「千賀地城址」を出て、赤目までの逃走劇?に思いを馳せていて、ふと思い出しました。
この近くに「行者堂」があったこと、、、少し坂を登って、その階段の上に
行者堂と鬼瓦
残念ながら「役行者」様(予野・上出小場)にはお目にかかれなかった…けど、
千賀地城山を望む
行者堂から予野地区西の峠の山、
ここを越えれば名阪国道・治田ICへ抜ける。
左手前にこんもりと見えるのは「花垣神社鎮守の森」。
他に何か見どころは??と尋ねると、予野・前出小場に「薬師堂」があるとのこと。
さぁ、行こう!! 案内して~~(どこまでも強引なワタシ、ゴメン)
歩いて行けない距離ではないが、時間が時間なのでせめて18時までには(家に)帰りたい…
ということで強引な割には早く行こう!と、車で、ほんの2・3分のところです。
近くに立正寺というお寺があります、その横の道を入り駐車場に止める。
目の前に
「蘭若池」(にごり池)とな…民話伝説と吉田兼好ゆかりの地…はて?
池を左に見ながら登ると、そこにはお堂がありました。
※①「薬師堂由来」
「由来」を書かれたのは、森中喬章氏。
ワタシは画家としての彼しか知らなかったのですが、かなり多部門の博学なお仕事をされていたんですね…
【薬師堂〔雲桜山菩提樹院薬師寺〕】由来(転書)
『嘉吉元年(1441)の「興福寺官務牒疏(かんむちょうそ)」の中に「菩提樹院伊賀郡花垣郷本尊薬師弘法大師開基」とあるが
今はただ往古の由緒を知るにすぎず、旧跡には「文明八年(1476)正月初十日宋久禅門」と刻銘のある石造五輪塔の残欠が
一基、世の無常迅速を物語っている。
堂の北側台地は中世墓とみられ信楽焼の蔵骨器(壷)が発見されている。(市教委所蔵)
菩提樹院は明治初年(1868)廃寺となる。
湯屋谷の蓮徳寺の薬師如来と日光・月光両菩薩(国指定重要文化財)は菩提樹院の旧蔵との説もある。
その後も薬師堂として里人によって守られ、明治後期には庫俚(現在の前出公民館)で尼僧が住、里の子女に
裁縫を教えた。
昭和七年(1932)には一部の古材を使って改築がなされ、折々の営繕を加えつつ現在に至っている。
北から参道入口に蘭若池がある。
里の娘、おさき小町の伝説が残る。(森中二郎氏が「上野に伝わる民話、こじょろうぎつね」に「お薬師さまのにごり池」と
題して記述している)
この蘭若池(にごり池)は用水池として穿って、一種の銘木を得た。
この木片を火に焼くと良い香りがして数ヶ月を経てもなお消えない。
いずれも蘭若香のようであったと云う。
池の畔には古い藤があった。
花は大房で一メートル余りもあったと云う。
「蘭若の藤紫」といわれているもこの藤すなわち蘭若の銘木とするのは誤りである。
徒然草の著者、吉田兼好がこの藤を吟じている。
咲きにほふ 藤のうらはのうらとけて かけものとけき春の池水
薬師堂の裏には、重税から農民を救おうとして刑死した山渓寺住職敬叟和尚(けいそうおしょう)(1792)の胴塚が
祀られている。
いずれにせよ確たる史実を知る由もないが古文書等から室町時代には開かれていたようであり、
相当規模の寺院であったことが窺われる。
五五〇年余りを経た今日も前出小場、上出小場の人々の信仰を集め、毎年一月十二日と九月八日には相集まって
護摩供養が営まれ、集落の安穏を祈り続けている。
平成十年(1998)森中喬章記す』
そして、お堂の裏に回って
「敬叟和尚(けいそうおしょう)胴塚」って、、、 どういうこと??洒落でなく、まじめに。
「頭は別のとこにあるらしいで…」って、、、
これは、家に帰って調べねばならぬ!
そして
まず、こんなお話が見つかりました(ネット検索って有り難いです)
「敬叟和尚」(あおやま風土記より)
「山渓」・「敬叟和尚」・「頭」というキーワードで探す。
明日(7/12・日)、行こう!!
久米川沿いに「山溪地蔵尊」があるのをGoogle mapで見つけました。
駐車場の心配があったので、徒歩で行きます、おそらく20分も歩けば行けるだろうというカン。
上野・青山をつなぐ「桑町の街道」を通れば近い、中之立町通りを南下、愛宕神社から桑町の旧街道へ出てさらに南下。
首から上の病(すなわち「頭」!?)・・・首塚 (あっ、見つかった)
由来を読みましょう…
※②「山溪地蔵尊由来」
「今 刑刀に倒れても 我霊は不滅なり
今日より後 頭上の煩いあれば 必ず救わん」との遺言、、、
「民草に
露の命は消える共
恵む心はよろず世のすえ」 辞世の句
そして、何故か「上野小唄」にも、この出来事が歌詞となって残っているんですね
上野小唄最後の十一番の歌詞
「逢いとなったら 白紙送れ
敬叟禅師もあの久米川原
書けば文字があだとなる」
地蔵堂の裏に「敬叟和尚(禅師)」の墓標、地区の皆様により綺麗に整備されています
藤棚もありました、来年また来ますね…
悲しい出来事がありました、ワタシ的には「頭」と「胴」が結びついて、、、なぜか ホッとしました。
(想像ですが…弟子たちが刑場から胴を持ち帰り、あの予野の地で供養されていたのでしょうか、ソウゾウソウゾウ)
でも、ワタシの中ではこの場所に来て、※①と※②が完結しました!
「寛政四年(1792)十二月二十一日、敬叟和尚四十二歳。」でした。
Google mapで検索していたらこんなコメントが残っていました。
『頭のよくなる「さんけい地蔵さん」
山溪寺の偉い住職であった敬叟和尚が農民の直訴状を代筆した。直訴する者も直訴状を書く者も命はない。
私は死んだ後、頭上のわずらいを救うと言い残し斬首された。
死んで菩薩となり、今も皆の為に祈ってくれています。』
。
もひとつ、この近くに珍しい「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)」の仏像があることを地図から見つけました。
せっかくここまで来たので、寄ることにします。歩いて3分ほどです。
ここは、伊賀市役所が四十九に引っ越してきてから重大交通要所で、とても危険な場所です。
(名阪高架下、変形5差路プラス踏切、信号なし)
車を止めるところなどどこにもありません、歩くのがベストです、日曜日といえども車は多い、やっぱり歩くのはコワい場所です
でも、すぐに見つかりました(ストリートビューで確認済みだったので(笑))
「馬頭観世音」様です、ちょっとコワい、オコッテル? 馬もいるし…
(一般に馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き(どはつてんをつき)、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である、らしい Wikipediaより)
この観音様がなぜここにいらっしゃるのかは不明ですが、馬頭観音を調べるとこんな謂れ(願文)が見つかりました。
『願くは酪農並びに養鶏業者に於ては経営合理化に 場に依り敢て殺生を余儀なくする場合有り、
又、因果を知らず業報を恐れざる邪見の人々には鳥獣魚貝類の美味を欲しいままにし
知らず知らずして刹生の悪業を重ねる事あり、
佛法の十善戒の第一に不刹生との戒めあり将亦愛猫愛犬等の死亡したる霊あり、
茲に襟を正し而して人々の為に犠牲となりたる幾多鳥獣魚貝虫類等痛ましく、
畜生道に堕つ為たる生類が来世には善生に転居せんことを至心に祈願し
尊像を奉建し発願志の祈願圓満ならしめんことを』とあります。
ズシンときますね、なかなか大事なことが書かれているような気がしますが、いかがでしょうか?
動物たちにとって何か意味のある場所だったのでしょうか、、、
帰り際、久米川の水門を通って、川は暴れていないかい、、、
と、聞いて来ました。
この近くに「行者堂」があったこと、、、少し坂を登って、その階段の上に
行者堂と鬼瓦
残念ながら「役行者」様(予野・上出小場)にはお目にかかれなかった…けど、
千賀地城山を望む
行者堂から予野地区西の峠の山、
ここを越えれば名阪国道・治田ICへ抜ける。
左手前にこんもりと見えるのは「花垣神社鎮守の森」。
他に何か見どころは??と尋ねると、予野・前出小場に「薬師堂」があるとのこと。
さぁ、行こう!! 案内して~~(どこまでも強引なワタシ、ゴメン)
歩いて行けない距離ではないが、時間が時間なのでせめて18時までには(家に)帰りたい…
ということで強引な割には早く行こう!と、車で、ほんの2・3分のところです。
近くに立正寺というお寺があります、その横の道を入り駐車場に止める。
目の前に
「蘭若池」(にごり池)とな…民話伝説と吉田兼好ゆかりの地…はて?
池を左に見ながら登ると、そこにはお堂がありました。
※①「薬師堂由来」
「由来」を書かれたのは、森中喬章氏。
ワタシは画家としての彼しか知らなかったのですが、かなり多部門の博学なお仕事をされていたんですね…
【薬師堂〔雲桜山菩提樹院薬師寺〕】由来(転書)
『嘉吉元年(1441)の「興福寺官務牒疏(かんむちょうそ)」の中に「菩提樹院伊賀郡花垣郷本尊薬師弘法大師開基」とあるが
今はただ往古の由緒を知るにすぎず、旧跡には「文明八年(1476)正月初十日宋久禅門」と刻銘のある石造五輪塔の残欠が
一基、世の無常迅速を物語っている。
堂の北側台地は中世墓とみられ信楽焼の蔵骨器(壷)が発見されている。(市教委所蔵)
菩提樹院は明治初年(1868)廃寺となる。
湯屋谷の蓮徳寺の薬師如来と日光・月光両菩薩(国指定重要文化財)は菩提樹院の旧蔵との説もある。
その後も薬師堂として里人によって守られ、明治後期には庫俚(現在の前出公民館)で尼僧が住、里の子女に
裁縫を教えた。
昭和七年(1932)には一部の古材を使って改築がなされ、折々の営繕を加えつつ現在に至っている。
北から参道入口に蘭若池がある。
里の娘、おさき小町の伝説が残る。(森中二郎氏が「上野に伝わる民話、こじょろうぎつね」に「お薬師さまのにごり池」と
題して記述している)
この蘭若池(にごり池)は用水池として穿って、一種の銘木を得た。
この木片を火に焼くと良い香りがして数ヶ月を経てもなお消えない。
いずれも蘭若香のようであったと云う。
池の畔には古い藤があった。
花は大房で一メートル余りもあったと云う。
「蘭若の藤紫」といわれているもこの藤すなわち蘭若の銘木とするのは誤りである。
徒然草の著者、吉田兼好がこの藤を吟じている。
咲きにほふ 藤のうらはのうらとけて かけものとけき春の池水
薬師堂の裏には、重税から農民を救おうとして刑死した山渓寺住職敬叟和尚(けいそうおしょう)(1792)の胴塚が
祀られている。
いずれにせよ確たる史実を知る由もないが古文書等から室町時代には開かれていたようであり、
相当規模の寺院であったことが窺われる。
五五〇年余りを経た今日も前出小場、上出小場の人々の信仰を集め、毎年一月十二日と九月八日には相集まって
護摩供養が営まれ、集落の安穏を祈り続けている。
平成十年(1998)森中喬章記す』
そして、お堂の裏に回って
「敬叟和尚(けいそうおしょう)胴塚」って、、、 どういうこと??洒落でなく、まじめに。
「頭は別のとこにあるらしいで…」って、、、
これは、家に帰って調べねばならぬ!
そして
まず、こんなお話が見つかりました(ネット検索って有り難いです)
「敬叟和尚」(あおやま風土記より)
「山渓」・「敬叟和尚」・「頭」というキーワードで探す。
明日(7/12・日)、行こう!!
久米川沿いに「山溪地蔵尊」があるのをGoogle mapで見つけました。
駐車場の心配があったので、徒歩で行きます、おそらく20分も歩けば行けるだろうというカン。
上野・青山をつなぐ「桑町の街道」を通れば近い、中之立町通りを南下、愛宕神社から桑町の旧街道へ出てさらに南下。
首から上の病(すなわち「頭」!?)・・・首塚 (あっ、見つかった)
由来を読みましょう…
※②「山溪地蔵尊由来」
「今 刑刀に倒れても 我霊は不滅なり
今日より後 頭上の煩いあれば 必ず救わん」との遺言、、、
「民草に
露の命は消える共
恵む心はよろず世のすえ」 辞世の句
そして、何故か「上野小唄」にも、この出来事が歌詞となって残っているんですね
上野小唄最後の十一番の歌詞
「逢いとなったら 白紙送れ
敬叟禅師もあの久米川原
書けば文字があだとなる」
地蔵堂の裏に「敬叟和尚(禅師)」の墓標、地区の皆様により綺麗に整備されています
藤棚もありました、来年また来ますね…
悲しい出来事がありました、ワタシ的には「頭」と「胴」が結びついて、、、なぜか ホッとしました。
(想像ですが…弟子たちが刑場から胴を持ち帰り、あの予野の地で供養されていたのでしょうか、ソウゾウソウゾウ)
でも、ワタシの中ではこの場所に来て、※①と※②が完結しました!
「寛政四年(1792)十二月二十一日、敬叟和尚四十二歳。」でした。
Google mapで検索していたらこんなコメントが残っていました。
『頭のよくなる「さんけい地蔵さん」
山溪寺の偉い住職であった敬叟和尚が農民の直訴状を代筆した。直訴する者も直訴状を書く者も命はない。
私は死んだ後、頭上のわずらいを救うと言い残し斬首された。
死んで菩薩となり、今も皆の為に祈ってくれています。』
。
もひとつ、この近くに珍しい「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)」の仏像があることを地図から見つけました。
せっかくここまで来たので、寄ることにします。歩いて3分ほどです。
ここは、伊賀市役所が四十九に引っ越してきてから重大交通要所で、とても危険な場所です。
(名阪高架下、変形5差路プラス踏切、信号なし)
車を止めるところなどどこにもありません、歩くのがベストです、日曜日といえども車は多い、やっぱり歩くのはコワい場所です
でも、すぐに見つかりました(ストリートビューで確認済みだったので(笑))
「馬頭観世音」様です、ちょっとコワい、オコッテル? 馬もいるし…
(一般に馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き(どはつてんをつき)、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である、らしい Wikipediaより)
この観音様がなぜここにいらっしゃるのかは不明ですが、馬頭観音を調べるとこんな謂れ(願文)が見つかりました。
『願くは酪農並びに養鶏業者に於ては経営合理化に 場に依り敢て殺生を余儀なくする場合有り、
又、因果を知らず業報を恐れざる邪見の人々には鳥獣魚貝類の美味を欲しいままにし
知らず知らずして刹生の悪業を重ねる事あり、
佛法の十善戒の第一に不刹生との戒めあり将亦愛猫愛犬等の死亡したる霊あり、
茲に襟を正し而して人々の為に犠牲となりたる幾多鳥獣魚貝虫類等痛ましく、
畜生道に堕つ為たる生類が来世には善生に転居せんことを至心に祈願し
尊像を奉建し発願志の祈願圓満ならしめんことを』とあります。
ズシンときますね、なかなか大事なことが書かれているような気がしますが、いかがでしょうか?
動物たちにとって何か意味のある場所だったのでしょうか、、、
帰り際、久米川の水門を通って、川は暴れていないかい、、、
と、聞いて来ました。
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