コメント欄の「無」のコメントについて~
この「無」のコメントには、
少々無理がある、ように私には思える。
この「無理」とは、
この「記事の記述=記述者は阿保」であるが…
ここで、私は、論文を書こうとも、
作文を書こうとも思っていない。
ただただ、私の思っている・思っていた事を
私が読み返して、納得できる形で、
言葉でしようと書き続けているのである。
それを、「無」は以下のようにコメントしている。
>この文章を読んで端的に「作文と論文の違い」が分かると思います。
これは、私的には、笑止千万であり、
「無」の言葉で書くなら、
これこそが「阿保」丸出しコメントである。
そもそも…
この記事の表題は「論理・論理的について~」である。
確かに、書き始まめは十進法、二進法、五進法…の事からであり、
結論は、十進法を基準に数字を見ている多くの人々は、
「10」と書かれていれば、
普通に、1→2→3→4→5→6→7→8→9→「10」
十番目・十個と理解している、のが普通であり、
これを
1→「10」とか、1→2→3→4→「10」と理解するのは稀である、であるが…
でも、これを論理として、論理的に捉え返なら、
我々が時々に使用している個別の言葉に込められている、
その話し手の個人的感情・思い・認識…も、「10」と同様に、
必ずしも、聞き手が理解・感覚・認識した通りだとは限らない…
それは、大人が子供の言葉を理解したからといって、
その理解が、その子供の認識に合致しているとは限らない。
…といった事である。
……もっとも…子供の場合、
その子供が大人の理解・認識に合わせてしまう事もあり得るので、
結果的に合致してしまう事もあり得るが…
それは、「無」が、
この記事の記述・言葉から自由びとの真の認識を読み取れずに、
以下のような結論を出している事からも、事実的に証明・認識可能であろう。
>自由びとさんが先ず初めに為すことは己が阿呆だということを自覚し認めることでしょう。
仮に真に自由びとが阿保であったとしても、
その阿保には阿保の感情・認識・論理…があり、
それは、阿保な認識・言葉・感情・論理…表現・表記されている。
それらを、阿保・聡明・馬鹿・天才…
そんな立場を超越して俯瞰できたなら、
決して、己が阿保に思える、
その阿保な相手の事を阿保だとは、
思えなくなるだろうに…
もっとも~
以上のようには、書いているが、
あった事も無い見ず知らずの赤の他人の記述を、
こうも簡単に「阿保」呼ばわり可能な
この「無」は
ソクラテスであり、
正真正銘な真の超人的阿保マンであろう。
ここで以下の疑問が~
私が「阿保」だから、「無」の事を阿保だと思えるのか、
それとも、「無」が阿保だから、そう思えるのか…
この答えは以下であろう~
自由びとを「阿保」と思っている「無」だから、
そんな「無」だから「阿保」である。
この「無」のコメントには、
少々無理がある、ように私には思える。
この「無理」とは、
この「記事の記述=記述者は阿保」であるが…
ここで、私は、論文を書こうとも、
作文を書こうとも思っていない。
ただただ、私の思っている・思っていた事を
私が読み返して、納得できる形で、
言葉でしようと書き続けているのである。
それを、「無」は以下のようにコメントしている。
>この文章を読んで端的に「作文と論文の違い」が分かると思います。
これは、私的には、笑止千万であり、
「無」の言葉で書くなら、
これこそが「阿保」丸出しコメントである。
そもそも…
この記事の表題は「論理・論理的について~」である。
確かに、書き始まめは十進法、二進法、五進法…の事からであり、
結論は、十進法を基準に数字を見ている多くの人々は、
「10」と書かれていれば、
普通に、1→2→3→4→5→6→7→8→9→「10」
十番目・十個と理解している、のが普通であり、
これを
1→「10」とか、1→2→3→4→「10」と理解するのは稀である、であるが…
でも、これを論理として、論理的に捉え返なら、
我々が時々に使用している個別の言葉に込められている、
その話し手の個人的感情・思い・認識…も、「10」と同様に、
必ずしも、聞き手が理解・感覚・認識した通りだとは限らない…
それは、大人が子供の言葉を理解したからといって、
その理解が、その子供の認識に合致しているとは限らない。
…といった事である。
……もっとも…子供の場合、
その子供が大人の理解・認識に合わせてしまう事もあり得るので、
結果的に合致してしまう事もあり得るが…
それは、「無」が、
この記事の記述・言葉から自由びとの真の認識を読み取れずに、
以下のような結論を出している事からも、事実的に証明・認識可能であろう。
>自由びとさんが先ず初めに為すことは己が阿呆だということを自覚し認めることでしょう。
仮に真に自由びとが阿保であったとしても、
その阿保には阿保の感情・認識・論理…があり、
それは、阿保な認識・言葉・感情・論理…表現・表記されている。
それらを、阿保・聡明・馬鹿・天才…
そんな立場を超越して俯瞰できたなら、
決して、己が阿保に思える、
その阿保な相手の事を阿保だとは、
思えなくなるだろうに…
もっとも~
以上のようには、書いているが、
あった事も無い見ず知らずの赤の他人の記述を、
こうも簡単に「阿保」呼ばわり可能な
この「無」は
ソクラテスであり、
正真正銘な真の超人的阿保マンであろう。
ここで以下の疑問が~
私が「阿保」だから、「無」の事を阿保だと思えるのか、
それとも、「無」が阿保だから、そう思えるのか…
この答えは以下であろう~
自由びとを「阿保」と思っている「無」だから、
そんな「無」だから「阿保」である。
「どうして1を十個足すと10なのか?」という問いと「どうして1に1を足すと2なのか?」という問いに違いはありますか?あるいは「どうして2と3を足すと5なのか?」という問いと「どうして1を十個たすと10なのか?」という問いとに違いはありますか?
これを数字記号を変えて「どうして1を十個足すと10なのか?」というアラビア数字での問いを「どうしてⅠを十個足すとXなのか?」というローマ数字の問いに変えたなら、「十進法だから」つまりは「1を十個足した数量は上位の桁に上がった数」だなどとは認識せずに「外界にあるものの脳内への反映」として「目の前にいる象は「象、ぞう」と呼ぶんだよ」だとか「目の前にある机は「机、つくえ」と呼ぶのだ、ねえ、赤ちゃん、私が「ママ」よ、「お母さん」よ」と言語と指示対象を対応させて認知していく過程に思いを馳せるでしょう。
では、1だとか10だとかの数量は外界の客観的な現実では「どれ」なのでしょうか?それは相対的なものですから絶対的なものはないわけです。
目の前の女性の体重を1としたならば、その10倍が10なわけで、同じ女性の体重を2だとしたならば、その5倍が10となるという「1や3や5や100という数量、記号同士の関係性のルール」の話ですから、基準となる1なり5なりの具体的・客観的な量をどう決めるか?で目の前の家の大きさは1でも4でも1000でも自由に表せるからです。
ですので、そこに「m、メートル」だとか「kg、キログラム」といった社会的に合意された具体的数量を定めることで単なる数字間の関係性であった算数だとか数学だとかが物理学だとか化学だとか建築学だとかになっていくわけでしょう?
そこから「論理、ロジック」ということを考えるなら「1を十個足すとどうして10になるのか?」という幾つもの意味を読み取れる問いかけを自由びとさんは「どうして十個で桁が上がるのか?」という問いとして意味づけているわけです。
ですから、「1」だとか「10」だとかの数量を「1+1+1…」だとか「2と8を足した数」だとかの具体的な対象に欠けた「数と数との関係性」という人間が定めた「数の世界」で満足できない=納得できない者は「そこで言う1とか100とかいう数量は具体的にはどのくらいの量なんですか?」と感覚世界へ還元することを求めますから、「メートル原器という、あそこにあるモノの長さを1と決めてね」だとか「kgキログラムという単位で、こういうバネにぶら下げたらバネの長さを何メートル伸ばす重さを1と決めてね」だとか「パルテノン神殿の髙さを◯◯と決めてさ」だとかするわけでしょ?
ところが、そうした相手の発言が指し示す具体的な対象を理解するために「それってどういうことですか?」と質問しても、自由びとさんから返ってくる返答は「自分の事例で考えろ、私は一般的に発言しているのだから」などという戯け千万な阿呆丸出し。
私の「論理・論理的…」とお宅の
>そこから「論理、ロジック」ということを考えるなら「1を十個足すとどうして10になるのか?」という幾つもの意味を読み取れる問いかけを自由びとさんは「どうして十個で桁が上がるのか?」という問いとして意味づけているわけです。
この「論理・ロジック」は、違っている、ようですね…
1と10の違い、
それは表記の違いを問うているので…
これは確かに、そう決めたからです。
も正解です。
だから、
二進法では、二個足して10、
五進法なら五個足して10、
と決めています。
二進法の10は二個、
五進法の10は五個、
これも、そう決めたのです。
ここから、
読み取った論理が、同じ「10」でも、
その中身が、違うということです。
五進法体系での「10」、
二進法体系での「10」、
十進法体系ての「10」、
それらの違いは、
十進法体系が当たり前の現代社会では、
全く問題として浮上しません。
十進法、五進法、二進法の共通性である「10」という表現、
共通の表現である「10」なのに、意味・数量が異なっている事も問題外です。
お宅の固い頭では、
ドラえもんの「もしもボックス」世界では、
暮らせませんね。
お宅の認識では、
小学生の高学年や中学生…との、
まともな会話は不可能でしょうね!
彼らの言葉は、私達のような大人とは微妙に異なっています。
特に思春期の子供達の言動から、その認識を分かる事は至難です。
ですが…大人は分かったつもりで会話しています。
分かる為には、その子の日頃からの言動をよく観察し続ける事でしょう。
そこに、お宅のような
「そう決まっている・決めている」からの出発だけでは
未解→死怪→誤解…へと進んでしまいますね。