1.
o 39. お教え下さい!by自由びと
o 2023年03月28日 09:44
o
>「あの太陽のような奥さん」(貴方の言葉)
何故このように表現してのですか?
貴女は私の家内にあった事ありません。
話した事?私が電話で貴女と話していた時、話したかな?
知りたい理由は、「…太陽…」と考えると…
「私の太陽」=
いつも私の事を考えていてくれる。他人の事も考える。
家内の告別式・葬儀の時、所属していたオーケストラのメンバーが数十人、
その大勢の友達が来てくれて…人数は?忘れた。百人を越えた?百人近くか?
渡す為に用意した「名称言えない」が、予定より数十枚追加、
用意していた、告別式会場に入りきれない人数っだった。
思い起こせば、(信者の伯母が慌てて頼んだ)近くの教会でやった母の葬儀も…
教会に入りきれずに、表の並んでいた。その数忘れた?百人?二百人…とにかく大勢…
そもそも母・家内の葬儀での私には…母・家内の「死」以外は全く気にならなかった。
なんて…「太陽みたい」が、なんかピッタリした表現のよに感じられます。
因みに亡き母親は「女親分肌」と他人に言われて、何となく納得しましたが…
このような意味で、貴女の言葉は本質を的確に掴んでいる、と思うのです。
なぜ、どうして、「あの太陽のような奥さん」(貴方の言葉)」と感じるのですか?
1.
o 41. 神戸だいすき
o 2023年03月30日 06:35
o あなたの奥様が太陽であったことはね、
あなたを、通してわかるんです。
以前のあなたは、芯がぐらぐらして、感情を制御しきれないようなところがありました。
そういうあなたを、支えくよくよしないで、明るく接していた。
それは、あなたを見ていてわかったのです。あなたを支えている存在の「熱」と「光」が。
だから、なくなったと聞いて、あーもう駄目だ!と、一瞬思いました。
ところが、そうではなくて、姿の見えない彼女が、まだ、あなたのそばで輝き続けていることがわかって、安心しました。
うまく言えないけど、その人を見れば、誰が、その人を支えているのか、その存在は浮かび上がってくるものですよ。
支えのない男の人は、かわいそうです。
青雲さんも、天寿堂さんも、支えがありませんでした。だからね、最後に勝つのは、あなただったのです。それは、前からわかっていました。
私の弁証法は、実践に使うものです。これなしでは、何事もうまくいきません。
私が、組織を作れるのも、事業を完遂するのも、弁証法によって、ことを進めるからです。
でも、普通の人には、なぜ、これがAと、同じなのか・・・そういうことが見抜けません。物事の本質を、分解して、最小単位にできないのです。
1.
o 42. 神戸だいすき
o 2023年03月30日 06:38
o 自由人さん、お返事が遅くなったのは、昨日、多忙で、(人助けに走ってた)ネットをみれなかったから、見たときには、コメント欄のあなたの名前は、ずっと後ろに送られて見えなかったから。
気分を壊したんじゃありません。ごめんね、気を使わせて
1.
o 47. いえ!いえ!自由びと
o 2023年03月30日 09:28
o
私の反省・材料になりました。
その事があって、上記のような事が考えられました。
結果的には、感謝・感激です。
でも…私が「貴女が気分を害し無返事…」かな?思いました。
そこで「気分の害したなら」、「何故?」と考えて、再度読み直したら、誤解・誤読に気付いてたのです。
このように、「貴方は私が…」、「私は貴方が…」と~
互いに相手を人を思いやれる自身の心と相手との信頼関係貴重ですね。
私と家内の関係では、私の家内への思いやりは、皆無ではなくても、とても少なかった、ようです。
また、ここ数年は、息子も大きくなり、
また彼女の趣味のオーケストラ活動に忙しく、以前に程、私への思いやりは減っていたょうに感じます。
でも…それって、私の思いやりが減ったから、彼女も減った。
それとも、減った自分を正当化する為に「家内も減った」と自己弁護。
本当は、私がもっと思いやりある言葉かけをすれば、
家内もその思いやりある言葉を返してくれた。
相手に分りやすい「思いやり」とは、言葉かけです。
でも、「思いやり」は観念であり、言葉ではありません。
思いやりある言葉かけがなかったとしても…
「思いやり」は、誰もが持っている筈です。
それは、相手を想う心なのす。
ただし…でも…癌になって
私が「癌ってストレスからなるから、…俺ってストレス与えた?」と尋ねたら…
「いつも私の自由してくれて…全然なかったよ」と言っていました。
夫婦関係では、互いに相手を思いやっていても、言葉・態度で表現する事はあまりないのでしょうね…
そんな強い信頼関係が、互いにあった、ようですね。
何しろ…家内と付き合い始めて去年で31年目、結婚して24年目…
家内とは生前に「来年で25年・銀婚式やろうね…」と話していました。
過行く月日は…家内に会えない悲しみは薄らいでくれても…
家内という話し相手のいない日々の淋しさを和らげてはくれない…
悲しさは時の経過に任せて…も、
淋しさは、自力で解消・解決していくモノだろう…
分かってはいても…
非社交的な今の私には至難であろう…
至難と自覚する限りは至難!なのだろう…
家内と私
・コメントを書いた人
>雲海
・コメント
>奥さまがお亡くなりになったのは残念でしたが自由びとさんは長生きして人生をもっと楽しんで欲しいと願っています。
↑
長生きはしたいです。それは、健康で元気に…
生きている事自体に幸せが感じられて、日々が楽しく過ごせる事。
苦しみ・苦しんでいる自分さえも楽しく微笑む(よくぞ耐えている…と…)
悲しくて泣いている自分さえも愉快に笑える(大の大人が泣くなんておかしい…と…)
>やはり人生って楽しむものだと思いますから。
↑
同感です!
人生は、生活できている事自体を楽しむモノです。
>私は南郷先生が『ヘーゲル哲学の道』という新刊を出したから買いましてね、私にとっては南郷先生の本も人生を楽しむための一つのツールに過ぎません。
↑
その通り、その内容の通りの生き様が、できたなら、人生を楽しめるモノです。
この「ヘーゲル哲学の道」とは、ヘーゲルのような哲学者的生き様を学び取る著書なのでしょうね…
今日中に、行きつけの蔦屋に出かけて取り寄せをお願いするつもり、です。
>自由びとさんのような信仰の対象でなくて申し訳ありませんが(笑)
↑
↑~
「信仰」ですか? 信仰 - Wikipedia
信仰(しんこう、英: faith)とは、
• ㈠ キリスト教神学的には、神の存在と啓示を真実として信じる事[1]。
• ㈡ 神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること[2]。
• ㈢ 人やものごとを信用・信頼すること[3]。
• (四) 証拠抜きで確信を持つこと[4]。またそれらを信じることを正当化する要因[5]。
信仰のことを仏教においては「信心(しんじん)」と呼ぶことが一般的である。「信仰」と書いて古くは「しんごう」と読んでいたこともある[6]
雲海さんの「信仰」の意味が、㈠と㈡のようモノなら「違いです」。
南郷氏は、私の信仰の対象ではありません。
㈢の意味なら、正しいです。
(四)なら少々違っています。
私は、南郷氏の言葉「私の言葉は全て論理」を信じて、彼の著書の論理に即して、私の人生・事実の中で、その論理と同様な論理性を持った事実の発見を目指しています。
雲海お宅は、「(笑)」と書いているところからすると…、
• 雲海お宅の「信仰」は~
•
• ㈠ キリスト教神学的には、神の存在と啓示を真実として信じる事[1]。
• ㈡ 神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること[2]。
ようですね…
だったら、お宅と私は、同じ言葉を違った意味で理解している事になり、
それなら、お宅の「全く分からない」は、当然です。
お宅と私の「同じ言葉・表現」から読み取った意味・概念は、全く異質なのです、から…。
やはり人生って楽しむものだと思いますから。
私は南郷先生が『ヘーゲル哲学の道』という新刊を出したから買いましてね、私にとっては南郷先生の本も人生を楽しむための一つのツールに過ぎません。
自由びとさんのような信仰の対象でなくて申し訳ありませんが(笑)