去年の事だろうか…
ある時、私はふっと思った。
『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』と…
その時の解答が、「十進法だから!」であった。
1+1+1……「1」を十個たすと「10」となる。
2なら十個で「20」となる。
でも…これが二進法なら、、
1+1=10、だから、
1を10個たしたら、「1010」であり。
五進法なら
1+1+1+1+1=10だから、
1を10個足したら「20」となる。
以上のように考えて、
問い「1を10個足して、『10』になるのは?」の
解答「それは十進法だから…」は正しいと確信した。
しかし…その後、
またある時ふっと思った。
「10個」とは?
十進法の「10」とは、「一が十個」であるが…
二進法の「10」なら「一が二個」となり、
五進法の「10」なら「一が五個」となる。
ならば、
二進法の世界・ルールなら、
1を10個足すとは、「1+1」であり、
当然その答えは「10」で、
5進法のルール・世界なら、
1を10個足すとは、「1+1+1+1+1」だから、
その答えも当然に「10」となる。
ここで、更なる疑問が浮上した~
それは、
では…何故に初めの私は
「十進法である」という回答を正しいと
確信し得たのだろうか?
それは、
二進法・五進法の世界に
十進法の世界・ルールを適用してしまったから、
である。
それは、
実際の数量の表現である「10」と
記号としての「10」を混同していたからである。
●●●●●●●●●●=10……………
とモノが「十個」ある時、
十進法なら「十個=10」と書く、
●●●●●=10
●●●●●=10
五進法から、「十個=20」と書く、
●●=10
●●=10
●●=10
●●=10
●●=10
●●●●=100
●●●●=100
●●=10
●●●●●●●●=1000
●●=10
で答えは「1010」となり得る。
以前に聞いた話によると
十進法は、手の指は十本だから、
五進法は、一本の手には五本だから、
二進法は、腕が二本だから…
同じ「10」個と書かれても、
その事実的数は、それぞれ異なっている、という事。
以上の事実を論理として捉えて、
敷衍するなら~
教師には、教師的な世界観・ルールがある。
と同時に、児童には、児童的世界観・ルールがある。
当然に、
大人には大人の~小人には小人の~
親には親の、子供には子供の~
皆それぞれの異なったルール・世界観を持ち得ている。
この事が痛感・実感できた時、
そこには、その子供の言動を怒鳴る・叱るのではなく、
ゆっくりと心から諭す事が可能な境地に到達可能であろう。
もっとも…怒鳴って諭すも叱って諭すも…もありなのだが…
世界観・ルールが異なっているなら、
全く同じ単語・言語で会話していても、
そこには、概念的相違が多々あるのが現実世界である。
それは、同じ行動であっても然り!
これは、
私が私の狭い経験から…
ここ6年間に発達障害児達と関わって、
痛感・実感し続けている事でもある。
簡単に言うと自由びとさんは去年だろうが一昨年だろうが「なぜ1を十個たすと10になるのだろう?」などと考えてはいないということです。
それは、その後の全文を読めば理解できることで、単に10進数だとか2進数だとか3進数だとかいう既知の知識を組み合わせて文章を作成しているだけです。
そこには初めに問いかけた疑問に正答を与えるべく進んでいく思考の歩みがありません。
少し大袈裟に言うならばモザイクというか、最初から言いたいことは見えていて、そこに十進数だとか2進数だとかの知識を組み込んでいるから論理性のないチグハグした駄文となっています。
そこを「大人と子供」という「成人と未成年」「扶養者と被扶養者」「先生と児童」といった社会的な立場の違いにイメージを摩り替えていく周到だか浅慮だかの表現があります。
自由びとさんが先ず初めに為すことは己が阿呆だということを自覚し認めることでしょう。
>それは、その後の全文を読めば理解できることで、単に10進数だとか2進数だとか3進数だとかいう既知の知識を組み合わせて文章を作成しているだけです。
↑
これは、逆のように感じます。
既知の知識を使って、私の思考・認識の表現を試みている。
>そこには初めに問いかけた疑問に正答を与えるべく進んでいく思考の歩みがありません。
↑~
読み取れませんでした?
結果的に、
初めの「十進法だから…」が否定されていますよ!
>少し大袈裟に言うならばモザイクというか、最初から言いたいことは見えていて、そこに十進数だとか2進数だとかの知識を組み込んでいるから論理性のないチグハグした駄文となっています。
↑
私の記述の「論理性」が、
読み取れなかった、ようですね!
>そこを「大人と子供」という「成人と未成年」「扶養者と被扶養者」「先生と児童」といった社会的な立場の違いにイメージを摩り替えていく周到だか浅慮だかの表現があります。
↑~
お宅の言葉で書けば、
「お宅って全くの阿保ですね!」ですね。
ここでの対比は、
上記の両者間の個別の個性的な世界観・ルールの違いを提起・問題視しているのです。
これも読み取れていませんね!
上記のように、
記事の記述から、その自由びと認識を、
全く読み取れていなのに…
以下の結論とは…
>自由びとさんが先ず初めに為すことは己が阿呆だということを自覚し認めることでしょう。
それこそ
↓
<無さんが、先ず初めに為すことは己が阿呆だということを自覚し認めることでしょう。
機会があったら、
無さんの阿保から始める物語を書いてみましょうかね…
それとも、
「自己の無知」を、「無知の知」と、
誇っているソクラテスの物語にしようかな…