「寿老人」(仏土寺本堂)
この「寿老人」さん(左)は、手の平に乗ります、約3㎝ほど、重みを感じました。
「寿老人」の手には「桃」がのっており、とても可愛い「寿老人」です。
ニコニコしたお顔を拝見していると、
「福徳・財運・長寿」なんでも授かりそうな気がしてきます。
いつも笑顔でいたいものです…
ここは、【仏土寺】(東高倉3444)
初めて伺う場所ですので、地図でそれなりの下調べをしました。
歴史も深く、「国重文の本尊阿弥陀如来」(撮影不可)や
「県文化財の多宝塔、雁塔」があります。
それら見たさもあって細い道もルンルンと進みます🚙
駐車場から、あまりにも空が綺麗だったので、
「蛙の手水」、「獅子?瓦」
「多宝塔」(タホウトウ)
≪鎌倉時代 総高573cm
人皇等八十代高倉天皇ノ御字ヨリ
八百年ノ星霜ヲ経テ 其ノ間屡々
震災二見舞レ 破損箇所モ 少ナカラズ
其ノ昔 釈尊雲山ニテ法華経読誦三昧二 住セラシニ
忽然トシテ地中ヨリ 多宝如来ノ全身舎利ヲ安置セル
宝塔空中二出テ 塔中ヨリ声ヲ発ス 釈尊之ヲ賛嘆以来福徳円満二
世安楽ノ為之ヲ建立セリ
功徳ノ法水四衆ニ及ボス ≫
「雁塔」(ガントウ)、2基とも三重県指定有形文化財。
≪鎌倉時代 総高470cm
昔、大唐法師玄装ト云フ僧アリ
諸国二経典ヲ求メ修行中 極度ノ空腹ニ至ル時二 天高ク双雁ノ
飛翔スルヲ見ル 若シ我
今之ヲ得バ 食充スベシト 忽チ
一雁落下シテ殞ツ 是ニ於テ
雁ヲ埋メテ 其ノ菩提ヲ弔ヒ
此ノ地二塔の建立シタルニ依リ
雁塔ノ起因トナセリ ≫
整然と並ぶ無縁仏さまたち、凛としたものを感じました。
「寿老人」ご朱印
ご朱印帳より
≪創建は承和安2年(1172)と本尊阿弥陀如来の胎内に記されており、
鎌倉時代の文書に京都大覚寺の末寺であったとされる。
本尊と脇侍の日光・月光両菩薩は慶派の作で「仏土寺型三尊」と呼ぶ特有の形式。
当初は、五百石の大寺であったが、天正伊賀乱で消失、
本尊と脇侍は池に沈め難を逃れ、国の重要文化財に指定されている。
また、境内の多宝塔と雁塔は大型で、殊に雁塔は作例がなく、
二基ともに県の文化財となっている。≫
参考:広報いがより
≪承安2年(1172年)は、平家全盛の頃。この年は平徳子が中宮になっている。
同時期に平清盛が、近くの上野丘陵地(上野城跡がある場所)に
平野山平楽寺という大きなお寺を建立。
仏土寺は伊賀氏などの豪族たちによって創建されたが、
一連の平家の動きと関連があったかもしれない。
しかし、石造多宝塔は鎌倉時代のもので、この頃平家は滅亡している。
時流に合わせながら生き残りを模索した、伊賀地方の豪族の姿が垣間見えるよう。≫ とも。
ご住職さんは寺町にもおられたらしく、城下町の事をよくご存じで
お話をしていてとても楽しかったです、まさに「寿老人」を若くしたような。。。
お暇した後、ここまで来たのならやっぱり「お斎峠」へ行きたい!
ということで多羅尾の「伊賀盆地絶景展望所」へ行ったわけです(笑)。
ではまた、次回で「伊賀七福神めぐり」はお仕舞い…
この「寿老人」さん(左)は、手の平に乗ります、約3㎝ほど、重みを感じました。
「寿老人」の手には「桃」がのっており、とても可愛い「寿老人」です。
ニコニコしたお顔を拝見していると、
「福徳・財運・長寿」なんでも授かりそうな気がしてきます。
いつも笑顔でいたいものです…
ここは、【仏土寺】(東高倉3444)
初めて伺う場所ですので、地図でそれなりの下調べをしました。
歴史も深く、「国重文の本尊阿弥陀如来」(撮影不可)や
「県文化財の多宝塔、雁塔」があります。
それら見たさもあって細い道もルンルンと進みます🚙
駐車場から、あまりにも空が綺麗だったので、
「蛙の手水」、「獅子?瓦」
「多宝塔」(タホウトウ)
≪鎌倉時代 総高573cm
人皇等八十代高倉天皇ノ御字ヨリ
八百年ノ星霜ヲ経テ 其ノ間屡々
震災二見舞レ 破損箇所モ 少ナカラズ
其ノ昔 釈尊雲山ニテ法華経読誦三昧二 住セラシニ
忽然トシテ地中ヨリ 多宝如来ノ全身舎利ヲ安置セル
宝塔空中二出テ 塔中ヨリ声ヲ発ス 釈尊之ヲ賛嘆以来福徳円満二
世安楽ノ為之ヲ建立セリ
功徳ノ法水四衆ニ及ボス ≫
「雁塔」(ガントウ)、2基とも三重県指定有形文化財。
≪鎌倉時代 総高470cm
昔、大唐法師玄装ト云フ僧アリ
諸国二経典ヲ求メ修行中 極度ノ空腹ニ至ル時二 天高ク双雁ノ
飛翔スルヲ見ル 若シ我
今之ヲ得バ 食充スベシト 忽チ
一雁落下シテ殞ツ 是ニ於テ
雁ヲ埋メテ 其ノ菩提ヲ弔ヒ
此ノ地二塔の建立シタルニ依リ
雁塔ノ起因トナセリ ≫
整然と並ぶ無縁仏さまたち、凛としたものを感じました。
「寿老人」ご朱印
ご朱印帳より
≪創建は承
鎌倉時代の文書に京都大覚寺の末寺であったとされる。
本尊と脇侍の日光・月光両菩薩は慶派の作で「仏土寺型三尊」と呼ぶ特有の形式。
当初は、五百石の大寺であったが、天正伊賀乱で消失、
本尊と脇侍は池に沈め難を逃れ、国の重要文化財に指定されている。
また、境内の多宝塔と雁塔は大型で、殊に雁塔は作例がなく、
二基ともに県の文化財となっている。≫
参考:広報いがより
≪承安2年(1172年)は、平家全盛の頃。この年は平徳子が中宮になっている。
同時期に平清盛が、近くの上野丘陵地(上野城跡がある場所)に
平野山平楽寺という大きなお寺を建立。
仏土寺は伊賀氏などの豪族たちによって創建されたが、
一連の平家の動きと関連があったかもしれない。
しかし、石造多宝塔は鎌倉時代のもので、この頃平家は滅亡している。
時流に合わせながら生き残りを模索した、伊賀地方の豪族の姿が垣間見えるよう。≫ とも。
ご住職さんは寺町にもおられたらしく、城下町の事をよくご存じで
お話をしていてとても楽しかったです、まさに「寿老人」を若くしたような。。。
お暇した後、ここまで来たのならやっぱり「お斎峠」へ行きたい!
ということで多羅尾の「伊賀盆地絶景展望所」へ行ったわけです(笑)。
ではまた、次回で「伊賀七福神めぐり」はお仕舞い…
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