神戸だいすきブログ
2017年11月30日19:58
「体罰は絶対だめだなんて、ただのきれいごとだと思う」
のコメント欄の神戸だいすきさんの以下の台詞から
>体罰・・・なぐるのけるのことじゃない。
>あなたが取沙汰しているのは体罰でなく「暴力」
改めて私は思った。
体罰ってなんだろう?
体罰と暴力の相違とは?
これは、イジメとフザケの違いに似ている、ようである。
「教師が教え子を殴った」という行為が、体罰か暴力か?
それは、どのように決定する・されるものだろうか?
教師A先生が、生徒Z君を叩いたら「体罰」と思われ、
教師B先生が、生徒Z君を叩いたら「暴力」と言われたり…。
先生に叩かれた生徒は「俺が悪いから叩かれた」と納得しているのに、
その生徒の親は「いくら何でも叩くのはやりすぎ!」と納得し難い…とか。
体罰とは、何らかの理由があり、その理由から身体的な罰を加えられる事。
体罰を加える側の理由があり、
体罰を受けた側が、その理由に納得できた時、体罰であり、
体罰を受けた側が、納得不能から、暴力となり得る、ものだろう。
また、その「叩いた」という事実を見た・知った人々の判断は?
それは、どうだろうか?
あの先生なら「体罰」だろう、とか、
あの先生なら「暴力」に決まっている、とか…である。
これは、「体罰がある」のでも「暴力がある」のでない。
体罰という事実も暴力という事実もない。
これらは、「殴るとか叩く…」というある事実・行為に対しての解釈or論理である。
解釈とは、体罰と思った・感じたとか、暴力だと感じた・思った、であり、
論理とは、「~~という理由から叩いた・叩かれて」当然であるから体罰。
または、その理由では体罰とは納得し難い、から暴力である…とか。
ここで「納得」を考えた時、
個人的な納得、社会的な納得、とがあり得る。
過去の日本、教師の体罰は当然である。
忘れ物をしたら、廊下に立たされたり、
友達を叩いたら、先生に叩かれたり、である。
個人的に納得し難くても、社会的に体罰肯定であれば、個人的にも納得するしかない。
社会的に体罰否定でも、受けた当人が納得し得れば、それはOKである。
それでも…受けた当人は納得、でも親は納得し難い場合は問題である。
以上から考えて、
体罰容認論も体罰否定論も、ほとんど意味をなさない、と思える。
ある行為を当然の体罰と認識し得たなら、問題として浮上し得ない、
ある行為を体罰ではなく、不当な暴力と認識したから問題なのである。
指導者・教師が、やるべき事は、自己の行為が被指導者に
とって必要な指導であると、指導者に認識される関係性の構築であろう。
そもそも体罰とは、体への罰ではなく、体を通しての指導である、べきモノ。
一人前の大人なら、悪いことをしたら、罰を受ける・与える、のも必要・当然である。
しかし、未熟・未成熟の子供には、罰ではなく、指導が必要である。
子供にとっての失敗は、罰と同様の重みがある。
信頼している教師・親の残念顔とか、ガッカリした様子は子供に相当なショックであろう。
以前に「叱らない教育」というモノを読んだ事がある。
それは、どこかの幼稚園での教育方針であった…が。
その中身は、
先生が叱らずに、当人に「自分の行為の失敗を」痛感させる、もの。
子供同士の中で、自分の行為の失敗・まずさを自然に気付かせ・痛感させる、という教育方針だと思った。
ただし…ここにも一つの問題が、それは、子供間のルールがどうであるか?
幼稚園の先生の認識・ルールが、子供・園児社会の認識・ルールたり得ているか?
また、先生達が、園児が気付き・痛感するまで待ち得るだろうか?
または、保護者が途中で、先生に責任の追及…がないだろうか?
何事にも根気が、長期的な対応が必要であろう~