せっかく登録された国土地理院の「自然災害伝承碑(伊賀版)」なので、
6/12の午後、確認のため走りました(笑)🚙
島ケ原・正月堂前【山津波災害記念碑】(ヤマツナミサイガイキネンヒ)
正月堂正面にサツキと共に
伊勢湾台風より6年も前(昭和28年/1953年/8/14)に起きた大豪雨により
山崩れや土石流が各所で発生し、土砂が濁流のごとく奔流し、
一瞬にして多数の人命を奪った…
その記憶を残すための「災害伝承碑」です。
観菩提寺正月堂の山門と本堂(国重文)、
ここにおられる『観菩提寺正月堂御本尊「木造十一面観音立像」』は、
33年に一度御開帳されています。
次は、多分2048年だと思います。
(前回の御開帳時から換算すると…)
ぶんと通信より
広報いがしより
島ケ原から西山※に抜け、JR関西線を跨いで北上。
※旧上野市西山地区の土石流について
≪三重県上野市では、1953年8 月15日午前0 時を過ぎた頃から激しい豪雨となり、
1 時間最大雨量81mm、総雨量287mm に達した(上野市史・自然編,2004)。
この豪雨により,木津川断層帯の急斜面地帯である上野市西山で土石流が頻発し、
死者・行方不明14名の被害を被った、
島ヶ原村史(1983)によれば、15名の死者を出している。≫とのことです。
まさに、その一帯を通りましたが、ワタシが生まれる前の事で(ハハのお腹の中にはいたけれど)、
こうやって話を聞いたり、記録を読むことでしか知ることのできない
災害の歴史がそこここにある…
さて、次なる「自然災害伝承碑」を訪ねたのは、
野間・慶明寺【安政伊賀上野地震供養塔】(アンセイイガウエノジシンクヨウトウ)
慶明寺さんの駐車場に車を止め、
慶明寺と六地蔵様
はて?石碑はどこにあるものかとgoogleさんの航空写真で探す…
(新聞記事ではたしか「墓地」にあるとのこと)
google navi の仰せの通り歩いて進むと、、、
説明版がありました…
googleさんのテキストコピーによると…
『市指定有形文化財(歴史資料)
安政伊賀上野地震供養塔 (伊賀市野間)
この塔は、嘉永七(一八五四)年六月十四日に発生した伊賀上野地震
における野間村の横死者を埋葬した場所に、安政七(一八六〇)年三月
に七回忌追善法要として建てられた供養塔です。
当時野間村には浄土宗の空照山慶明寺と、天台真盛宗の平楽山西雲
寺の二か寺があり、慶明寺の檀徒二十六人と西雲寺の檀徒九人が横死
し、合わせて三十五人がこの地に埋葬されました。
二段積みの花崗岩製の基礎石(高さ五十二㎝)の上に、三層の台石(計
六十四㎝)を重ねていて、三層のうち、下二層は四角柱の石材を組み合
わせていますが、最上層は一石積みとなっています。その上に高さ八十
一cmの石碑を載せていて、総高は百九十七㎝です。
石碑の正面には「南無阿弥陀仏」と陰刻され、他の三面には横死者三
十五人の戒名が陰刻されています。三層の台石のうち、最上段のものに
は、三面にわたって建碑の由緒が刻まれています。
安政伊賀上野地震の供養塔
として「法華経塔」(服部町)が ありますが、
本供養塔も地震による災害を今に伝える貴重 な資料です。』
『建碑の由緒
(南面) 嘉永七寅 六月十四日の夜
大地震に家潰れ 当色に死者三十五人
此処にこれを葬
(西面) ことし七回忌に当れば 横死菩提の
為にこれを建て 追善を営むもの也
(北面) 安政七庚申三月発起 善三郎
世話人 周吉 住僧 戴誉
(平成二十四年三月二十八日指定) 伊賀市教育委員会』
≪供養塔そのものは、江戸末期/1860年(安政7)に造られ、
2段積みの花崗岩製の基礎石の上に、3層の台石(計64㎝)を重ねている。
下2層は四角柱の石材を組み合わせている≫(文化遺産オンラインHPより)
※安政伊賀上野地震:参考資料として
「blog:三重県伊賀地域の情景」をリンクさせていただきます
では、「避水徒民碑」(小田・平井神社)へつづく
6/12の午後、確認のため走りました(笑)🚙
島ケ原・正月堂前【山津波災害記念碑】(ヤマツナミサイガイキネンヒ)
正月堂正面にサツキと共に
伊勢湾台風より6年も前(昭和28年/1953年/8/14)に起きた大豪雨により
山崩れや土石流が各所で発生し、土砂が濁流のごとく奔流し、
一瞬にして多数の人命を奪った…
その記憶を残すための「災害伝承碑」です。
観菩提寺正月堂の山門と本堂(国重文)、
ここにおられる『観菩提寺正月堂御本尊「木造十一面観音立像」』は、
33年に一度御開帳されています。
次は、多分2048年だと思います。
(前回の御開帳時から換算すると…)
ぶんと通信より
広報いがしより
島ケ原から西山※に抜け、JR関西線を跨いで北上。
※旧上野市西山地区の土石流について
≪三重県上野市では、1953年8 月15日午前0 時を過ぎた頃から激しい豪雨となり、
1 時間最大雨量81mm、総雨量287mm に達した(上野市史・自然編,2004)。
この豪雨により,木津川断層帯の急斜面地帯である上野市西山で土石流が頻発し、
死者・行方不明14名の被害を被った、
島ヶ原村史(1983)によれば、15名の死者を出している。≫とのことです。
まさに、その一帯を通りましたが、ワタシが生まれる前の事で(ハハのお腹の中にはいたけれど)、
こうやって話を聞いたり、記録を読むことでしか知ることのできない
災害の歴史がそこここにある…
さて、次なる「自然災害伝承碑」を訪ねたのは、
野間・慶明寺【安政伊賀上野地震供養塔】(アンセイイガウエノジシンクヨウトウ)
慶明寺さんの駐車場に車を止め、
慶明寺と六地蔵様
はて?石碑はどこにあるものかとgoogleさんの航空写真で探す…
(新聞記事ではたしか「墓地」にあるとのこと)
google navi の仰せの通り歩いて進むと、、、
説明版がありました…
googleさんのテキストコピーによると…
『市指定有形文化財(歴史資料)
安政伊賀上野地震供養塔 (伊賀市野間)
この塔は、嘉永七(一八五四)年六月十四日に発生した伊賀上野地震
における野間村の横死者を埋葬した場所に、安政七(一八六〇)年三月
に七回忌追善法要として建てられた供養塔です。
当時野間村には浄土宗の空照山慶明寺と、天台真盛宗の平楽山西雲
寺の二か寺があり、慶明寺の檀徒二十六人と西雲寺の檀徒九人が横死
し、合わせて三十五人がこの地に埋葬されました。
二段積みの花崗岩製の基礎石(高さ五十二㎝)の上に、三層の台石(計
六十四㎝)を重ねていて、三層のうち、下二層は四角柱の石材を組み合
わせていますが、最上層は一石積みとなっています。その上に高さ八十
一cmの石碑を載せていて、総高は百九十七㎝です。
石碑の正面には「南無阿弥陀仏」と陰刻され、他の三面には横死者三
十五人の戒名が陰刻されています。三層の台石のうち、最上段のものに
は、三面にわたって建碑の由緒が刻まれています。
安政伊賀上野地震の供養塔
として「法華経塔」(服部町)が ありますが、
本供養塔も地震による災害を今に伝える貴重 な資料です。』
『建碑の由緒
(南面) 嘉永七寅 六月十四日の夜
大地震に家潰れ 当色に死者三十五人
此処にこれを葬
(西面) ことし七回忌に当れば 横死菩提の
為にこれを建て 追善を営むもの也
(北面) 安政七庚申三月発起 善三郎
世話人 周吉 住僧 戴誉
(平成二十四年三月二十八日指定) 伊賀市教育委員会』
≪供養塔そのものは、江戸末期/1860年(安政7)に造られ、
2段積みの花崗岩製の基礎石の上に、3層の台石(計64㎝)を重ねている。
下2層は四角柱の石材を組み合わせている≫(文化遺産オンラインHPより)
※安政伊賀上野地震:参考資料として
「blog:三重県伊賀地域の情景」をリンクさせていただきます
では、「避水徒民碑」(小田・平井神社)へつづく
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