三十八歳の誕生日は日曜日だった。十年前に約束した日がもうきてしまった。
「どこに行きたい?」
夫に聞かれた。行きたい場所、特にない。行ってはいけない場所ならある。十年前に約束をした噴水。今もあるだろうか。
「別にないよ」
「そういうと思ったから、もう予約したよ」
差し出されたチラシを見て、固まってしまった。例の噴水のある駅が最寄り駅となっているレストランだったのだ。
「こ、ここ?」
「前にこの駅の近くに住んでたことあるって言ってたよな? 懐かしいだろ? ここのレストラン、プレイルームがあるから、子供達も遊べるし、いいかと思って。ワインもおいしいっていうし、車じゃなくて電車で行こうな。二十分くらいで着くだろ」
「う……」
色々な思いが渦巻いて、めまいがしてきた。
「アヤカ、ユイ、今日はお出かけするぞ」
子供達の歓声が遠くに聞こえる。
「……いるはずない」
いるはずない。あれから十年だ。彼は高校を卒業してから、アメリカに留学したと噂で聞いた。たくさんの出会いがあっただろう。私の過ごした十年とは桁違いの経験をしただろう。きっと忘れている。ひと夏一緒に過ごしただけの、十歳年上の女の誕生日なんて。
出かけるためにメイクをはじめる。鏡に映る疲れた顔。いくら誤魔化そうとファンデーションを塗りたくっても誤魔化せない歳。
「……会いたくない」
心から思った。彼の中の私は、十年前のままでいい。十年前のままがいい。
久しぶりに降り立った駅は、十年前とはまるで違っていた。駅舎の建て直しがあったようだ。駅横のアイスクリーム屋もたい焼き屋に変わっていた。アヤカが「食べたい!」と指をさし、夫を困らせている。
十年前、あのアイスクリーム屋で三段重ねのアイスクリームを買い、そして……。
「……ないじゃん」
噴水のあった場所は、バスターミナルになっていた。
「何がないんだ?」
「ここ、噴水があったのよ。結構大きな……」
ふ、とおかしくなってきた。やはり十年は長い。無くなるもの、変わっていくものばかりだ。私も変わりすぎるほど変わった。
「ユイ、ベビーカーに乗せるか?」
夫にベビーカーを渡され、抱っこしていたユイを座らせる。そして、先を歩いていった夫とアヤカの姿を探そうと、顔を上げたときだった。
「サエコさん?」
「!」
ぎゅうっと頭を何かに掴まれた感じがした。振り返ってはいけない、と頭の中で誰かが言う。でも、振り返ってしまった。心がその甘美な声の響きを求めてしまったから。
目の前に、彼がいた。記憶の中の彼より、背は少し高く、髪は少し短くなっている。白のサマーセーター。濃い色のジーンズ。もう少年ではない。でも、確かに、彼だった。瞳の色だけは少しも変わっていない。
「……シュウ、くん」
かろうじて、声はでた。でも口の中が乾いてそれ以上なにも言えない。駅前の喧騒も消え去り、長い長い沈黙だけが残った。
「えーと……」
でもきっと、そう思ったのは気のせいで、たいして沈黙は流れなかったのだと思う。シュウは十年前と同じ無邪気な瞳で、ベビーカーの中のユイをのぞきこんだ。
「息子さん?」
「娘!ピンク着てるのになんで息子なの!」
瞬時に言い返して、顔を見合わせた。ぷっと吹き出すシュウ。
「変わってないね。サエコさん」
サエコさん。サエコさん……。甘い響き。めまいがする。どれくらいこの声が好きだっただろう。どれくらいこの唇を愛しただろう。どれくらい……。
「ママ~? どうしたの~?」
はっと我に返った。アヤカが走ってくる。夫がその後ろからゆっくりと歩いてくる。
「旦那さん?」
「……うん」
気まずさを心の中に押し込めて、走ってきたアヤカを受け止める。
「こんにちは!」
幼稚園に入ってから、アヤカはすっかり挨拶が上手になった。
「こんにちは!」
シュウがつられたように元気に挨拶を返してくれる。アヤカが嬉しそうに笑う。
「ママのお友達?」
「違うよ。お友達じゃないよ」
シュウがアヤカの前にしゃがみこんだ。目線を同じにしてくれている。
「お友達じゃないなら、なに?」
「なんだと思う?」
シュウは笑いながら立ち上がり、そばにきた夫に向かって軽く会釈をした。
「サエコさんには昔、ファミレスのバイトでお世話になりまして……」
「ああ、そうなんですか。どうも」
余所向けの笑いを浮かべた夫は妙に大人に見えた。二十八歳のシュウは大人になってはいたけれど、四十歳を過ぎた夫と比べれば、まだまだ子供のようだった。
「今日ママの誕生日なんだよ! だからレストランでお食事するの!」
アヤカが飛び跳ねながら夫の手を掴むと、
「早く行こ! お兄ちゃんバイバイね!」
苦笑する夫を引っ張って、先に進もうとしはじめた。夫が「じゃあ」とシュウに頭を下げて歩いていく。
「サエコさん」
ふっとシュウが笑った。
「幸せそうだね」
「………」
切ない。この感情は『切ない』という言葉が当てはまる。
「ママ~早く~」
アヤカの声。シュウに軽く頭を下げて、夫とアヤカの元に歩き始める。ユイを乗せたベビーカーを押しながら、出来るだけ颯爽と歩く。シュウの視線を背中に感じている間は、少しでも綺麗に歩きたかった。
「どこに行きたい?」
夫に聞かれた。行きたい場所、特にない。行ってはいけない場所ならある。十年前に約束をした噴水。今もあるだろうか。
「別にないよ」
「そういうと思ったから、もう予約したよ」
差し出されたチラシを見て、固まってしまった。例の噴水のある駅が最寄り駅となっているレストランだったのだ。
「こ、ここ?」
「前にこの駅の近くに住んでたことあるって言ってたよな? 懐かしいだろ? ここのレストラン、プレイルームがあるから、子供達も遊べるし、いいかと思って。ワインもおいしいっていうし、車じゃなくて電車で行こうな。二十分くらいで着くだろ」
「う……」
色々な思いが渦巻いて、めまいがしてきた。
「アヤカ、ユイ、今日はお出かけするぞ」
子供達の歓声が遠くに聞こえる。
「……いるはずない」
いるはずない。あれから十年だ。彼は高校を卒業してから、アメリカに留学したと噂で聞いた。たくさんの出会いがあっただろう。私の過ごした十年とは桁違いの経験をしただろう。きっと忘れている。ひと夏一緒に過ごしただけの、十歳年上の女の誕生日なんて。
出かけるためにメイクをはじめる。鏡に映る疲れた顔。いくら誤魔化そうとファンデーションを塗りたくっても誤魔化せない歳。
「……会いたくない」
心から思った。彼の中の私は、十年前のままでいい。十年前のままがいい。
久しぶりに降り立った駅は、十年前とはまるで違っていた。駅舎の建て直しがあったようだ。駅横のアイスクリーム屋もたい焼き屋に変わっていた。アヤカが「食べたい!」と指をさし、夫を困らせている。
十年前、あのアイスクリーム屋で三段重ねのアイスクリームを買い、そして……。
「……ないじゃん」
噴水のあった場所は、バスターミナルになっていた。
「何がないんだ?」
「ここ、噴水があったのよ。結構大きな……」
ふ、とおかしくなってきた。やはり十年は長い。無くなるもの、変わっていくものばかりだ。私も変わりすぎるほど変わった。
「ユイ、ベビーカーに乗せるか?」
夫にベビーカーを渡され、抱っこしていたユイを座らせる。そして、先を歩いていった夫とアヤカの姿を探そうと、顔を上げたときだった。
「サエコさん?」
「!」
ぎゅうっと頭を何かに掴まれた感じがした。振り返ってはいけない、と頭の中で誰かが言う。でも、振り返ってしまった。心がその甘美な声の響きを求めてしまったから。
目の前に、彼がいた。記憶の中の彼より、背は少し高く、髪は少し短くなっている。白のサマーセーター。濃い色のジーンズ。もう少年ではない。でも、確かに、彼だった。瞳の色だけは少しも変わっていない。
「……シュウ、くん」
かろうじて、声はでた。でも口の中が乾いてそれ以上なにも言えない。駅前の喧騒も消え去り、長い長い沈黙だけが残った。
「えーと……」
でもきっと、そう思ったのは気のせいで、たいして沈黙は流れなかったのだと思う。シュウは十年前と同じ無邪気な瞳で、ベビーカーの中のユイをのぞきこんだ。
「息子さん?」
「娘!ピンク着てるのになんで息子なの!」
瞬時に言い返して、顔を見合わせた。ぷっと吹き出すシュウ。
「変わってないね。サエコさん」
サエコさん。サエコさん……。甘い響き。めまいがする。どれくらいこの声が好きだっただろう。どれくらいこの唇を愛しただろう。どれくらい……。
「ママ~? どうしたの~?」
はっと我に返った。アヤカが走ってくる。夫がその後ろからゆっくりと歩いてくる。
「旦那さん?」
「……うん」
気まずさを心の中に押し込めて、走ってきたアヤカを受け止める。
「こんにちは!」
幼稚園に入ってから、アヤカはすっかり挨拶が上手になった。
「こんにちは!」
シュウがつられたように元気に挨拶を返してくれる。アヤカが嬉しそうに笑う。
「ママのお友達?」
「違うよ。お友達じゃないよ」
シュウがアヤカの前にしゃがみこんだ。目線を同じにしてくれている。
「お友達じゃないなら、なに?」
「なんだと思う?」
シュウは笑いながら立ち上がり、そばにきた夫に向かって軽く会釈をした。
「サエコさんには昔、ファミレスのバイトでお世話になりまして……」
「ああ、そうなんですか。どうも」
余所向けの笑いを浮かべた夫は妙に大人に見えた。二十八歳のシュウは大人になってはいたけれど、四十歳を過ぎた夫と比べれば、まだまだ子供のようだった。
「今日ママの誕生日なんだよ! だからレストランでお食事するの!」
アヤカが飛び跳ねながら夫の手を掴むと、
「早く行こ! お兄ちゃんバイバイね!」
苦笑する夫を引っ張って、先に進もうとしはじめた。夫が「じゃあ」とシュウに頭を下げて歩いていく。
「サエコさん」
ふっとシュウが笑った。
「幸せそうだね」
「………」
切ない。この感情は『切ない』という言葉が当てはまる。
「ママ~早く~」
アヤカの声。シュウに軽く頭を下げて、夫とアヤカの元に歩き始める。ユイを乗せたベビーカーを押しながら、出来るだけ颯爽と歩く。シュウの視線を背中に感じている間は、少しでも綺麗に歩きたかった。