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いがぶら2022冬編-№14 いざ、出陣!気分で「丸山城跡」へ

2023-02-01 18:28:55 | いがぶら2022冬deいが巡り
「無量寿福寺」を出て、国道422号線を渡り、
 
伊賀消防署丸山分署前を通過、しばらく歩くと「案内板」があります。
  
前の2枚は2020/1/10撮影のもの(雪はなかった)、
当日は日差しの中の雪中行軍のような雰囲気でした(笑)。

ここで、2023/1/28の「いがぶら2022冬編-№14」の参考資料として、
伊賀市デジタルアーカイブに「校正伊乱記・上」に『無量寿福寺』及び『丸山城』が掲載されています。
そのページの下欄関連資料辺りをプチっとクリックすると読むことができます、ぜひ。

ちょっと「おさらい」として、
伊賀という地域にとって、また伊賀に住むものとして、
これは知っておいた方がいい、というか見方が変わる!というか…
過去「伊賀忍者回廊巡り」をして思ったのは、
ここまでするか!?というところばかりでした。
寺社仏閣ことごとく焼き払われ、百姓・農兵・おんな子どもまで犠牲になり、
一説には「伊賀全体の人口9万のうち、およそ3万余が殺害されたとも」(当日配布資料より)
信長の「伊賀憎し」は、なんで??
焼失した寺社仏閣をほぼ復活させてきたこの「伊賀の底力」はどこから?

そういえば伊賀に「自治基本条例」なるものができたとき、
伊賀には昔から「惣」という言葉があり、「伊賀惣国一揆」の「『一揆』は、
トラウマのように覚えていた『戦い(騒動)』という意味ではなく、
いわゆる「自治組織」のことであったのか?ということを思い出した次第。

配布資料で久々にこの条例の冒頭部分・・・
伊賀地域は、四方を山に囲まれた盆地で、
古来から伊賀の国として一つのまとまった圏域を形成。

(中略)
これまでの伊賀の自治について見たとき、
中世には
(そう)” という村落の自治運営組織が存在し、
その連合体として『伊賀の国』が形成されていた。


信長・秀吉も「伊賀衆の集団力・団結力」には一目置いていただろうし、
怖かったんだろう、そして「伊賀国」を放っておけないと…
これは「乱」ではなく、仕掛けられた「戦」だと福田先生は言っておられました。
(ココだけの話、信長は現プーチンに似ている…という声も漏れ聞こえました)

前置きが長くなりました💦 では、
「天正6年(1578)、織田の軍勢が伊賀を攻略しようと修築した城。
 天正7(1579)年の第一次天正伊賀の乱で落城するが、再築され、
 現在も天守台、櫓台、土塁、空堀、武者隠しなどの遺構が残り、
 県内中世城郭では最大の規模を持つ。」
丸山城】(伊賀市枅川(ヒジキガワ))へいよいよ潜入開始。
  
最初の広場のような場所、ここには何か建物があったのではないか?
今では「祠」があり、いつも地域の方はお参りされている様子が伺えます。
整備された一本道ですが、枯葉やら雪やら微妙に滑りやすいのです。
転ばないことばかりを考えていました
案内担当の方は「行きはまだよい、帰りこそ気を付けて」と…
周りの方にも声をかけていただき感謝、感謝でした。

雪も枯葉もなければ10分ほどで登れます。
途中には、神戸地区自治協さん設置の案内板もあるはず…
今回は雪に隠れていたか、見逃したか?💦


最後の急坂を上れば、そこには「天守台」があったのか?
「丸山城跡石塔」が見え、土塁の上には「三角点」もあります。
 
裏に回れば「神戸村」(カンベムラ)と刻まれており、
 
地区の方々が建立され、大事に守られているおかげで、
こうやって歴史の一場面を垣間見ることができるのだと感じました。

少し下がった広場には「宝篋印塔」の供養塔。
 
後日語り部の先輩に教えられたのは…
『右側には
  焼災神社佛閣  伊陽郷士一族郎党
 中央に
  為天正兵乱伊陽全域犠牲者各霊追善菩薩也
 左側に
  殉難社司僧尼 織田方将士横死者』とあり、
伊賀衆のみならず織田方の兵士たちの供養もされているのです。
やっぱり何があっても「戦」は避けたいものですが…
歴史の証人たちがこのような形で、伊賀人の心に残っているのかなぁと。

あと少し、続きます。
コメント (2)
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