「自分は消化試合、相手は人生がかかった大一番」の戦い方 大野源一vs米長邦雄 1970年 B級1組順位戦

2021年06月17日 | 将棋・名局

 「消化試合」をどう戦うかは、判断がむずかしいところである。

 そういうときのモチベーションは、人それぞれだろう。

 どんなときも全力という人もいれば、ここでムキになってもなあと、軽く流すパターンもありだ。

 その思想はそれこそ、人の数だけあるだろうが、ここにひとつ、この問題にある種の「正解」を出した棋士が、かつていた。

 前回は鈴木大介九段が、降級のピンチで見せた衝撃の勝負手を紹介したが(→こちら)、今回はまさにそこで、対戦相手の畠山鎮が直面した、ある「哲学」のお話。

 

 1970年B級1組順位戦の最終局は、後の将棋界に、大きな影響をあたえることになる1日だった。

 注目だった将棋は2局あり、ひとつが大野源一八段と、米長邦雄七段の一戦。

 もうひとつが、芹沢博文八段と、中原誠七段の戦いだ。

 この期のB1は、内藤國雄棋聖がすでに昇級を決めており、のこり1枠をかけた戦いを残すのみとなっていた。

 自力なのは大野で、米長に勝てば、文句なくA級復帰が決まる。

 大野が敗れると、芹沢と中原の勝った方が昇級

 米長はひとり蚊帳の外で、消化試合となっている。

 「名人候補」で今で言う藤井聡太王位棋聖のような存在だった、中原の戦いぶりも気になるが、それ以上に話題を集めたのが大野の躍進。

 なんと、このとき58歳

 大ベテランなうえに、大野は「振り飛車名人」として人気も高い棋士。

 当然、マスコミも大きく取り上げるはずで、現に米長自身すら、

 


 「大野さんがA級に復帰すれば、年齢が年齢なだけにニュースになる。敬愛する大先輩にうまく指されて負かされたいとチラリと思ったものです」


 

 今で言えば「通算1000勝まで、あと少し」な、桐山清澄九段の戦いのようなものか。

 様々な因縁がからんだ一戦は、先手大野の中飛車で幕を開ける。

 米長は引き角から、銀を△73にくり出し攻勢を取るが、大野も力強く受け止めて、着々と反撃の態勢を整えていく。

 むかえたこの局面。

 

 

 角取りを△74歩と受けたところだが、この1手前の▲78飛が好手で、すでに先手がさばけ形

 ここで、振り飛車の心得がある。

 あまたのスペシャリストたちが、口をそろえて言うその極意とは……。

 

 

 

 

 ▲75飛、△同歩、▲53角成、△同金、▲71角、△52飛、▲53角成、△同飛、▲44銀

 長手順でもうしわけないが筋はいたってシンプルで、先手は飛車も角もぶった切って食いついていく。

 これぞ、久保利明藤井猛鈴木大介、中田功といったジェダイたちが伝える振り飛車の筋。

 そう、

 

 「飛車は切るもの」

 

 相手が攻めてきたところを、大駒を駆使してかわしておいて、スキありと見れば、一気にラッシュをかける。

 あとは美濃の耐久力にものをいわせて、小駒でベタベタくっついていく。

 これこそが、振り飛車の理想的な勝ちパターンなのだ。

 さすがは、久保利明の将棋に影響をあたえまくった、「元祖さばきのアーティスト

 この大一番でも、持ち味を発揮しまくっているが、ただし相手は中原誠と並ぶ若手のホープである米長邦雄

 「負かされたい」といいながらも、勝負師の本能は、そう簡単に割り切らせてくれないのだ。

 

 

 

 

 ▲44銀に、△43飛が「泥沼流」米長邦雄のうまいねばり。

 △52飛△51飛では、▲53金とか▲62銀とか、金銀で飛車をいじめられ、「玉飛接近」の形では、そのまま寄せられてしまう。

 そこでガツンと、飛車をぶつける。

 これで巻き返しとはならないが、一目、最善のがんばりなのはよくわかる。

 大野は▲同銀成と取って、▲82飛と自然にせまるが、後手も△52飛の力強い合駒。

 

 ▲81飛成としたところで、△51底歩を打って耐える。

 その後も大野の攻めを、2枚のを駆使して、なんとかしのぐ。

 それでも先手勝勢だが、最初は迷っていた米長も、ここまできたら負けられない。

 

 △48歩と打つのが、美濃くずしの手筋で、これがまた悩ましい。

 どう応じても味が悪く、先手の攻め駒の渋滞っぷりを見ても、いかにも「もてあましている」という感じがするではないか。

 それでもまだ、大野が勝っていたが、ついにひっくり返ったのが、この局面。

 

 ここでは▲55銀と王手して、△同馬位置を変えてから、▲52竜引と取れば先手が勝ちだった。

 

   ▲55銀、△同馬、▲52竜の局面。

 

 ところが大野は、単に▲52竜引としてしまう。

 すかさず、△39銀と打たれて大逆転

 

 

 

 以下、▲同玉△48馬と切って(この筋を消すのが▲55銀の効果だった)▲同玉に△57金、▲同玉、△45桂打でまさかの大トン死。

 

 

 以下、▲67玉、△68金、▲同玉、△46角、▲78玉に、△66桂から2枚のも足りてピッタリ詰みで、まさに「勝ち将棋、鬼のごとし」。

 こうして、大野の58歳A級復帰という夢は絶たれた。

 一方、芹沢-中原戦は、このころ芹沢必勝に。

 ところが、ちょっとしたアヤで芹沢が「米長勝ち」を察した途端に指し手が乱れ、そこから大逆転

 このあたり、米長の著者では

 


 「芹沢さんは気づかずに戦っていた」


 

 とあり、意見のわかれるところのようだが、他力がからんだ勝負では、場の空気から状況が読める(人の出入りが激しくなったり、逆に観戦者が露骨に興味を失うとか)ことがあるらしく、

 

 「知らされてはいないが、ほぼほぼ、わかってしまっていた」

 

 みたいな話はよく聞く。

 また、米長の大野への想いなども、書く人や時代によって温度差があったり、中身や解釈も違っていることが多いが、それが「伝説」というものだろう。

 ちなみに中原はこちらは本当に、なにも気づかず指し続けていたそう。

 それが幸いしたとなれば、いかにも人間らしいというか、できすぎた話のようだが、これで中原が逆転昇級を決め大名人へ大きく前進。

 もし大野が、あの将棋を順当に勝っていたら、中原のA級昇級は最低でも一年遅れていた。
 
 のちに「名人15期」を誇ることになる中原だから、ここで一回停滞したところで、歴史はたいしては変わらなかったろう。
 
 が、それはあくまで結果を知ってのはなしであって、現実はわからない。
 
 「一年を棒に振った」ダメージは尾を引いたかもしれず、その意味では大野だけでなく、もっと大きななにかを変えたかもしれない。
 
 もしかしたら、のちに中原に何度も名人位をはばまれることとなる、米長本人の運命すらゆるがしたやもしれぬ、「消化試合」でのがんばりだった。
 

 

 (「米長哲学」に関する議論編に続く→こちら

 

 (久保利明に感銘をあたえた大野のさばきは→こちら) 

 


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