「二上山」(ニジョウザンまたはフタカミヤマ)は、らくだの背のような「雄岳」と「雌岳」。
二つでひとつと言われています。
再掲「雄岳・雌岳」分かれ道
いよいよ「雄岳」を目指します。
「雄岳」案内図
パンフレットによると、
≪「雄岳」は、奈良県葛城市に位置し、多くのハイキング コースがあり、
登山者も多いが、登山距離は相当長く高低差もしっかりあるらしい。
山頂には、若くして謀反の罪をきせられ死罪になったと伝えられる大津皇子 (オオツノミコ)の墓や
葛木二上神社があり、厳かな雰囲気を感じる≫とのこと。
ぜひとも「大津皇子のお墓」へお参りしたいと、その一心で向かいます。
さて、道中どんな風景が待っているのでしょうか…
先ほどの標識から先、すぐにこの山最後のトイレ。
途中紅葉はまだ、でも山茶花は咲き出しています、
「近畿自然歩道」の案内板があるところ、
突然、人が続々現れ…
みなさま、「やっと着いたねぇ 」
右手に登山道があって「当麻寺」から登ってこられたとのこと。
(地図を見ればなかなかの激務に思われますが…)
ワタシは「雄岳」へ行ってきます、と別れ砂利道を進みます。
12時7分発。
紅葉も少しずつ進み、赤い実が目の前に迫る!
秋の風情を感じる尾根道を進みます。
ここが「馬の背」といわれる「雄岳」へ続く尾根道ですが、
木製階段ずっと続きます、足を踏み外したらどうしよう?
多分悩むことはないです、慎重に踏み締めていけば大丈夫!
時折覗く山の景色と、いい塩梅の歩幅の木の階段に感謝しつつ進みます。
時々下山する方と出会います、細い道なのでそこは譲り合い。
そこで「こんにちは!…」と会話が生まれます、ちょっと嬉しい気分になります(笑)。
先ほどの「トイレ」のある場所から100mと書いてありましたが、
この階段の100mなので…ご想像にお任せ。
さぁ、着きましたよ「雄岳山頂 」12時24分着。
「雌岳」からの高低差43m、「雌岳」までの登り道を思うと、
この「馬の背」越えは楽勝気分に感じましたが…
「金剛生駒国定公園」
小さなこの広場のような場所から少し進むと
「葛城経塚」、「葛木二上神社」とそのご神木。
まだその先に進むと
真っ直ぐ進むと「二上山駅」へ
木々に囲まれている「雄岳山頂」は、ほぼ眺望はありません。が、
歴史的な出来事はこの山頂からずっと見てきたのではないかと…
そんなことを思わせる厳かな雰囲気があります。
丁度ここで、奈良側から「雄岳」へ登って来られた方とお話が出来、
奈良側の麓に住んでいるので日課のように登ってきます、と。
流石、日常お散歩?登山コースなのですね
丁度、この石碑の前で出会いました…
「大津皇子御墓 東一丁」
ワタシは「大津皇子のお墓があると聞いて登ってきましたけど…」
「もう少し先に進むとありますよ、帰り道なので一緒に行きましょう」と。
案内して頂き、「また会えるといいですね」と彼女とお別れして、
反対側の道を進みます。
何かしら凛としてきます
「天武天皇皇子 大津皇子 二上山墓」(宮内庁)
後日、2021/11/7朝刊で『死地に赴く弟思う斎王』という中日新聞記事を読みました。
三重県明和町の「斎宮跡」から西の山並みに沈む夕日を見て、
≪飛鳥時代以降、天皇に代わり、天照大神に仕える未婚の皇女たちが伊勢に派遣された。
彼女たちは生まれ育った都からここに移住し、神に対する祈りの日々を送った。
初代の斎王・大伯皇女(オオクノヒメミコ・661~701年) もそうだった。
天武天皇の皇女である彼女は、この地にやってきたとき、まだ12歳の少女だった。
686年の秋、彼女の一つ年下の弟・大津皇子(オオツノミコ)がこの地を訪れる。
謀反の疑いを掛けられていた彼は、姉に暇乞いをしにきたのである。
涙の対面ののち、彼は再び大和へ帰っていく。
姉も弟も、これが今生の別れであることを知っている。その時に歌われたのが
「わが背子(セコ)を 大和へ遣(ヤ)ると さ夜更けて 暁露(アカトキツユ)に わが立ち濡れし」
恋することを禁じられていた斎王の彼女にとって、死地に赴こうとする弟は、
肉親の枠を超えた情愛の対象だったのだろう。
古代の伊勢街道は、飯高の山並みを縫うようにして大和に繋がっていた。
大伯皇女も大和に思いを馳せつつ西の山並みを見ていたことでしょう。≫
概ねこんな内容で、blog知人のdawnさんが伝えてくださったのは、
こういうことだったのね、と納得のお話でした。
今思うと、我が三重明和町の斎宮にいたお姉さんと、
大和「二上山」に眠る弟の悲しく切ないお話…
※参考文献①「三重歴史の情報蔵」より
※②「日本文化の入り口」より
今日は、ここでおしまい。
二つでひとつと言われています。
再掲「雄岳・雌岳」分かれ道
いよいよ「雄岳」を目指します。
「雄岳」案内図
パンフレットによると、
≪「雄岳」は、奈良県葛城市に位置し、多くのハイキング コースがあり、
登山者も多いが、登山距離は相当長く高低差もしっかりあるらしい。
山頂には、若くして謀反の罪をきせられ死罪になったと伝えられる大津皇子 (オオツノミコ)の墓や
葛木二上神社があり、厳かな雰囲気を感じる≫とのこと。
ぜひとも「大津皇子のお墓」へお参りしたいと、その一心で向かいます。
さて、道中どんな風景が待っているのでしょうか…
先ほどの標識から先、すぐにこの山最後のトイレ。
途中紅葉はまだ、でも山茶花は咲き出しています、
「近畿自然歩道」の案内板があるところ、
突然、人が続々現れ…
みなさま、「やっと着いたねぇ 」
右手に登山道があって「当麻寺」から登ってこられたとのこと。
(地図を見ればなかなかの激務に思われますが…)
ワタシは「雄岳」へ行ってきます、と別れ砂利道を進みます。
12時7分発。
紅葉も少しずつ進み、赤い実が目の前に迫る!
秋の風情を感じる尾根道を進みます。
ここが「馬の背」といわれる「雄岳」へ続く尾根道ですが、
木製階段ずっと続きます、足を踏み外したらどうしよう?
多分悩むことはないです、慎重に踏み締めていけば大丈夫!
時折覗く山の景色と、いい塩梅の歩幅の木の階段に感謝しつつ進みます。
時々下山する方と出会います、細い道なのでそこは譲り合い。
そこで「こんにちは!…」と会話が生まれます、ちょっと嬉しい気分になります(笑)。
先ほどの「トイレ」のある場所から100mと書いてありましたが、
この階段の100mなので…ご想像にお任せ。
さぁ、着きましたよ「雄岳山頂 」12時24分着。
「雌岳」からの高低差43m、「雌岳」までの登り道を思うと、
この「馬の背」越えは楽勝気分に感じましたが…
「金剛生駒国定公園」
小さなこの広場のような場所から少し進むと
「葛城経塚」、「葛木二上神社」とそのご神木。
まだその先に進むと
真っ直ぐ進むと「二上山駅」へ
木々に囲まれている「雄岳山頂」は、ほぼ眺望はありません。が、
歴史的な出来事はこの山頂からずっと見てきたのではないかと…
そんなことを思わせる厳かな雰囲気があります。
丁度ここで、奈良側から「雄岳」へ登って来られた方とお話が出来、
奈良側の麓に住んでいるので日課のように登ってきます、と。
流石、日常お散歩?登山コースなのですね
丁度、この石碑の前で出会いました…
「大津皇子御墓 東一丁」
ワタシは「大津皇子のお墓があると聞いて登ってきましたけど…」
「もう少し先に進むとありますよ、帰り道なので一緒に行きましょう」と。
案内して頂き、「また会えるといいですね」と彼女とお別れして、
反対側の道を進みます。
何かしら凛としてきます
「天武天皇皇子 大津皇子 二上山墓」(宮内庁)
後日、2021/11/7朝刊で『死地に赴く弟思う斎王』という中日新聞記事を読みました。
三重県明和町の「斎宮跡」から西の山並みに沈む夕日を見て、
≪飛鳥時代以降、天皇に代わり、天照大神に仕える未婚の皇女たちが伊勢に派遣された。
彼女たちは生まれ育った都からここに移住し、神に対する祈りの日々を送った。
初代の斎王・大伯皇女(オオクノヒメミコ・661~701年) もそうだった。
天武天皇の皇女である彼女は、この地にやってきたとき、まだ12歳の少女だった。
686年の秋、彼女の一つ年下の弟・大津皇子(オオツノミコ)がこの地を訪れる。
謀反の疑いを掛けられていた彼は、姉に暇乞いをしにきたのである。
涙の対面ののち、彼は再び大和へ帰っていく。
姉も弟も、これが今生の別れであることを知っている。その時に歌われたのが
「わが背子(セコ)を 大和へ遣(ヤ)ると さ夜更けて 暁露(アカトキツユ)に わが立ち濡れし」
恋することを禁じられていた斎王の彼女にとって、死地に赴こうとする弟は、
肉親の枠を超えた情愛の対象だったのだろう。
古代の伊勢街道は、飯高の山並みを縫うようにして大和に繋がっていた。
大伯皇女も大和に思いを馳せつつ西の山並みを見ていたことでしょう。≫
概ねこんな内容で、blog知人のdawnさんが伝えてくださったのは、
こういうことだったのね、と納得のお話でした。
今思うと、我が三重明和町の斎宮にいたお姉さんと、
大和「二上山」に眠る弟の悲しく切ないお話…
※参考文献①「三重歴史の情報蔵」より
※②「日本文化の入り口」より
今日は、ここでおしまい。
知人の紹介と、dawnさんの「大伯皇女、大津皇子」姉弟の別れの歌があるというお話がなければ
行くことはなかったかもしれません。
歴史的なことを含めて大阪側・奈良側の景色を「二上山」に登って、見てみたかった…
「二上山登山」にはいろんなコースがあるようですので、是非お好みのコースを…
しんどいことにいつまで挑戦できるかわかりませんが、「体感」することはいいことだ!をモットーに
もう少し頑張ります、またいろいろ教えてくださいね。
実地で踏破されるのは、頭の中で考えているよりも、はるかに価値があると思います。私も機会を見つけて行ってみたいです。
大津皇子のお墓を宮内庁が管理していることなど、私が知らない情報を教えていただき、ありがとうございます。