***
殴られる覚悟で部屋を訪れたけれど、拍子抜けするくらい、慶は冷静だった。お風呂に入ったらしく、髪が濡れている。入浴することで気持ちを落ち着けたのかもしれない。
「でけーカバンだな。もうアパート引き払ったってことか?」
「あ……うん」
今朝、アパートは引き払った。ケニアでお世話になるシーナさんが、身一つでおいで、と言ってくれているので、必要最低限のものだけカバンにつめたのだけれども、それでもかなりの大きさになってしまった。今日の午後、慶に会っている間は、駅のコインロッカーに預けていて、ファミレスに行くときに引き取ったのだ。
「今日はホテルでも取ってんのか?」
「あ……ううん。ファミレスで時間つぶそうと思ってたから」
「なんだそりゃ」
慶は、優しい、といえるような表情で笑うと、
「泊まってけよ。風呂沸いてる。入ってこい」
いつもの調子で言ってくれた。
浴槽に浸かりながら、なんて切り出そうか考える……
『ケニアで教育指導者として働くことにした』
『日本には戻らない』
『慶は慶の道を進んで』
本当は明日、出発前にそうメールしようと思っていた。
直接言うことを避けたのは、慶に「行くな」と言われたら、決心が鈍りそうだったから、ということもあるし、喧嘩をするのが嫌だったから、ということもある。喧嘩をしたのが最後の思い出、なんて、そんなのは嫌だった。
「……上手く言えるかな」
言えるかな、ではなく、言わなくては。これがおれの選んだ最善の道なのだから……
風呂から出ると、慶はソファーで膝を抱えて座っていた。いつもの調子だった先ほどまでとは違い、テレビもつけず、ただボーっと……。おれが風呂に入っている間に色々考えてしまったのかもしれない……
「慶……髪乾かしてないでしょ」
「あー……うん」
「乾かすよ」
いつものように、ドライヤーを持ってきて、乾かしてあげる。少し時間が経っていたのですぐに乾きそうだ。
「お前さ……」
されるがままにドライヤーの風を当てられている慶が、ポツンといった。
「いつ帰ってくるんだ?」
「それは………」
「帰ってこないつもりなのか?」
「……………」
いつ帰ってくるか……それは。
(両親が亡くなったら)
本音はそれだ。それだけだ。でも、そんなこと、慶にはいえない。
「帰って……こないのか?」
ドライヤーの音にかき消される小さな声……
「分からないけど、たぶん………」
帰って、こない。
言うと、慶は息を飲み……、それから大きく息をついた。
「だからお前、今日うちの実家の前の公園にいきたい、なんて言ったんだな」
「…………」
「いきなりなんで?って不思議に思ってたけど……日本を離れる前の、思い出の地巡りってことだったのかと思ったら納得した」
「…………」
「おれ、一人ではしゃいでアホみたいだな」
「慶………」
ドライヤーをテーブルに置き、慶を後ろから抱きしめる……
「………ごめん」
「どうして……」
ぎゅっと腕を掴んでくる慶。
「どうして、黙ってたんだよ。そんなの……」
「明日、メールしようと思ってたんだよ」
「………メール?」
慶はゆっくりとこちらを振り返った。
「こんな大切なこと、なんで直接言わない? だいたい、いつから決まってた話なんだ?」
「うん………」
ふうっと息を吐きだし、答える。
「12月に事務局長から話もらって……1月末だったかな。引き受けることにして、退職の手続きもして」
「………」
最近変だったのはそのせいもあったのか……。ボソッと言う慶の言葉に申し訳なさでいっぱいになる。確かにおれは、隠し事をしていることで少し言動がおかしくなっていたと思う。それをひたすら親のせいにしていたのだ。
「3か月もあったのに、なんで言ってくれなかったんだよ?」
「それは……」
慶の真っ直ぐな視線に耐えきれず、胸に手を当て下を向く。
「慶に行くなって言われたら、決心が揺らいじゃいそうで……」
「は?」
ピキッていう音が聞こえたような気がした。淡々と話していた慶の口調に怒りの色がにじみはじめる。
「行くなって言われたら、決心が揺らぐって……」
「………」
「それで揺らぐような決心だったら、行くなんて言うなよ」
「それは……」
詰まってしまう。それはそうなんだけど……っ
迫ってくる慶。掴まれた腕が痛い。
「なあ、どうしてお前が行く必要がある?」
「………」
慶の強い光。掴まれた腕からビリビリと伝わってくる。
「お前はお前の生徒やおれを捨てるのか?」
「!」
捨てるなんて、そんな………っ
そういうことじゃなくて、そうじゃなくて……っ
今、ここからいなくならなかったら、おれは……っ
「だから……っ」
慶の眩しいオーラ、耐えられない。
「だから言いたくなかったんだよ!」
気がついたら、叫びながら、慶の手を思いきり振り払っていた。
「そうやって慶に言われたらおれ、何もできなくなる!」
「………っ」
目を瞠った慶。
「なんだよ、それ……」
「だから……っ」
このまま慶のそばにいたら、独占欲から慶を殺してしまう。
このまま日本にいたら、母からの束縛で気が狂ってしまう。
このまま日本にいても、自分の目指した「浩介先生」にはなれない。
でも、そんな本当のことを全部いうわけにはいかない。
言えることだけ。言えることだけで、慶を説得しないと……
「………おれ、自分の可能性を試したいんだよ」
「………」
さっき振り払ってしまった慶の手を両手でギュッと握る。
「そういう風に思えたのは、慶の存在のおかげだよ?」
「………」
「おれ、自分の力だけで立ってみたいんだ」
「………浩介」
慶が絞り出すように、おれの名を呼んだ。
「じゃあ、おれは? おれはどうすればいい。お前がいなくなったら……」
「………。慶はおれがいなくなっても大丈夫だよ」
「は?!」
勢いよく振り仰いだ慶の瞳が、目の前で瞬く。
「何が大丈夫だよっ。そんなの……っ」
「本当はね……」
その瞳の美しさに引きだされるように、本音が出てしまう。
「はじめは、慶が一緒に行ってくれたらって思ったんだよ」
「…………」
「でも、無理だって分かってる。そんなことおれには言えない」
慶には夢がある。患者にも患者の家族にも寄り添えるような小児科の先生に、一緒に戦う戦友みたいなお医者さんになるって。だから……
「慶は慶の道を進んで」
その愛しい頬を囲み、コツンとおでこをくっつける。
「だから慶……」
だから、慶。
「おれのことなんか、忘れていいよ」
***
翌朝……
いつまでたっても暗いままだ、と思ったら、雨が降りだした。雨の音を聞きながら、慶の寝顔を見つめる。
(慶……)
少し苦しそうに見えるのは気のせいじゃないだろう。
『忘れるわけないだろっ』
怒って手を振り上げてきた慶の腕を掴み、ベッドに連れて行き、そして……この10年の中で、一番無理をさせた、と思う。
「忘れて」
そう言いながら、腰を打ち付け続け、慶が絶頂を迎えてもやめず、そのまま、その先の絶頂へ無理矢理連れて行き……
「忘れて」
そう言いながら、強く強く願った。慶の体に入り込み、存在を一番感じさせながら、おれを覚えていてほしい、と……
慶には、おれなんかよりも、もっとふさわしい人がいる。例えば、仕事の悩みも共有できるような、真木さんとか、吉村さんとか……
(でも、きっと慶は……)
慶は、ずっとおれのことを好きでいてくれるんじゃないか、なんてことを思ってしまう。そんな期待をしてしまう。
自分でも、自分の気持ちを持てあましている。
「忘れて」
そう言いながら……、きっと、慶はおれのことを忘れないだろう、と思う。
(でも……)
おれなんか忘れて、幸せな人生を送ってほしい、とも、心から願っている。
その愛しい人の頬にそっと唇をおとし……合鍵をテーブルの上に置いて、おれは静かに部屋をでた。
慶のいない人生……
ケニアに行くと決めた日から分かっていたことなのに、体中に穴を開けられたような苦しさが襲ってくる。
「慶……」
これが最善の道……
ぐっと手の平を握りしめ、おれは歩きだした。
***
「あれー? ゆみこちゃんの……」
「あ……早坂さん」
慶の病院の入り口で、その明るい声にホッとして振り返った。看護師の早坂さんがちょうど出勤してきたところだった。
ゆみこちゃんに問題集と手紙を渡してくれるよう、守衛さんにお願いしようとしていたけれど、早坂さんにお願いできるなら有り難い。声をかけると、二つ返事で了解してくれた。
「お任せください!」
早坂さんは朝からいつも通り元気いっぱいだ。ついついつられて笑顔になってしまう。
「遠くに行くって、転勤ですか?」
「あ……はい」
「そっかあ……渋谷先生も寂しくなりますね」
「え」
おれと慶が知り合いであることは、隠していたはずなんだけど……
戸惑っていると、早坂さんは「あ」と口を押さえた。
「あ、すみません。お二人が高校時代からのお友達だって話、ゆみこちゃんから聞いちゃって」
「あ………そうなんだ」
早坂さんは信頼できる、という判断だったんだろう。一生懸命な良い看護師さんなのだ。
その早坂さんがニコニコと言う。
「渋谷先生、ほんとスゴイですよねー。一人一人の患者さんに寄り添った対応を一生懸命考えてて……」
「…………」
「尊敬してます。私」
「…………そっか」
ふっと心が温かくなる。おれの慶。おれの自慢の恋人……
「じゃあ、よろしくお願いします」
「はーい!」
深々と頭を下げると、早坂さんは元気に手を振って行ってしまった。その後ろ姿にお願いする。この病院の人、みんなにお願いする。
おれはもう、一緒にいられないから。
だから、おれの慶を、おれの愛しい人を、お願いします。
***
かなり早めに空港についたので、出発までの時間、友人のあかねと、慶の妹の南ちゃんにだけは連絡をした。
『慶君には?』
「一応、話した」
『そう』
「…………」
こちらの沈黙を汲み取ってそれ以上は追求せず、あかねは茶化すように言ってくれた。
『ま、浩介さん。私達は遠距離恋愛楽しみましょうね』
あかねは、学生の時からずっと恋人のフリをしてくれているのだ。おそらく今後も母からあかねに連絡がいくこともあるだろう。別れたことにしてくれていいのに、「私とまで連絡取れなくなったら、お母さんおかしくなっちゃうわよ? それで慶君にとばっちりいったらどうすんの」と言ってくれて……。
「ありがとう……あかね」
『だからそういうのいらないから』
そのうち遊びに行く、と言って、あかねはあっさりと電話を切った。あかねの気遣いが有り難い……。
一方……
『意味がわかりません』
南ちゃんには、開口一番不機嫌に言われた。
『それってお兄ちゃんと別れるってこと?』
「まあ……そういうことになるね……」
『意味がわからない』
「ごめん……」
南ちゃんには数え切れないほどお世話になったのに……
『まあ、いいや。じゃあ、元サヤ妄想発動』
不機嫌な言い切りに、え?と聞き返したけれど、南ちゃんは抑揚なくぶつぶつと、
『どうせ二人は離れられないから。そのうちまたくっつくことになる』
「…………」
『一度離れて、お互いがお互いをどんなに必要としているか思い知ればいい』
「…………」
『それで再会した時に、ぐっちゃぐちゃのどっろどろに求め合えばいい』
「…………」
なんか変なこと言っている……。南ちゃんは真面目な声のまま、
『ちなみに昨晩は? それはそれは相当激しくって感じですか?』
「え」
『何回した? って、そもそも浩介さんとお兄ちゃんって、通常だと一回あたり何回するの?』
「………南ちゃん」
あいかわらずだ南ちゃん……
『まあいいや……。どうせ元サヤになるから、それまで我慢するよ』
「…………」
『じゃあ、気を付けてね』
南ちゃんも、あっさりと電話を切った。
あいかわらずの南ちゃん。
だけど……『元サヤ』はないよ……
南ちゃんと話したことで、記憶が高校時代に戻されていく。
初めて慶の家に遊びに行った時に、元気いっぱいに出迎えてくれた南ちゃん。クリスマスイブ前日、慶に告白できたのも、南ちゃんが背中を押してくれたからだった。
(慶………)
あの時泣いてくれた慶の涙を思い出す。
『おれなんてもう一年以上前からお前のこと好きなんだぞっ』
怒ったように言ってくれた慶。おれなんかのこと、ずっと好きでいてくれた慶……
(慶………)
会いたい。
「………あ」
思わず出てしまった言葉に苦笑する。
(何言ってんだ、おれ……)
会いたいって。
自分から別れたくせに。
自分から会わないって決めたくせに。
(それでも……それでも、慶)
今すぐ会いたいよ。
会って、ぎゅうって抱きしめたい。
その柔らかい髪に顔を埋めたい。
その力強い腕に抱きしめ返されたい。
「慶………」
おれは、本当にどうしようもないダメな男だ……
それからどのくらい時間がたっただろう……
搭乗時間を知らせるアナウンスで我に返った。ずいぶん時間があるからコーヒーでも、と思っていたのに、結局こうしてベンチに座ったままだった。
「ホント、バカだなおれ……」
自分自身にツッコミを入れながら立ち上がる。
さあ、行こう……
と、振り返った時だった。
「…………え?」
我が目を、疑う。人の群れの中、まぶしいまぶしい光……
「うそ………」
見間違うわけがない。どんなに人がたくさんいようと、その輝きは紛れることはない。
「なんで……」
涙が溢れて視界がにじむ。よろけながらそちらに歩み寄る。
ツカツカツカとすごい勢いでやってきたその光は……
「浩介発見! 探知機健在だな」
「慶………」
にっと笑ってくれた。高校の時と同じイタズラそうな笑顔で……。
**
もう、会えないって……会えないって思ったのに……
「慶……っ」
こらえきれず、抱きしめた。
欲しかった温もりに体が震える。欲しかった愛しさが溢れてくる。抱きしめ返してくれる強い腕がここにある……
喧噪が遠のき、この場にいるのは二人だけ、のような感覚に陥る。
「どうして? どうして……」
「そりゃ、お前……」
とんとん、と回した手で腰のあたりを叩いてくれる慶。
「昨日の1ON1の賭けの商品、もらい忘れてたからさ」
「賭け……?」
ああ……そうだ。昨日、バスケで遊んだんだった。もう何年も前のことのようだ。
「何が、欲しい?」
「お前と同じもの」
「え?」
間髪入れずに返された言葉。同じものって、それ……
慶は、切ないほど綺麗な瞳で笑うと、おれの頬を手で包み込んでくれた。そして……
「キスして、ほしい」
「慶……」
そっと合わさる唇……
初めてキスした時みたいな、触れるだけの、優しい優しいキス。
愛しくて愛しくて、どうにかなってしまいそうだ……
「慶……」
湖みたいな瞳がこちらを見上げている。愛しい愛しい瞳……
もう一度抱きしめようとしたその時、
「………あ」
無情にも、再び搭乗案内のアナウンスが流れた。
もう、行かなくてはならない……
「浩介」
慶が決意したように、おれの胸のあたりに手を置き、体を離した。
「おれ、お前に言われたこと、色々、色々考えた」
「うん……」
「で、決めた」
「え」
慶の瞳に揺るぎない強い光が灯る。
「おれはおれのやるべきことをここで頑張る」
昔から変わらない、力強いオーラ。
「だから、お前も頑張ってこい」
「慶………」
ニッと笑う慶。
「それでいつか……いつか、また会える時がきたら」
「うん」
「その時は……」
「うん」
そっと唇を合わせ……ぎゅっと抱きしめあう。
(いつか……会える時がきたら)
そんな日がくるかどうかは分からないけど、でも、でも慶……
「じゃあな」
慶がすっと体を離した。そして、するりとおれの後ろに回ると、
「行ってこい」
「!」
とん、と背中をおしてくれた。その衝撃で、一歩踏み出す。
(あ………)
触れられた背中から、ばさっと何かが広がり、地から足が浮いた気がした。
(翼……)
ずっと、広がることのなかった翼……
空に羽ばたけるような感覚……生まれてはじめてだ。こんなに体が軽いなんて……
「慶……」
穏やかな笑みを浮かべ、見送ってくれる、愛しい人。
慶がいるから、飛び立てる。慶がいるから、翼が広がる……
「行ってきます」
「おお。行ってこい」
いつの日か、あなたにふさわしい男になれたら、そうしたら……
あなたとずっとずっと一緒にいたい。
「慶、大好きだよ」
その日まで……さよなら。
<完>
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お読みくださりありがとうございました!
この後、二人がどうなるか、という話が、「翼を広げて」になります。
「翼を広げて」は、1992年、当時現役女子高生だった私がノートに書いた小説で、私にとって記念すべき、中編程度の小説の完成第一号の作品でした。(それまで、主にファンタジーものを途中まで書いては放置、を繰り返していたので……)
以上を持ちまして、浩介さんの自立話?終了とさせていただきます。
こんな暗い話にお付き合いくださり本当に本当にありがとうございました!!
そして先日お知らせさせていただいた通り、9月10日(浩介43歳の誕生日)まで更新お休みさせていただきます。
その間に、目次ページを少し変えたり、「現実的な話をします」内の慶と浩介のおまけの話をいくつか短編として引っ張り出したり……、と、サイト内を少々お片づけしようかなあと思っております。
今までクリックしてくださった方、読んでくださった方、本当にありがとうございました。励ましていただいたおかげで書ききることができました!ありがとうございます!
次回9月10日もよろしければ、どうぞお願いいたします。
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すみません。以下私信です。
4月17日に「お話を順番に読みたい」とコメントをくださったHhy様!
もしまだ読んでくださっていたりしたら、とっても有り難いのですが……
とりあえず、この「閉じた翼」「翼を広げて」を通り過ぎたら、あとはもう「あいじょうのかたち」で大丈夫、かと思われます。
今後気まぐれに、色々な時代の短編が出てくる可能性はありますが、二人の関係性に関わるようなお話はもうないので……
なので、「あいじょうのかたち」「たずさえて」「現実的な話をします」の順で、読んでいただけたら嬉しいです。
もし更にお時間があったら、「あいじょうのかたち」の前に「光彩」ですが、「光彩」は慶たち本当に一瞬しか出てこないし、GLだし、どうだろう………って感じです。
よろしければどうぞよろしくお願いいたします。
クリックしてくださった方、読みにきてくださった方、本当にありがとうございます!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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