多く、
〇〇(思い出せない)総務に「通信教育ではない、休むな!」と言われ…
絶対に「休まない・頑張ると!」と心に決めたのに…
結局、また微熱の連続体調不良欠席で、トータル数か月で通わなくなり、自動的な退会ですかね。
今、思うと、当時は、一人暮らの教員生活で、自炊は全く無く、毎日が外食だった…
そんな生活での、日々の稽古に体がつて行けなかった、のでしょうね。
何しろ、青雲塾の練習生は、大学生が殆どで…私のマンツーマン練習もハードでしたからね。
おマル・クソお宅は、
私の事実的な記述内容を信じられないから、
「理解」できない…のですよ!
まあ~「おマル・クソお宅が、理解しようが・しまいが…
私が青雲塾に数か月通っていた中で、初めて南郷師範に出会えて、
「真面目にやっているか?」と聞かれ、
「オッス!一生懸命やっています!」と答え、
「複雑な答えだな…」と言われた事…
「何歳だ?」と聞かれ、
「31歳です!」と答え、
「若く見えるな!」と言われた…事…
それらは、私の真実なのだからね…
>お宅のコメントから高橋衛さんかとも思ったけれど、高橋衛さんも酒席の場にいたからお宅ではない。
>私には進化における色々なことが見えてきているが、それを披露する相手としてはお宅は相応しくない。
↑
この「進化」は、たぶんおマル・クソお宅の錯覚ですよ。
または、単なる思い込みですかね。
ただ…私の過去の体験・経験で、度重なる「進化・悟った」を実感しましたが…
実際、それは、「進化」とか「悟った」レベルではなく、単なる認識の深化でしたね。
>お宅も自分で理解しているはずだ。私なんぞが指導する空手にしろ学問にしろ学びたい人間などいるはずがない、と。
>何しろ、教えるのが無様な私なのだから、と。
↑
よく分っていますね!
↓
>「私(おマル・クソ)なんぞが指導する空手にしろ学問にしろ学びたい人間などいるはずがない、と。」
>「何しろ、教えるのが無様な私(おマル・クソ)なのだから、と。
それも、たぶんおマル・クソお宅の思い込みですよ。
世の中に、廃品収集が趣味の人々もいますから、
きっとそんな人々なら、おマル・クソお宅の指導やその無様さが気に入るでしょうから…ね♪♪♪
いや~言語表現は、難しいですね。
「>お宅も自分で理解しているはずだ。」~が、抜け落ちていましたね…
>私なんぞが指導する空手にしろ学問にしろ学びたい人間などいるはずがない、と。
>何しろ、教えるのが無様な私なのだから、と
↑
それでも…
私は、自由びとは、絶対に死んでも「私なんぞ」なんて思いませんよ!
また、死んでも決して「無様な私なのだから」とも思いませんよ!
だから~
そのように「自分で理解しているはず…」なのは、
おマル・クソお宅自身でしょうね!
↑
マルクスという名前が争いを好む方向へ誘うのかも知れないとの反省からですね。
自由びとさんの進化や悟りは小学校の授業中に自分は神であると錯覚して子供たちを校外へ連れ出そうとしたり、授業中に子供を置き去りに帰宅したことでしたから私には進化とも悟りだとも思えませんが、私はそうした者に鞭打つ仕打ちをする性質ではありません。
微熱が続いて数ヶ月で退会したというのも京都の寄筆さんと一緒で、こと玄和空手ということでは道を諦めた挫折者ですから、鞭打つべきではなく逆に慰るべきでしょうね。
空手で身体を壊して仕事(教職)が出来ないのでは本末転倒ですし、空手より先生としての仕事のほうが大事です。
確かに青雲塾の稽古はハードで途中で退会していく者も珍しくはなく、私もその一人かも知れません。
自分を卑下する必要もありませんけど、それならば「当時は30歳を超えていた」とか「外食が中心で栄養が偏っていた」とかの理由づけはなさらないほうが宜しいかと思います。
理由をつけて考えを述べる習慣がついている思考癖のようですけど、何だか常に「言い訳」になっている「弱者のままの、弱者そのものの」思考のように見えるんです。
自由びとさんは空手の稽古よりも別のものを主体的にお選びになった、それで宜しいのかと思います。