ごくあたりまえに、"それはそうである"と思っていることについて、あえて、"それはなぜそうなのか"と問うことはしないような気がします。
「問題は、わからないものをわからないとしておくことができずに、自分のわかるようにわかって、わかった気になっている、このことである」(p.41)
ドイツの思想家 ヘーゲルが説いた弁証法なるものは、"それがそうであること"と"それがそうではないこと"といった対立した事象から、なんらかの意味や価値を見いだす考え方だそうです。
ふと、眼下に拡がる世界をじっくりと見つめてみれば、効率化や成果が求められる世界であくせくする自分が属するその世界なるものは、蒼空に抱かれた大自然からみれば特異的な事象かもしれず、ありのままの自分にとってあるべき世界なるものとは限らないのかもしれません。
「わからないことをわからないと曖昧に眼をそらすのではなく、『わからない!』とさらに眼を開いて凝視する」(p.42)
「睥睨するヘーゲル」というタイトルは、現状に流されることなく凝視して、それがありのままの自分にとって、あるべき世界なるものかどうか問い続けることの大切さを示唆しているような気がします。
初稿 2022/11/03
出典「睥睨するヘーゲル」 池田晶子, 1997.
写真 "世界なるものを凝視する姿"
撮影 2022/04/23(東京・朝倉彫塑館)
「問題は、わからないものをわからないとしておくことができずに、自分のわかるようにわかって、わかった気になっている、このことである」(p.41)
ドイツの思想家 ヘーゲルが説いた弁証法なるものは、"それがそうであること"と"それがそうではないこと"といった対立した事象から、なんらかの意味や価値を見いだす考え方だそうです。
ふと、眼下に拡がる世界をじっくりと見つめてみれば、効率化や成果が求められる世界であくせくする自分が属するその世界なるものは、蒼空に抱かれた大自然からみれば特異的な事象かもしれず、ありのままの自分にとってあるべき世界なるものとは限らないのかもしれません。
「わからないことをわからないと曖昧に眼をそらすのではなく、『わからない!』とさらに眼を開いて凝視する」(p.42)
「睥睨するヘーゲル」というタイトルは、現状に流されることなく凝視して、それがありのままの自分にとって、あるべき世界なるものかどうか問い続けることの大切さを示唆しているような気がします。
初稿 2022/11/03
出典「睥睨するヘーゲル」 池田晶子, 1997.
写真 "世界なるものを凝視する姿"
撮影 2022/04/23(東京・朝倉彫塑館)
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