ウィルス
インターナショナルウィークが終了、各選手たちもチームに戻ってきました。ですが…。
Parte Medico: Danilo
本日、ウニベルシタ・サニタス・ラ・モラレハ病院で検査を受けたダニーロは、右足底腱膜損傷と診断された。
-----------------------------------
各紙の見立てでは、全治1ケ月とのこと。
またハメスは、既にチームに合流しているはずですが、木曜のトレーニングではピッチに姿を現さず。試合や映像を見ていないので、具体的にどんな状態で…というのはわからないのですが、コロンビア vs ペルーの親善試合で酷いタックルを受け、途中交代で下がる羽目になったようです。コロンビア代表のドクターによると「膝への外傷、しかし深刻なものではない」だそうですが、週末のエスパニョール戦欠場の可能性もあるとのこと。
幸いなことに、他の選手たちは元気に戻ってこられたようです。水曜は室内調整だったクリスチアーノやマルセロ、セルヒオ・ラモスも、木曜は全体練習に合流しました。
ラファエル・ヴァラン
フランス誌 "le JDD"から。フランス語記事訳は慣れてないので、だいたいそんな感じ、くらいの理解でお願いします。
-------------------------------------
若い頃のドレッドヘア(「プレイするとそんなに快適ではないんだ」)をカットして以来、まったく伝統的なヘアスタイル、身体にタトゥはなく(「好みは大きく変わるものだからね」)、そして話す内容はしばしば標準的になる。ラファエル・ヴァラン、22歳にして既に多くの代表戦に出場し、ピッチの中でも外でも、語ること以上にものを成し遂げる。今週、クレールフォンテーヌにて、レアル・マドリーのディフェンダーは、レ・ブルーの未来を約束し、笑顔と共に殻を割って話をしてくれた。
「奇妙なことだけど、自然とはじまったんだ。僕がRCランスのトレーニングセンターに行った時(2002年のこと、当時10歳)、僕は自分に100%賭けていた。でも当時、自分がプロフェッショナル選手としてやっていくなんて、実際には想像もしなかった。リザーブチームでプレイし始めた時(2010年、17歳)でも、まだそんな風には思わなかった。そこで、プロに行くようにと一晩中頼まれたんだ(2010年10月のこと)。一連の出来事はまったく牧歌的だったね。まだ子供で、そんなキャリアの始まりは夢にも思ってなかった。もしフットボール選手になっていなかったら、フィジオセラピストになっていたかな。彼らと話すのが好きだし、自分の身体が感じていることを理解するのが好きなんだ。」
最初の給料をもらったこと
「契約志望者の認可に、およそ300ユーロ。そこで母の議決だ。「置いておきなさい!」 それで、貯金した。僕は15歳で、トレーニングセンターに行くのにお金はかからないし、それが一番適当だったんだろう。最初に自分自身のお金を使ったのは、ブランドジーンズを買うため。当時は、ずいぶん高いものを買ったと思ったよ。独立したという気持ちは自分で嬉しかった。臆病になったのは、最初の車、メルセデスC63 AMGを買った時。ただばかげたことをしたわけではなくて、僕には余裕もあったし、気まぐれで何かする人間でもないからね。」
キャプテンだったこと。
「ランスにいた18歳の時、特別な経験があった。リーグ最終戦の1つ前で、リーグ・ドゥに降格することが決まった(2011年5月)。それでチームを理解することを学んだ。キャプテンになることは、大きなプレッシャーだった。驚いたし、チームメイトたちと向かい合って困惑もした。でもそれはとても名誉なこと、どこにいても身震いを感じた。根本的には、フランス代表の時(2014年秋、アルメニア戦、スウェーデン戦でキャプテンを務めた)には、もっと落ち着いていられた。既にそのチームでしばらくやっていたから。でも、リーダーの役割っていうのは奇妙なものだ…僕は叫んだり、モチベーションを上げて回ったりする人間ではないから。その一方で、僕には兄としての側面もある。チームメイトたちに代わって、彼らの状態が良くなければそういって話す。そうやってこなしてきた、自分よりも経験がある選手たちと一緒でもね。」
ジダンを忘れたこと。
(2011年5月、フロレンティーノ・ペレスのアドバイザーだったジダンは、レアル・マドリーとの契約を確信させるため、ヴァランに電話をかけた。バカロレアESの試験勉強でいっぱいだったヴァランは、また後で電話するようにとジダンに頼んだ。)
「僕の無頓着さの結果だね。それからは、きちんと対応するようになった。おかげでしっかりなれたよ。この歳で可能な限り多くの物事を注意深くして過ごしていかなければいけない、とね。でも正直なところ、この電話をもらった後は、もう試験勉強どころではなくなってしまったんだ。僕の人生でもっともクレイジーな時期だったよ! 僕はバカロレアの準備をしている、電話は鳴りやまない、レアルのトレーニング施設を訪問して、アレックス・ファーガソンにも会って……想像してほしいよ、他の学生たちにサインしながら試験期間を過ごしたんだから。理解できない、シュールな状態だった。これを乗り越えたことを、より誇らしく感じすらしたよ。」
ミスをしてきた
「あるトーナメントにランスのU-16チームで参加した時、僕は15歳で、自分の場所を勝ち取りたかった。最初の試合、始まって10分で、僕は自分たちのゴールに得点を決めてしまった。そしてシーズンの大半をU-15で過ごした…。プロの試合では、特に思い出すのが4-0で敗れたアトレチコ戦(今年2月…あれね)。実際のミスはなかったとしても、同じような失点に僕には責任がある。チームと一緒に僕も落ち込んでしまった。チャンピオンズ・リーグでのユベントス戦(2013年11月、2-2)では、僕は良いプレイぶりではなかった(ポグバにタックルし、ペナルティの原因に)けど、それ以上の穴にはなっていない。ワールドカップでの対フンメルス? マスコミの人たちだけがその話を僕にしてくる。それもフットボールの一部だけど、それも同じようにシンプルなものだ。」
メディアと話す
「ランスにいた時、フランス代表と同じように、最初のプレスカンファレンスには、すごくストレスを感じた。毎回そんな風には見えないと言われたけど、でも確実に、自分の中では緊張していたんだ。僕が専門用語を駆使しているマスターか? だますようなことは言わないようにしているけれど、いくつかは繊細な話題だ。注意深く反応しなければいけなくなるし、そうでなければはぐらかす。自分たちの落とし穴にならないように。そうだね、出て行く言葉の要素には注意深くしているよ。
モウリーニョにカツを入れられた
「マドリーでの2シーズン目(2012/2013)、ジョゼ・モウリーニョに叱られた。僕は良い状態じゃなくて、こうしたいと思うことがピッチでできないでいた。そこをモウリーニョに言われた。「なんでトレーニングで走ってるようにやれないんだ?」って。僕の最初の反応は、不満をモゴモゴ言うだけ。「はぁ、わかりましたけど…」って。でも、彼が正しいとわかっていた。僕はもっとできたんだから。モウリーニョはよくそうやって正してくれた。彼には、長々とスピーチをする必要はない。性格で、直接的だ。それが僕自身には良かった。僕には、自分が良いプレイをできるようにと自分自身に問うことが必要なんだ。この一貫したプレッシャーがなければ、僕は自分のやれるところで安楽になりがちで、それは自分には良くないことだ。子供の頃、父に何度か言われたことだ。僕は全体に活動的すぎて、今の落ち着いて見えるというのとは対象的にね。兄弟姉妹とはしゃぎすぎることもあったけど、父の言葉が僕を落ち着かせてくれたんだ。」
一晩中ダンス
「6月に結婚したんだ。すごく嬉しい、もちろんね。でも、式を挙げた市庁舎と教会でのことは、8万人の人たちの前でプレイするよりもはるかにプレッシャーのかかるものだったよ。式があることがマスコミにわかってしまって、そういう人たちは避けて、愛する人たちとだけで式を挙げたかったんだけど。結局、集まった人たちは、僕たちを見てとても嬉しそうだったけどね。それから、僕は一晩中踊っていた。家族は本当に驚いていたよ、そんな僕は見たことがなかったわけだからね。僕は、ダンスは下手なわけじゃない、ただシャイなんだ。でも一旦スタートしたら、もう止められないよ! かかってた曲は、カリビアンミュージックが多かったね。それからヒップホップ、レゲエ、ラガ、等々も。僕はレゲトンから始めたけど、それはこの種の曲がマドリーのロッカールームではいっぱいかかっているからなんだ。レ・ブルーでは他のジャンルだけど、でもそれがいい曲じゃなかったら、曲を変えてやるのに僕は躊躇しないよ。」
-------------------------------------