「……………………………え?」
脳に達するまで数秒かかった。
娘……? 娘にならない?って………?
「国中あかね。うん。悪くないでしょ?」
「………国中?」
なんで…………
「今日、離婚届出してきたの。正式に処理されるのは休み明けになるみたいだけど」
「え」
「だから私、佐藤から国中に戻るの。国中綾」
「…………あ」
思い出した。今日、綾さんと旦那さんが歩いていった方向……区役所がある。上京したての時に驚いたのだ。なんでこんな繁華街の中に役所があるんだ?って……。
「区役所に行くところだったのね……」
「え?」
「あ、いや………今日、駅で見かけたの。綾さんと……旦那さん」
綾さんはきょとんとしてから、
「そうなの? 声かけてくれれば良かったのに」
「………なんか、楽しそうだったから」
「それはそうよー。だってようやく離婚できるんだもの」
「……………」
なんだろう……この脱力感……
「別に一緒に出しに行く必要はなかったんだけど、どちらかが出しに行くっていうのもお互い信用できなくてね。だったら一緒に行こうってことになってて。で、今日急に時間が空いたって連絡があったから急きょ行くことになって」
「そう……なんだ」
でもでも、綾さん、旦那さんの姿を見つけた時、すごい笑ってて……
言うと、綾さんは首を傾げてから、ああ、と手を打った。
「佐藤さん、普段車でしか移動しないから、電車乗り慣れてなくてね。電車乗り間違うし、待ち合わせの場所にくるのにも駅構内を彷徨うし、なんだかものすごい大変だったらしくて。途中でヘルプの電話もかかってきてね。ようやく来た時にはちょっと泣きそうな顔してたから、おもわず笑っちゃったの」
「…………」
あの笑い顔は、それですか……。
「あかね?」
「あ、いや………」
あれだけ悩んでた時間はなんだったんだ……
「………さっさと帰ってくればよかった」
「飲んでたのね?」
「あ……ごめんなさい。連絡もせず遅くなって……。もしかしてお酒臭い?」
綾さんは首を振ると、くんくんと鼻を私の肩に近づけた。
「あそこにいってたんでしょ? あかねがアルバイトしてたバー。バイト帰りのあかねの匂いがする」
「…………すごい」
20年も前の匂い、覚えてるの?
「お店、まだあるのね。今度連れていってね? 昔、結局行けなかったものね」
「ダメダメ」
思わず即答で断ってしまい、綾さんがムッとする。
「どうして?」
「だって綾さんが誰かに目つけられたら嫌だもん。絶対絶対ダメ」
「変なの」
あきれたようにいう綾さん。
そうだ。あきれるほど、だ。あきれるほどに、私は心が狭い。嫉妬心の塊だ。
「綾さん………本当に、離婚して良かったの?」
「当たり前じゃない」
引き続きあきれるように言う綾さん。
「でも、子供たちが……」
「そのことなんだけど」
綾さんがピッと一本指を立てた。
「私、やっぱりどうしても美咲を引き取りたいの。……いい、よね?」
「うんうん。もちろん。私もそのつもりだったよ」
こくこくと肯くと、綾さんが安心したように言葉を続けた。
「そのためには、自立して働いていることが第一条件だと思う。とりあえずそれはクリアになったから、あとは美咲の気持ちの問題で……」
「美咲さんはやっぱりまだおばあさんと暮らしたいって?」
「そうなんだけど……でも、義母も忙しい人だから夜遅かったり朝早かったりしててね。今は健人がいるからいいけど、健人も美咲のことが気になって家から出られないだけで、本当は出ていきたいみたいだし」
健人さんは、父親、祖母、そして母である綾さんに説得され、とりあえず大学は卒業する、ということになったらしい。でも、その後どこに就職するかは本人に任せる、という条件つきだそうだ。父親と祖母はあと3年半の間になんとか気持ちを変えさせようとたくらんでいるらしいが。
「美咲も私と暮らすとどんなふうなのかが想像できないから、こないっていってるっていうのもあると思うの」
「確かに」
「だから、急で申し訳ないんだけど、明日、美咲をここに呼んだの。大丈夫だった?」
「うん。もちろん」
大きくうなずく。私も前々から美咲に遊びにくるよう誘っていたのだ。
「何時頃? 親子水入らずの方がいいでしょ? 私出てるから……」
「何いってるの?」
綾さん、三度目のあきれ顔。一番あきれたような表情。
「あなたもいなくちゃ意味ないでしょ。これから家族として一緒に暮らしていこうっていうのに」
「……………え」
…………かぞく?
「家族?」
「そうよ? 家族になるのよ? 私達」
綾さんの、何驚いてるの?バカな子ね、という声が聞こえてきそうな瞳……。
「家族……?」
「あかね? 何……」
綾さんの言葉が途中で止まった。だって………。
「あかね……」
再び、その温かくて柔らかい胸に引き寄せられる。ゆっくりと頭をなでてくれる手……。
「何泣いてるの」
「だって………」
今日の今日、実の母に捨てられた。元々いらない子だった私。
その私を綾さんは家族って……
ピッピッピッピッっと、オーブンレンジが焼き上がりを伝える音を鳴らしている。クッキーの第二弾が焼けたようだ。
「……クッキー、明日、美咲さんが来るから焼いてたのね?」
「違うわよ? 美咲のほうがついで」
「え」
顔をあげると、綾さんの穏やかな瞳がこちらを見かえしていた。
「こういう可愛い食べ物って、嬉しいことがあったときも悲しいことがあったときも、食べたくならない?」
「そうだね……」
「あかね、いつまでたっても帰ってこないから何かあったんだろうなって思ってね。だから、あかねが嬉しい気持ちでも悲しい気持でも大丈夫なように、作って待ってたの」
「………綾さん」
その細い指をぎゅっと握る。何でもできちゃう魔法の手。大好きな大好きな綾さんの手……。
「私……そんな風にしてもらえるような人間じゃないよ」
「何言ってるのよ」
綾さんがぎゅっと手を握り返してくれる。
「だいたい、それは私が決めることよ」
にっこりとする綾さん。
「私がそうしたいって思うからしてるの。あかねにとやかく言われることじゃないわ」
「綾さん……」
「私、決めたの。もう、後悔したり言い訳したりするのはやめるって」
綾さんの瞳に光彩がともる。あの時……舞台裏で見た綾さんと同じ。私が惹かれた光。
綾さんは、真っ直ぐに私を見上げると、ふわりとほほ笑んだ。
「あなたを愛しているわ。あかね」
綾さんの、優しい声。
「私はずっとあなたのそばにいる」
「綾さ……」
「ずっとよ? おばあちゃんになっても。死んじゃっても、よ」
「…………」
ああ、どうしてあなたは……
「あかね」
そっと、唇がおりてくる。瞼に頬に耳に首筋に……
「綾さん……」
「ん?」
「こわいよ、綾さん」
思わず、綾さんの柔らかい腰にすがりつく。
「何がこわいの?」
「……消えてしまうのが」
愛は消えるもの。消えてしまうもの。
19年、待っていたのは、本当はつらくなかった。だって、待っている間はそこに確実にあったから。得るために努力している間はそこに確実に存在していたから。
今、せっかくあなたを手に入れたのに、会えなかった19年よりもこんなに不安なのは、得たものが離れることを知っているから。あなたもいつかいなくなる……。
「消えないわ」
「綾さん」
「いなくならないわよ」
ポツポツとシャツのボタンが外されていく。綾さんの指が私の素肌の腕を優しくなでていく。
「『誰のものにもならないあかね』」
「…………」
ゆっくりと、綾さんの唇が近づいてくる。
「私のものになって?」
「綾さ……」
「愛してるわ」
重ねられた唇……柔らかい、愛おしい唇……。
「綾さん……」
綾さんの指に指を絡ませる。
「私は……もうとっくに、綾さんのものだよ」
「そう?」
ふっと笑みをつくる綾さん。胸がぎゅっとなる。
「でも……つらい。不安で押しつぶされそう」
「何が不安?」
「綾さんが……いなくなることが」
「いなくならないわ」
瞼に唇がおりてくる。
「大丈夫。不安になったら教えて? いつでも言うから」
「うん……」
「私はあなたのそばにいる」
「うん」
「愛してるわ。あかね」
「私も……綾さん」
その白いうなじに口づける。
「愛してる……綾さん」
もう……逃げない。愛することから逃げない。愛されることから逃げない。
『愛すること、愛されることを恐れないで』
陶子さんの言葉がよみがえる。陶子さん……私、もう、逃げないよ。
----------------------------
この物語で一番書きたかったシーンの一つなのでした。誰のものにもならないあかねを抱く綾さん。
失うことが怖くて誰のものにもなれなかったあかねが、ようやく心を開く、という……。
………ちゃんと書けてる?伝わる?これで?
一人称って、その人の気持ちはたくさんかけるけど、相手の気持ちをかけないことが残念。
綾さん、就職して離婚して変わりました。
息子の健人にさんざん「言い訳ばかりの人生」と言われてきたけど、就職して自分に自信がついて、そして、離婚も成立して、ようやく自分の足で立つ覚悟ができました。だからもう言い訳はしません。欲しい物は手に入れるよう頑張ります。
あかね、綾さんと暮らし始めて約2か月、一歩間違うとまた女遊びをはじめてしまいそうな不安定な精神状態からよく耐えました。他の女に逃げないで偉かった。いや、ホント。他の人とどうにかなって泥沼とかならなくて良かった。うん。幸せになりなさいな。
脳に達するまで数秒かかった。
娘……? 娘にならない?って………?
「国中あかね。うん。悪くないでしょ?」
「………国中?」
なんで…………
「今日、離婚届出してきたの。正式に処理されるのは休み明けになるみたいだけど」
「え」
「だから私、佐藤から国中に戻るの。国中綾」
「…………あ」
思い出した。今日、綾さんと旦那さんが歩いていった方向……区役所がある。上京したての時に驚いたのだ。なんでこんな繁華街の中に役所があるんだ?って……。
「区役所に行くところだったのね……」
「え?」
「あ、いや………今日、駅で見かけたの。綾さんと……旦那さん」
綾さんはきょとんとしてから、
「そうなの? 声かけてくれれば良かったのに」
「………なんか、楽しそうだったから」
「それはそうよー。だってようやく離婚できるんだもの」
「……………」
なんだろう……この脱力感……
「別に一緒に出しに行く必要はなかったんだけど、どちらかが出しに行くっていうのもお互い信用できなくてね。だったら一緒に行こうってことになってて。で、今日急に時間が空いたって連絡があったから急きょ行くことになって」
「そう……なんだ」
でもでも、綾さん、旦那さんの姿を見つけた時、すごい笑ってて……
言うと、綾さんは首を傾げてから、ああ、と手を打った。
「佐藤さん、普段車でしか移動しないから、電車乗り慣れてなくてね。電車乗り間違うし、待ち合わせの場所にくるのにも駅構内を彷徨うし、なんだかものすごい大変だったらしくて。途中でヘルプの電話もかかってきてね。ようやく来た時にはちょっと泣きそうな顔してたから、おもわず笑っちゃったの」
「…………」
あの笑い顔は、それですか……。
「あかね?」
「あ、いや………」
あれだけ悩んでた時間はなんだったんだ……
「………さっさと帰ってくればよかった」
「飲んでたのね?」
「あ……ごめんなさい。連絡もせず遅くなって……。もしかしてお酒臭い?」
綾さんは首を振ると、くんくんと鼻を私の肩に近づけた。
「あそこにいってたんでしょ? あかねがアルバイトしてたバー。バイト帰りのあかねの匂いがする」
「…………すごい」
20年も前の匂い、覚えてるの?
「お店、まだあるのね。今度連れていってね? 昔、結局行けなかったものね」
「ダメダメ」
思わず即答で断ってしまい、綾さんがムッとする。
「どうして?」
「だって綾さんが誰かに目つけられたら嫌だもん。絶対絶対ダメ」
「変なの」
あきれたようにいう綾さん。
そうだ。あきれるほど、だ。あきれるほどに、私は心が狭い。嫉妬心の塊だ。
「綾さん………本当に、離婚して良かったの?」
「当たり前じゃない」
引き続きあきれるように言う綾さん。
「でも、子供たちが……」
「そのことなんだけど」
綾さんがピッと一本指を立てた。
「私、やっぱりどうしても美咲を引き取りたいの。……いい、よね?」
「うんうん。もちろん。私もそのつもりだったよ」
こくこくと肯くと、綾さんが安心したように言葉を続けた。
「そのためには、自立して働いていることが第一条件だと思う。とりあえずそれはクリアになったから、あとは美咲の気持ちの問題で……」
「美咲さんはやっぱりまだおばあさんと暮らしたいって?」
「そうなんだけど……でも、義母も忙しい人だから夜遅かったり朝早かったりしててね。今は健人がいるからいいけど、健人も美咲のことが気になって家から出られないだけで、本当は出ていきたいみたいだし」
健人さんは、父親、祖母、そして母である綾さんに説得され、とりあえず大学は卒業する、ということになったらしい。でも、その後どこに就職するかは本人に任せる、という条件つきだそうだ。父親と祖母はあと3年半の間になんとか気持ちを変えさせようとたくらんでいるらしいが。
「美咲も私と暮らすとどんなふうなのかが想像できないから、こないっていってるっていうのもあると思うの」
「確かに」
「だから、急で申し訳ないんだけど、明日、美咲をここに呼んだの。大丈夫だった?」
「うん。もちろん」
大きくうなずく。私も前々から美咲に遊びにくるよう誘っていたのだ。
「何時頃? 親子水入らずの方がいいでしょ? 私出てるから……」
「何いってるの?」
綾さん、三度目のあきれ顔。一番あきれたような表情。
「あなたもいなくちゃ意味ないでしょ。これから家族として一緒に暮らしていこうっていうのに」
「……………え」
…………かぞく?
「家族?」
「そうよ? 家族になるのよ? 私達」
綾さんの、何驚いてるの?バカな子ね、という声が聞こえてきそうな瞳……。
「家族……?」
「あかね? 何……」
綾さんの言葉が途中で止まった。だって………。
「あかね……」
再び、その温かくて柔らかい胸に引き寄せられる。ゆっくりと頭をなでてくれる手……。
「何泣いてるの」
「だって………」
今日の今日、実の母に捨てられた。元々いらない子だった私。
その私を綾さんは家族って……
ピッピッピッピッっと、オーブンレンジが焼き上がりを伝える音を鳴らしている。クッキーの第二弾が焼けたようだ。
「……クッキー、明日、美咲さんが来るから焼いてたのね?」
「違うわよ? 美咲のほうがついで」
「え」
顔をあげると、綾さんの穏やかな瞳がこちらを見かえしていた。
「こういう可愛い食べ物って、嬉しいことがあったときも悲しいことがあったときも、食べたくならない?」
「そうだね……」
「あかね、いつまでたっても帰ってこないから何かあったんだろうなって思ってね。だから、あかねが嬉しい気持ちでも悲しい気持でも大丈夫なように、作って待ってたの」
「………綾さん」
その細い指をぎゅっと握る。何でもできちゃう魔法の手。大好きな大好きな綾さんの手……。
「私……そんな風にしてもらえるような人間じゃないよ」
「何言ってるのよ」
綾さんがぎゅっと手を握り返してくれる。
「だいたい、それは私が決めることよ」
にっこりとする綾さん。
「私がそうしたいって思うからしてるの。あかねにとやかく言われることじゃないわ」
「綾さん……」
「私、決めたの。もう、後悔したり言い訳したりするのはやめるって」
綾さんの瞳に光彩がともる。あの時……舞台裏で見た綾さんと同じ。私が惹かれた光。
綾さんは、真っ直ぐに私を見上げると、ふわりとほほ笑んだ。
「あなたを愛しているわ。あかね」
綾さんの、優しい声。
「私はずっとあなたのそばにいる」
「綾さ……」
「ずっとよ? おばあちゃんになっても。死んじゃっても、よ」
「…………」
ああ、どうしてあなたは……
「あかね」
そっと、唇がおりてくる。瞼に頬に耳に首筋に……
「綾さん……」
「ん?」
「こわいよ、綾さん」
思わず、綾さんの柔らかい腰にすがりつく。
「何がこわいの?」
「……消えてしまうのが」
愛は消えるもの。消えてしまうもの。
19年、待っていたのは、本当はつらくなかった。だって、待っている間はそこに確実にあったから。得るために努力している間はそこに確実に存在していたから。
今、せっかくあなたを手に入れたのに、会えなかった19年よりもこんなに不安なのは、得たものが離れることを知っているから。あなたもいつかいなくなる……。
「消えないわ」
「綾さん」
「いなくならないわよ」
ポツポツとシャツのボタンが外されていく。綾さんの指が私の素肌の腕を優しくなでていく。
「『誰のものにもならないあかね』」
「…………」
ゆっくりと、綾さんの唇が近づいてくる。
「私のものになって?」
「綾さ……」
「愛してるわ」
重ねられた唇……柔らかい、愛おしい唇……。
「綾さん……」
綾さんの指に指を絡ませる。
「私は……もうとっくに、綾さんのものだよ」
「そう?」
ふっと笑みをつくる綾さん。胸がぎゅっとなる。
「でも……つらい。不安で押しつぶされそう」
「何が不安?」
「綾さんが……いなくなることが」
「いなくならないわ」
瞼に唇がおりてくる。
「大丈夫。不安になったら教えて? いつでも言うから」
「うん……」
「私はあなたのそばにいる」
「うん」
「愛してるわ。あかね」
「私も……綾さん」
その白いうなじに口づける。
「愛してる……綾さん」
もう……逃げない。愛することから逃げない。愛されることから逃げない。
『愛すること、愛されることを恐れないで』
陶子さんの言葉がよみがえる。陶子さん……私、もう、逃げないよ。
----------------------------
この物語で一番書きたかったシーンの一つなのでした。誰のものにもならないあかねを抱く綾さん。
失うことが怖くて誰のものにもなれなかったあかねが、ようやく心を開く、という……。
………ちゃんと書けてる?伝わる?これで?
一人称って、その人の気持ちはたくさんかけるけど、相手の気持ちをかけないことが残念。
綾さん、就職して離婚して変わりました。
息子の健人にさんざん「言い訳ばかりの人生」と言われてきたけど、就職して自分に自信がついて、そして、離婚も成立して、ようやく自分の足で立つ覚悟ができました。だからもう言い訳はしません。欲しい物は手に入れるよう頑張ります。
あかね、綾さんと暮らし始めて約2か月、一歩間違うとまた女遊びをはじめてしまいそうな不安定な精神状態からよく耐えました。他の女に逃げないで偉かった。いや、ホント。他の人とどうにかなって泥沼とかならなくて良かった。うん。幸せになりなさいな。