井上章一『妄想かも知れない日本の歴史』を読む。
歴史とは、一見「事実」を追う学問のように見えて、その実そこには学ぶ側の
「こうあってほしい」
「こうあるべき」
という妄想というか、
「それはおまえの趣味か、思想や!」
つっこみたくなるような説が、目白押しである。
それこそ将門の首塚や「義経ジンギスカン説」など歴史のトンデモ説が有名だが、この本ではそういったファンタジーから、また著者独自の切り口である「日本に古代はない」という、先鋭的な説なども紹介している、たいそうおもしろい本である。
その中で
「『沈黙』の読みかた」
という章がある。
『沈黙』とは自身もカトリックであるである、遠藤周作氏による小説で、マーティン・スコセッシ監督の傑作映画『沈黙-サイレンス』の原作。
江戸時代、禁じられていたキリスト教を広めようと、単身日本に乗りこんでくる、ポルトガル人宣教師ロドリゴを主人公とした物語。
この小説、とにかく全編を通しての流れとしては、
「迫害され、ボロボロになりながら、這うように逃げるロドリゴ」
と、それを捕まえたあと、
「日本にはキリスト教は広まらない、お前のやっていることは、しょせんは無駄な努力だ」
そうひたすら、棄教をうながす井上筑前守のやりとりにより成り立っている。
私も読んだことがあるが、そのときの感想は、
「あー、これは極上の同性愛的SM小説やなあ」
というと、
「またまた、オマエはウケを狙って、ひねくれたことばかりいって……」
怒られそうだが、いや、これ本当なのである。
ごくごくふつうに、学校の先生が
「本は素直な気持ちで読みなさい」
いうのならって、そう読んだら、自然とそういう感想になったのである。
だって、井上筑前守ときたら、捕らえたロドリゴを、とにかく言葉と心理的からめ手によって責め苛み、徹底的に無力感を味あわせ、しまいには
「さあ、あなたの愛するこの人を脚で踏むんだ」
とか追いこむのである。
どう見ても、これは「そういうプレイ」である。
また、ロドリゴも、なんせガチのキリスト教徒なもんだから、
「踏んだらゆるしてくれるンッスか? まじボクちゃん超ラッキーボーイ!」
みたいな軽いタイプでなく(当たり前だ)、とにかくどんな責めにも、耐えて耐えて耐え抜くという、理想的なMなのである。
同じ状況になったら、私なら5秒で踏むけどね。
そら、井上さんも、気合いも入ろうというもの。
もう、女王様ならぬ「筑前守サマとお呼び!」てなもんだ。
この解釈を全面的に支持してくれるのが、井上章一氏である。
「当局側のさまざまなてくだが、ロドリゴの心をむしばんでいく。それは、ほんのわずかなほころびをあたえることから、はじまった。そして、クライマックスでは、全身をうちのめすかのように、おしよせる」
ときて、続けて
「私はそのドラマ作りに、ラベルの『ボレロ』を連想する。ロドリゴへの責めが、クレッシェンドにつぐクレッシェンドで、高まっていく音楽を」。
さらには、
「あるいは、加速されていくSMプレイを、感じないでもない。鞭が蝋燭が縄が、ロドリゴをいじめ、さいなみ、もてあそぶ。そして、大団円では、ロドリゴのあじわう被虐の法悦境が、しめされる」
どうです、井上章一絶好調という感じでしょう。
私の解釈と、まったく同じである。SMシーンにラベルの『ボレロ』とくる。耽美的ですなあ。
これはどう見てもプレイだ。ホントに、読んだらわかります。
いたずら者の狐狸庵先生のこと、きっと確信犯的に、ニヤニヤしながら書いていたに違いない。
このように、井上章一先生による学術的根拠を得た、私の『沈黙』読解によると、この小説は
「ボーイズラブ好き女子、必読の監禁調教小説」
ということであるが、もちろん国語のテスト的には0点の回答。
私と同じく「自然に」読んで、この本で課題の読書感想文を書こうとしていた生徒がいたら、注意が必要である。
(次回【→こちら】もこの話題続きます)