前回(→こちら)の続き。
藤井猛竜王と羽生善治五冠(王位・王座・棋王・棋聖・王将)で戦われた、第13期竜王戦の最終局は、芸術的な駒組で藤井が序中盤を圧倒する。
手段に窮した羽生は、なんと△86歩と、僻地の歩を突いて手を渡した。
まるで王座戦の再来のようで、羽生はこうした1手パスのような手を駆使し、数え切れないほどの逆転勝ちを生み出してきたが、こればっかりは、さすがに苦し紛れ感がかくせない。
いや、それどころかこの手が最終盤で、とんでもないドラマを生む「敗着」(意味は違うが感覚としてはそうなる)になるのだが、それについては『将棋世界』に掲載された、先崎学九段の「一歩竜王」という観戦記を読んでいただきたい。
……というのがベストなんですが、現在この文が収録された本などがないようなので、ポイントの局面だけでもここで語ってみたい(先崎九段の名文は『将棋世界』2001年3月号に。振り飛車党と藤井ファンは古書店をまわる価値あり)。
△86歩には、当然▲25歩と突いて、玉頭から押しつぶしにかかる。
△同歩に、▲56金と力強く出て、△22角に▲44歩が、筋中の筋という気持ちよすぎる突き出し。
後手は△86突いたからには、どこかで△87歩成としたいが、それには▲48飛の活用が今でいう「絶品チーズバーガー」。
やむをえない△同角に、▲45金とブルドーザーがぐいぐい前進し、気分はド必勝。
パンチが急所に次々と入り、藤井流の表現を借りれば、
「そろそろ帰り支度をはじめるところ」
という形に見える。
ここまでいいところのない羽生だが、▲45金に、ここで△42飛と眠っていた飛車を活用。
これがしぶとい手で、先崎九段いわく、
「ここまでで唯一ともいえる、羽生らしい手」
これに幻惑されたのか、▲34金と捨て、激しく寄せに言ったのが疑問で、ややまぎれ形に。
さすがの藤井も勝ちを意識したのか、寄せ方がぎこちなく、もてあまし気味に見えたが、ここでふんばって、最終盤は先手に勝ちがありそう。
△66角と打ったのが、羽生の祈りをこめた最後の勝負手だが、まだ詰めろではない。
なら、ここで後手玉に一手スキをかければハッキリ勝ちだが、先手はまだ攻め駒が1枚足りない。
だがそれが、思いもかけないところに、落ちているではないか……。
▲86歩と、ここで取るのが、「一歩竜王」の意味だった。
中盤での△86歩の手渡しが、これまで幾多のドラマを生み出してきた「羽生マジック」のタネ駒が。
この最後の最後という場面で、まさかの裏の目に出てしまった。▲24歩以下の詰めろに、受けがない。
もちろん、羽生が△86歩と突いた時点で、両者がここまで考えていたわけではない。さすがに、そんなことは不可能だ。
だからこれは紙一重、まさに歩が一枚分の「運」としかいいようがない。
この12番勝負はどちらも、86の歩が勝負を分ける、不思議なめぐりあわせになっていた。
こうして激戦の末、藤井竜王が防衛を決めたが、このとき私は確信したのである。
「藤井猛こそが最強の棋士である」と。
将棋界には、藤井よりもたくさん勝ったり、タイトルを取っている棋士はいる。
だが、強さと創造性を両立させることに関して、藤井猛を超えるかもしれないという棋士が、そう多くいるとも私には思えないのだ。
(藤井システムの成り立ち編に続く→こちら)