【慶視点】
久しぶりに浩介と喧嘩した。
きっかけは、浩介の車の迎えを断った当日に、タイミング悪く、知り合いの車で送ってもらってしまったことだった。
迎えに来てもらえることは、正直、体力的に有り難かったし、少しの時間だけどドライブしてるみたいで気分転換にもなって楽しかったので、ついついずっと甘えてしまっていた。
でも、そのために浩介が早起きをして晩御飯の用意をしている姿を見た瞬間に、背筋が凍った。
(おれはまた、甘えてる)
忙しいことを理由に、浩介に甘えてばかりだった昔の自分を思い出して、ゾッとした。こうして無理をさせて、おれは……おれは。
「もう迎えに来なくていい。運動不足になるから歩きたいし」
咄嗟に、そういった。運動不足のことはとってつけた理由だったけれど、実際ちょっと気にはなっていたので、嘘ではない。
でも、結局、この日、知人にたまたま車で送ってもらってしまって、浩介の機嫌がみるみる悪くなって……。言い争ったら余計なことを言ってしまいそうで、
「うるせえなあ。そんなことより、メシ」
思わずそう言って言葉を遮ったら、浩介がプチッと切れた。本来ならここで話し合うべきだったんだろうけど、おれも冷静に話せる自信がなくて、これ以上の会話は避けた。
でも結局、翌朝、話の流れで、雨の日に昔の記憶がよみがえってしまうことを浩介に知られてしまい……
(最悪だ)
これでは雨が降る度に、浩介が心配してしまう。こうなることが嫌でずっと黙っていたのに……。
約17年前の雨の朝、浩介はおれの前から姿を消した。あの日の絶望感は、何をどうやっても消すことはできない。
浩介と一緒に東南アジアを転々としていた間は、忙しかったことと、異国に一緒にいる、という安心感からか、思い出すことも少なかったように思う。
でも、帰国して……、精神的や肉体的に落ちているときの、特に雨の日に、ふ、と不安に襲われるようになった。それはもうどうしようもない。その都度、浩介に連絡を取ったりして、逃れてきた。そうなる回数も年々減っていたし、こうして自分の中で解決すればいいと思っていた。それなのに…………
(失敗した)
なんでバレたんだ。もっと上手く誤魔化せれば……。
後悔先に立たず。それから数日、ギクシャクしたまま過ごすことになった。でも、とにかく『お迎え』は止めるようにした。木曜日に雨は降ったけれど、運良く帰宅時間には降らなかったので助かった。
でも、土曜日は、シッカリと雨が降ってしまい……
『8時の電車に乗る』
毎日の習慣で、渋谷で何時の電車になるか分かった時点でラインを打ったけれど、正直、気が重かった。
今日は浩介は休みだし、『車で迎えにいく』ってラインが返ってくるだろうか? それとも、来るなと言われたことを気にして何も言ってこないか……?
と、思っていたら、
『了解です。改札で待ち合わせね♥』
と、ノーテンキな返事がきた。
(改札で待ち合わせ?)
スーパーの駐車場に車を停めてあるのか? ただのお迎えだと、道路に停めて乗り込むけれど、迎えついでに買い物をしている時は、改札で待ち合わせることもある。
(じゃあ……まあ……いいか)
買い物のついでなら……、と思っていたら、続けてラインが入った。
『相合い傘で帰ろうね♥』
……………………………。は?
相合い傘? 何言ってんだこいつ? まさかこの雨の中、傘持たずに来たのか?
意味分かんねえなあ……
頭をハテナでいっぱいにしながら最寄り駅に到着。改札を出た先に、約束通り浩介がいた。
「慶!」
「……………………………」
思わず、ぐっと詰まってしまう。
マスクをしていても伝わってくる温かい笑顔。未だにときめいてしまうおれも大概だよな……。何年、いや、何十年もたつのに……。
そんなおれに気がついた様子もなく、浩介は機嫌良く「おかえりなさい!」というと、
「ほら!これなら相合い傘できるよ!」
と、右手を突き出してきた。そこには見覚えのない、やたらと長い傘。
「こんな傘持ってたっけ?」
聞くと、浩介は、
「借りにいったら、使わないからくれるってー」
借りにいった? 誰に?
というおれの質問は聞こえなかったようで、
「ほらほら、大きいでしょ? これなら相合い傘しても濡れないよ♥」
はしゃいだように言いながら、歩き始めた。屋根がなくなったところで、ばさりと傘が開く。
「うわ、でけーな」
「でしょでしょー? ほらほら入って入って!」
入ってと言われても……
「おれも傘持ってんだけど……」
「いいからいいから!」
腕を取られ、無理矢理相合い傘が始まる。
「今日、ホントに寒いよねー。でも慶とくっついてるとあったかい♥」
「…………」
確かに冷たい雨の中、必然的にくっついている場所から体温が伝わってくる。一緒に聞く雨の音。一緒の傘で避けられる冷たい雨……
あの朝の雨は、もっと冷たかったな……
(……って、違う違う)
危うく記憶の深淵に沈みそうになり、頭を軽くふる。話題を変えよう。話題を。
「で、この傘誰にもらったんだ?」
どうせ、あかねさんだろ?と言ってみると、浩介は、
あの朝の雨は、もっと冷たかったな……
(……って、違う違う)
危うく記憶の深淵に沈みそうになり、頭を軽くふる。話題を変えよう。話題を。
「で、この傘誰にもらったんだ?」
どうせ、あかねさんだろ?と言ってみると、浩介は、
「違うよー。ほら、これ読める?」
と言って、柄をこちらに見せた。何か小さな字が彫ってある……が。
「嫌味か。こんな暗いところでこんな細かい字見えるわけねーだろ」
数年前から早々にはじまった老眼のせいで、小さい字は全然読めない。しかも夜になると余計に読めない。
すると、老眼がまだきていない浩介が「やっぱりダメだったか」とちょっと笑ってから、スイッとおれの手をとって、その彫に指をそわせた。
すると、老眼がまだきていない浩介が「やっぱりダメだったか」とちょっと笑ってから、スイッとおれの手をとって、その彫に指をそわせた。
「ローマ字でね、名前が彫ってあるの」
「名前?」
「うん。てぃーえーでぃーえーおー、えすえー……」
「…………」
TADAO SAKURAI……ただおさくらい。
桜井、忠雄。
浩介の、お父さんだ。
「…………ああ、なるほど」
「うん」
「お父さんのか」
「うん」
「うん」
お父さんに、借りにいったんだ……。
胸がつまって声が出なくなる。
17年前、浩介が日本から出て行ったのは、ご両親と距離を置きたかったということが、大きな理由でもあった。帰国したばかりの頃は、お母さんに再会しただけで嘔吐してしまうほどの拒否反応がでていた。それを少しずつ少しずつ緩和していって……
「あのね、雨の日の良い思い出を作ろうと思ったんだよ」
「あのね、雨の日の良い思い出を作ろうと思ったんだよ」
浩介の優しい声が、傘の中でこだまする。
「それで何がいいかなーと思って……で、相合傘!って思いついて」
「………」
浩介はニコニコしながら言葉を継いだ。
「で、昔、実家にすごい大きな傘があったこと思い出したの。大きすぎて使いにくいとかいって、父も全然使ってなくて」
「…………」
「でも結構、高級そうな傘だったからさ。きっと30年たっても悪くなってないから、絶対捨ててないだろうって思って電話で聞いてみたら、やっぱり捨ててなくて」
指をそわせるために取られた手が、いつのまに「包み込む」に変わって、大きな傘を二人で掴んでいる。
「で、くれるっていうからもらったんだよ。このご時世だから、中には入らないで、玄関先でちょっと喋っただけだけど」
「そっか……」
おれは自分の両親にも浩介の両親にも、2月以来、一度も会っていない。浩介が一目でも会えたなら良かった。
「お父さんもお母さんも元気だったか?」
「うん。あいかわらず。もともと好んで人づきあいする人達じゃないから、生活変わってないしね。むしろ、行きたくない付き合いに行かなくてすむようになって喜んでたよ」
「そっか」
浩介のお父さんとお母さんは、夫婦で庭いじりを趣味としている。お父さんは読書家だし、お母さんは裁縫や料理も趣味だし、この出かけられない生活も特に問題ないのかもしれない。
うちの両親は、飲み会大好き・外出大好きなので、相当ストレスがたまっている。趣味の絵画教室やフラダンス教室が最近ようやく復活したと、先日の電話でも嬉しそうに言っていた。
夫婦も色々だな。おれたちも30年後、どうなってるかな……
「あ、でね、おかず色々もらえたから、今日も明日もご飯炊くだけで大丈夫ー」
「お。さすが」
浩介のお母さんは料理上手だ。きっと張り切って息子に持たせるための料理を作ってくれたことだろう。それを喜んで受け取ることができるようになった浩介。この数年で本当に、本当に変わった。こんな風に両親の話ができるなんて……
「あ、でね、父がインスタ始めたんだよ」
「は?! インスタ?!」
「うん。ひたすら、ご飯と植物が写ってる」
「へええええ……」
86歳でインスタ。すげーな……
「うち帰ったら見せるね」
「おお」
雨の中、聞こえてくる浩介の嬉しそうな声。
浩介……本当に、本当に……日本に帰ってきて良かったな。
「相合傘いいねえ」
「……おお」
「手、くっついててもバレないし」
「……だな」
くっついているところから伝わってくる体温。
(雨の日の良い思い出……か)
以前、浩介が言っていたことがある。
昔の辛い記憶がよみがえった時には、ひたすらに、おれとの楽しい思い出を思い出す、と。そうして辛い記憶から抜け出すのだと。
すいっと浩介を見上げると、昔から変わらない大好きな浩介の瞳が優しく微笑んでいる。
「慶」
「…………」
ここにいる、浩介。
隣に並んで歩いてる。
17年前、日本から逃げ出した浩介。
でも、今はもう、逃げ出す理由は……ない。理由はもう、作らせない。
「慶?」
「…………」
くそ。泣きそうだ。なんだこれ。
「慶? どうかし……」
「あ!」
誤魔化すために、「そういえば!」と、浩介の手をパチパチ叩いてやる。
「相合い傘といえば、お前、高校の時に美幸さんと相合い傘してたよなー」
「…………う」
覚えてたか……とボソッと言った浩介。ってことは、当然、浩介も覚えてるんだよな。
「あー思い出して腹立ってきた」
「えええ」
「あー腹立つー」
「ちょっと待ってよ。あれ、そもそも慶が待ち伏せしろってけしかけたんじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
あいかわらず恐ろしい記憶力の浩介。
「もー変なことばっかり覚えてるんだから慶はっ」
「それだけ辛かったからなーあー片思い辛かったなー」
「もーやめてー」
「やめねー」
「えー」
言いながらも二人で笑いだしてしまう。
さすがにまだ、17年前の朝を笑い話にすることはできないけれど……、でも、今度思い出して沈み込みそうになったら、今日のことを思い出そう。そうしたら、きっと……きっと。
「こうやって、ずっとずっと、一緒に歩いていこうね?」
「…………おお」
おれ達はずっと一緒にいられる。雨が降っていても、こうして同じ傘を二人でさして。
終
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切るに切れず、長々と失礼しました。最後までお読みくださり本当にありがとうございます!!
ようやく少しは慶のトラウマが薄まったかなあ?
でも、前から思ってたんですけど、この件、慶だけが被害者面するのってすごいモヤるんですよね〜〜。元々あの頃、慶がもっと浩介と向き合えていれば、少なくとも何も言わずに出ていくことはなかったでしょうに……。もちろん、その反省も含めてのトラウマなんだけどさ……でもモヤるわ〜〜。もうこの件で浩介の前でウジウジするのは止めてほしいわ〜〜。なんて思いました。
ということで。
ランキングクリックしてくださった方、読みにきてくださった方、本当に本当にありがとうございます!おかげで解決編も無事におわりました。
また今度……