慶はおれの初めての友達。初めての親友。初めての恋人。
慶はおれにたくさんの初めてをくれた。
初めての自転車の二人乗り。初めての「友達のうち」。初めて思いきり泣いて、初めて抱きしめられて、初めて抱きしめて。初めてキスをして、初めて一つになって……
初めての生徒も慶だった。
「お前教えるの上手だな。本物の先生みたいだ」
初めて勉強を教えた時、慶はニコニコで言ってくれた。自分が教えることで「分かった!」ってパアッと表情を明るくしてくれることが何より嬉しかった。
教師を目指した原点は慶の笑顔だ。教える喜びを初めて教えてくれたのは慶だ。
その喜びは大きく広がって……生徒に寄り添って、支えて、見守ってあげられるような先生になりたいと思うようになった。
でも……現実はうまくいかないことばかりだ。
慶は夢を叶えて、患者さんに慕われる小児科医になったというのに……。おれはやっぱりいつまでたっても出来損ないのダメな人間だ。
***
どうしても慶に会いたくて、夜10時を過ぎてから慶のマンションに行った。ちょうどお風呂から上がったばかりだという慶は、髪の毛をガシガシと拭きながらニコニコで出迎えてくれたのだけれども………
「おれさ、明日から一泊で出張なんだよ」
「どこに?」
「大阪」
慶の言葉にぞわっとする。大阪って……確か真木さんは大阪の人で……
「もしかして、真木さんも一緒……?」
「そうそう。旨いお好み焼きの店連れていってくれるって。吉村も一緒」
「ふーん……」
吉村というのは、慶の同期で、慶のことを狙っているのがミエミエな女性だ。
(こうなると、吉村さんが一緒というのは好都合かもしれない)
慶は「真木さんとは和解した。もう変なことを言ってくることはない」と言っているけれども……先月の真木さんの様子を見る限り、慶を諦めたようには思えないのだ。
おそらく吉村さんは慶にピッタリくっついてくるだろう。そうなったら真木さんは手を出せない。是非とも二人で牽制しあってくれ。
「準備手伝うよ」
「おおっサンキュー。着替えとか出してもらっていいか? 明日の資料、全然読めてなくてさ」
「うん」
勝手知ったる慶の部屋。資料を読みはじめた慶をよそに、一日分の下着とワイシャツを用意する。それから、お腹が空いたとき用のオヤツ……
ソファの横を通り過ぎようとしたところ、慶が思い付いたように言った。
「なー、浩介。おれ、明日の朝、すげー早いんだよ。お前さあ……」
「もう帰った方がいい?」
わざと聞くと、慶はムーッと口を尖らせた。
「んなわけあるか。じゃなくて……」
「泊まった方がいい?」
「できれば。朝、用意間に合うか心配で……」
「分かった。任せて」
ソファに座っている慶の頭のてっぺんにキスをすると、慶は、へへっと笑っておれの頬を撫でてくれた。
「さすが頼りになる~」
「……………」
………………。
泣きたくなる。
『ホント桜井、使えねえ……』
よみがえる。今日聞いてしまった言葉……
『高瀬先輩が、桜井ならなんとかしてくれるかも、なんて言ってたけど、全然頼りになんねーじゃん』
『まあまあ。退部じゃなくて、休部にできたんだからまだ良かったんじゃね?』
『でも、いつ復帰できるか……』
部室から聞こえてきた生徒達の声。文句を言っているのは関口君だ。先日、成績の低下を理由に、母親が退部を申し出てきたバスケ部の1年生。
おれの母に似ている関口君の母親と対峙するのは相当なストレスだった。
(期末試験まで休部。その間に成績を立て直す。そこまで譲歩してもらえただけ、有り難いと思ってほしい……)
頭が、痛い………
職員室に戻ると、同じバスケ部顧問の早苗先生にコソコソと耳打ちされた。
「桜井先生、さっきお母さんから電話がありました」
「…………え」
お母さんって、それは………、おれの?
(ああ……嫌になる……)
あの人は、職場に電話をするなと何度いったら分かってくれるんだ………
「吉田先生が代わってくれて、学校には電話をかけてこないでくださいって、おっしゃってくださってたけど」
「………」
吉田先生……おれの父に少し似ている学年主任の先生。とても厳しい人だけれども、筋の通った頼りになる先生だ。先生にそんなこと言わせてしまうなんて……
「でも、お母さんずいぶん粘ってたみたい」
「そう……ですか……」
すみません………。
謝ると、早苗先生はブンブン手を振り、
「私達は別にいいのよ。ただ、吉田先生には……」
「………はい」
頭を下げ、コピー機の前にいる吉田先生の方に向かう。今、早苗先生……
(『私達』って言ったな……)
母は何かにつけて学校に電話をかけてくるので、他の先生方でも電話を受けたことがある人はたくさんいるのだ。『私達』って言葉が出るってことは、おそらく他の先生方の間で話題にされているってことで……
(ああ……嫌になる……)
どうして、どうして、いつもいつもこうなってしまうんだ……
「吉田先生……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
コピーがちょうど終わった吉田先生に頭をさげると、
「別に迷惑ではないが」
「………」
眼鏡の奥の瞳が観察するようにこちらをみてくるので、ドキドキしてしまう。吉田先生は淡々と続けた。
「親はいつまでたっても子供が心配なものだよ」
「…………」
「携帯が通じない、とおっしゃってたので、校内にいるときは電話には出られない、とは答えておいた。電話に出たくないなら、せめてメールだけでも返しなさい。それだけでも安心されるだろうから」
「…………はい」
深々と頭を下げる……。社会人にもなって、こんなこと……恥ずかしすぎる……。
「ああ、それから」
ふと思いだしたように、行きかけた吉田先生が振り返った。
「バスケ部の関口。今日の小テストの結果も悪かった」
「え」
「休部してもあれでは意味がない。休部させた理由を分からせてやったほうがいいな」
「………はい」
そうなるんじゃないか、とは思っていた。
休部させたところで、本人に勉強のやる気がなければまったく意味がない。本当は、部活を続けた上で、勉強も頑張れるような環境を作ってやるべきだったんだ。でも、それでは、関口君の母親が納得してくれなくて……
『ホント桜井、使えねえ……』
よみがえる悪意の言葉……。
おれは本当に、出来損ないのダメな人間だ……
「浩介?」
「!」
お風呂から上がり、もう寝るだけの状態でベッドに座ったまま思いに沈んでいたところを、凛とした声に引き上げられた。見上げると湖みたいな綺麗な瞳がこちらをジッと見返している。
「先寝てていいぞ?おれまだかかるから」
「あ……うん」
「明るくて眠れないか?」
「…………」
首を振る。明るくても暗くても眠れない。
だって、慶………、慶。
「慶………」
「ああ、そっか」
慶の瞳がイタズラそうに笑った。
「おれがいないと眠れないか」
「…………うん」
素直にうなずくと、慶は満足そうに「そうかそうか」と言って、資料を持ってベッドにきてくれた。
「膝枕してやるー」
「………………」
嬉しそうにトントンと自分の腿をたたく慶。お言葉に甘えて腿に片頬をつける。鍛え上げられた硬い慶の足……
(…………慶)
時々、思い出したように頭を撫でてくれる温かい手………
「………あれ?これ違くね?」
時々、漏れる一人言。バサッバサッと紙をめくる音。
(このまま、時が止まればいい)
慶と二人だけ。こうして二人だけでいられたら………
そんな泣きたい気持ちになっていたところに………無情な電話の着信音が鳴り響いた。
「ちょいごめんな」
そっとおれの頭をベッドに落として立ち上がった慶。嫌な予感がする……
電話を取った慶から発せられた言葉は、
「あ、真木さん?」
予感通り、真木さんで……
「おれも今、電話しようと思ってたんです。血管線維腫の画像が……」
いいながら、パソコンの画面を開いて何か作業をはじめた慶……。聞いたこともない言葉が、慶の綺麗な唇から紡ぎ出される。真剣な表情……こんな慶、見たことない。
(違う人みたい………)
遠い………遠いよ。慶……
すぐそこにいるのに、ものすごく遠い……
(行かないで……)
そんなこと、言えるわけがない。言えるわけないけど、思わずにはいられない。
行かないで。行かないで、慶……
-------------------------------
お読みくださりありがとうございました!
…………暗っ!
でもすみませんっ全編暗いままですっ。
そんなに長くならずに終わる予定なので、もしよろしければ最後までお付き合いいただけると幸いですm(__)m
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『入院患者の勉強を見てほしい』
と、慶に頼まれた。そんなこと初めてだ。嬉し過ぎる! あわよくば慶の働いている姿が見られるかも、という期待に胸がふくらむ。
それで10月最後の日曜日、面会時間のはじまる3時に、張り切って病院に行ったのだけれども……
(これは………)
ちょっと手こずりそうだな……というのが、間違えだらけの問題集を見ての第一印象。
小学校5年生の、とにかく算数が苦手、という明るい女の子なんだけれども……
おそらく、学校を休みがちだから、ということだけが理由ではない。本人のやる気がないから、でもない。生まれつき、数字を理解をする力が欠如しているのだ。そういう子がいることは、大学で勉強してきた知識の中にあるので知ってはいたけれども、実際に会うのは初めてだ。
「浩介くん、呆れてるでしょー?」
彼女……山崎ゆみこちゃん(おれ達の同級生と同じ名字だけれども、何も関係はないらしい)は、困ったような顔をして笑った。
週3回ある院内学級の先生も、ゆみこちゃんだけに付き添うわけにはいかないのでフォローしきれず、かといって立場的に慶が個人的にみてあげることもできず……ということで、おれが呼ばれたわけだ。ゆみこちゃんにだけ特別に先生を付けた、と他の子にバレるのはまずいので、「先生」ではなく「くん」でもいい?と言いだしたのはゆみこちゃん自身だ。
「そんなことないよ。つまずいているところまで戻って、一緒にやっていこう?」
「つまずいてるところって……」
「一桁ずつの計算の精度をもう少しだけ上げて、それから、一桁と二桁の計算の練習……」
「えー……」
ガクッと机に突っ伏したゆみこちゃん。
「あたしもう5年生なんですけどー。それ何年生の話?1年生?2年生?」
「さあ? おれ、高校の社会の先生だから分かんない」
「………………」
わざととぼけると、ゆみこちゃんはゆっくりと顔をあげた。
「そうなの?なのに算数教えられるの?」
「だから一緒に勉強しようよ? おれも算数教えるの1年生だから」
「ホントに?一回もないの?」
「うん。中学、高校の数学はあるんだけどね。算数は初めて」
「ふーん……」
ゆみこちゃんはしばらく「ふーん」と言い続けた後で、
「じゃあ、一年生からでもいいよ」
ようやく肯いてくれた。
小児科病棟内のプレイルームの一角で教えていたので、ちょうど良かった。小さい子が遊ぶ用のブロックを拝借して、一桁+一桁の計算の練習ができたのだ。もどかしいだろうけど、基礎ができていなくては、急いで積み上げたところで崩れるだけだ。基礎からじっくりと、だ。
「浩介くん、すごいね」
ふいにゆみこちゃんが言った。
「全然怒らないんだね? 普通みんなイライラしてくるのに」
「そう?」
「うん。どんな優しい先生にもイライラされちゃうの。ママにも、どうしてこんなのもできないの?って、いつも怒鳴られてたし」
「…………」
ギクリ、となる。
(どうしてこんなのもできないの……)
おれもいつも母親に言われていた言葉だ。
どうしてこんな問題もできないの? どうしてお友達ができないの? どうして学校に行けないの? どうして、どうして、どうして……
「でも、あたしもそう思うんだよね」
ゆみこちゃんの辛そうな瞳……
「どうしてあたし、みんなみたいにできないの?」
「え………」
「どうして、小さい子でもできるようなこと、あたしできないんだろう」
「…………」
「どうして? どうしてなの?」
「それは………」
言いかけて、止まってしまう。何を言えばいいのだろう……
………と、ふいに後ろから涼し気な声が聞こえてきた。
「それは、生まれる前から決まってたことだからだよ?」
「!?」
振り返ると、そこには………
「真木……さん」
「やあ。浩介君」
背の高い、完璧な容姿の白衣の男性が、ニッコリと微笑んでいた。
***
真木さんと話すのは、ちょうど2週間ぶりだ。
2週間前、おれは都内の公園に呼びだされて、
『君、慶君と別れてくれる?』
『君は慶君にふさわしくないよ』
と、言われたのだ。まあ、そのあと、真木さんは慶に手を出そうとして、逆に慶に鳩尾くらって延髄斬りまで決められたらしいけど……
「あ、真木先生」
「こんにちは、ゆみこちゃん」
完璧営業スマイルの真木さん。2人は知り合いらしい。
「生まれる前から決まってたって……それ、ひどくない?」
眉を寄せたゆみこちゃんに、真木さんは言う。
「そう? じゃあ、ゆみこちゃんの目がそんなにクリッとして可愛いのはどうして?」
「え……」
「そんなに綺麗な形の鼻なのはどうして? そんなに魅力的な唇なのはどうして?」
「…………」
ゆみこちゃんの頬が赤く染まっていく。真木さんはニッコリと言いきった。
「ぜーんぶ、生まれる前から決まってたことだから、だよ」
「そんなの……」
なんか違う……と、つぶやいたゆみこちゃん。でも、真木さんは「同じ同じ」と手を振ると、
「人はみんなそれぞれ特性を持って生まれてくる。ゆみこちゃんが美少女なのも、算数が苦手なのも、それがゆみこちゃんだから、としか言いようがない。それを、どうして? なんて考えるのは時間の無駄だよ?」
「無駄って……」
「困ったことは1つずつ対処していけばいい。渋谷先生がそのために浩介君を呼んだって言ってたよ?」
「…………」
真木さんがストン、とゆみこちゃんの隣に腰かけた。ゆみこちゃんは照れ隠しのようにムッと口を尖らせると、
「でも真木先生は何も困ったこと一つも持って生まれてこなかったでしょ? かっこいいし、頭もいいし。ずるいよ」
「そんなことはない」
心外だ、というように大袈裟に首を振った真木さん。
「俺も色々あるんだよ? ね? 浩介君」
「…………」
同意を求められても……。
真木さんは楽し気に「そうそう」と手を打った。
「渋谷先生なんか、あの綺麗な顔がコンプレックスだからね?」
「えー?」
ビックリしたように叫んだゆみこちゃん。
「うそーどうしてー?」
「女の子みたいって揶揄われるのが嫌だったんだって。ね? 浩介君」
「…………」
再び同意を求められムッとしてしまう。
慶のことをさも知っているかのように話すな……っ
「でもね、渋谷先生は、それが嫌だって何もせずにイジイジしてたりしないんだよ。揶揄ってきた奴をぶっ飛ばせるように、一生懸命体鍛えたんだって」
「えー」
「渋谷先生、ああ見えて、脱いだらすごいからね。すごい筋肉ついててねえ……」
「!」
うっとりと言う真木に殺意を覚える。お前、なんでそれを知ってる……っ
「えー!そうなの?!全然そう見えないっ」
おれのそんな様子に気づいた様子もなく、驚きの声を上げているゆみこちゃん。
「あんな天使みたいなのにー」
「そうなんだよね。ホント、渋谷先生って天使みたいに華奢にみえるよね」
「うんうん」
「なのに、結構ガッチリしててね」
「へー」
「こう、腹筋も綺麗に割れててね、それで大胸筋はほどよく……、って、あ」
ふいにイタズラが見つかった子供のように手で口を押さえて黙った真木さん。おれの後ろに視線が……。
振り返ると、話題の本人が仏頂面をして立っていた。天使のような、白衣の医師。
「真木先生? 何の話してるんですか?」
「コンプレックスにどう立ち向かうかって話ダヨ」
「それがどうやったら、おれの大胸筋と繋がるんですかっ」
怒りながら言う慶に、真木さんはヘラヘラと笑いながら答えていて……
……………。
慶と真木さん、仲良いな……。前と全然変わらないじゃないか。慶、襲われそうになったっていうのに。真木さん、伸されたっていうのに。
笑いあっている二人は、やっぱりとてもお似合いで……。
また、体全部、暗い暗い穴の中に落ちていく……。
でも。
「浩介」
凛とした声に、引きあげられた。おれが固まっていることに気が付いたのだろう。慶がすっとおれの横に座って、テーブルの下で腿をトントンとたたいてくれる。
(………ざまあみろ)
おそらく、そのことに気が付いたらしい真木さんが、ふっと苦笑いを浮かべたのだ。ざまあみろ。ざまあみろだ。
「で、ゆみこちゃん、どう? 浩介センセーは」
そんな水面下の攻防も知らない慶が、ゆみこちゃんに問いかけている。ゆみこちゃんはニコニコで、
「すごい! ほんとに全然怒らない!」
「でしょ? おれも高校の時と浪人の時、浩介に勉強教えてもらってたんだけど、分からなくても全然怒らないで、別の言い方で説明してくれたから、すごく助かったんだよ」
「うんうん。だから安心して間違えられる」
「…………」
二人の話にホッとする。そう思ってくれているのなら良かった。
母と勉強している最中、間違える度に、怒鳴られたり背中を叩かれていたおれは、怖くてわからないところを聞く事もできなかった。教師になると決めた時に心に誓ったのだ。おれは絶対にあんな教え方はしない、と……
「…………」
ジクリ、と、背中のアザに痛みが走る。消えていたはずなのに……とっくに消えていたはずなのに、復活してしまったアザ……。
***
「今日はありがとうなー」
夜10時を過ぎてようやくマンションに戻ってきた慶……
「ゆみこちゃん、すごく喜んでた。もう5年生だから、低学年と同じことをするのに抵抗があって、それで余計に分からなくなってたとこあったみたいだからな。おかげで、もやもやしてたところが、ちょっとすっきりしてきたって」
「………そう。良かった」
「また約束したんだって?」
「うん。今度の水曜日にまた行くよ」
「おお。そうか」
そうか、そうか、と慶は妙に機嫌が良い。
「慶……機嫌いいね」
「んー?」
今日は勉強会のメンバーと食事にいってきたらしいのだ。勉強会のメンバー、ということは、当然、真木さんもいるわけで……
「お食事会、楽しかった?」
「別に楽しかねえなあ。役には立つけど」
「そう……?」
だったら、どうしてそんなに機嫌がいいの? 真木さんがいるから……?
真木さんのおおらかで明るい人柄を思い出す。ゆみこちゃんの問いにもあんなに的確に答えてあげていて……
それに、そのあと、プレイルームにいた子供達に存在を気が付かれた慶と真木さんの周りには一斉に人が集まってきて……
「渋谷せんせー真木せんせー」
「せんせーも遊ぼー」
子供たちに囲まれた慶と真木さんは、みんなの憧れの人って感じで……
(慶は、夢を叶えたんだ……)
島袋先生みたいな小児科医になりたい、といっていた慶。
今の慶の姿は、高校生の時に見た、島袋先生そのものだよ。
その隣にいる真木さんも、頼りがいのある先輩って感じで……
それに比べて、おれは……おれは。
「浩介?」
「!」
顔をのぞきこまれ、ハッと我に返る。慶の綺麗な瞳に写るおれ……
(醜い……醜い嫉妬の塊だ)
こんな心、読まれてはいけない。思いを飲みこんで、会話を続ける。
「役に立つ情報もらえたから、機嫌が良いの?」
「いやー?」
「……っ」
ちゅっとキスをされた。そのまま唇が頬に、口の端に下りてくる。
「慶?」
「なんかさー、職場にお前がいるっていうことに、テンション上がっちゃってさー」
「え……」
「いいよなーああいうのさー」
慶、すごく嬉しそう……
そんなこと思ってくれてたんだ……それなのにおれは………
「水曜日、何時頃くる? 夕方? おれ、休み時間そこにできるよう調整してみる」
「………うん」
ほら、大丈夫。おれは慶に愛されてる……
「今日泊まれるか?」
「うん」
「よしよし。じゃあ、やるか」
「……………」
色気も何もない誘い方に少し笑ってしまう。慶らしい……
「なんだ?」
「ううん。なんでもない。ここでするの?」
「んー、ベッド行くか」
ぴょんとおれから飛び降りて、ベッドに移動しながら洋服を脱ぎはじめている慶……。
(ああ……綺麗だな)
鍛え抜かれた身体……白い肌。
「お前もさっさと脱げ。脱がしてやろーか?」
「………自分で脱ぐよ」
慶の穢れのない身体と違って、おれには背中に大きな醜いアザがあって……
(………見られたくない)
移動する前に電気を消して真っ暗にすると、慶がキョトンとした。
「珍しい。電気全部消すのか?」
「たまには趣向を変えて、と思いまして」
「ふーん?」
いつもは見たいとかいって、電気一番明るくしてやりたがるくせに?
そう言って首を傾げた慶のうなじに、そっと唇を添わせる。
「慶、ホントは見られながらするの好きだったんだ?」
「ば……っ、そんなことは言ってないっ……んんっ」
「慶……」
本当はあなたのすべてを目に焼きつけながら、あなたと一つになりたい。
でも……醜いおれを見られたくないから……だから。
今日は、暗闇で、あなたを抱こう。
-------------------------------
お読みくださりありがとうございました!
大遅刻っ。もしお待ちくださっていた、なんて有り難い方いらっしゃいましたら、申し訳ございませんっ。
今シリーズ、書くのに大変時間がかかっております。
その大きな要因は、若かりしころに作ったプロットを元に書いている……のはいいのですが、
そのプロットがろくに調べもしないで作られているプロットのため、色々調べて諸々帳尻合わせをしているためでして……
あいかわらずの真面目ーなお話でございますが、お見捨てなくクリックしてくださった方々、読んでくださった方々に、最大限の感謝を申し上げます。本当にありがとうございます!!
また次回火曜日、よろしくければどうぞお願いいたします!
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ぼくの背中には醜い黒いアザがある。
母に叩かれ続けてできたアザ。
誰にも、誰にも見られたくない。
こんなものを見られたら嫌われてしまう。
子供の頃からずっとそう思っていた。
その思いから解放されたのは、高校二年の修学旅行の時だった。
『慶は、おれのこの痣みても……おれのこと、嫌いにならない……よね?』
大浴場の脱衣所で、そういったおれに、慶は背中をさすってくれながら、自信たっぷりに言ってくれたのだ。
『当たり前だろ。片想い歴一年以上のおれをなめんなって言っただろ?』
ニッと笑った慶。
『何があっても、大丈夫だ』
慶はいつでもおれを守ってくれる。包んでくれる。慶が一緒にいてくれたら、何も怖いものはない。
その日の夜。
10人部屋での布団の場所はくじ引きで決めたので、おれと慶は一番出入口側と一番奥に離れてしまった。でも、就寝時間直前、各自自分の布団の上で、荷物の整理をしたり、お喋りしたりしている最中……
(慶……かわいいなあ……)
慶はトイレ~と言って部屋から出ていって、戻ってきた……と思ったら、奥の自分の布団には戻らず、おれの横にちょこんと座りこんできたのだ。さりげなさすぎて、誰も不思議に思ってない。そして、おれの手元をのぞきこむような形で、さりげなーく、くっついてきた。猫みたい。かわいすぎる。
「明日の班行動の資料か?」
「うん。雨だからちょっと予定変わっちゃうね」
「ふーん」
「ふーんって慶も一緒に行くのにー」
「任せた~ついてくついてく~」
へへへ、と笑う慶。かわいい。上下揃いのトレーナーというラフな格好もかわいい。
(大人になって、一緒に暮らせるようになったら、こんな感じなのかな)
二人でパジャマでお喋りしたりできるかな。一緒のお布団で眠れるかな……。
幸せな気持ちが溢れだしそうで我慢できなくて、みんなからは見えないところで手に触れようとした……のだけれども。
「これでどうだ!」
「?」
大きな声に驚いて、部屋の奥を見る。と……
(…………え?)
なぜか、溝部はシャツを、皆川はズボンの裾を捲りあげている……
「何やってんだ?あいつら」
「さあ?」
慶と二人で、首をかしげていたら、山崎が部屋から出ていくついでに教えてくれた。
「傷自慢大会、だってさ」
「傷自慢?」
「今、溝部の盲腸の手術の跡と、皆川の自転車で転んで縫った傷跡のどっちがカッコいいか審議中」
ホント溝部ってアホなこと思い付くよね、と言いながら山崎は出ていってしまい……
「…………」
「…………」
慶と二人で顔を見合わせる。
傷自慢? 傷って自慢するものなのか……?
「渋谷と桜井も参加しろよー」
「アホか。誰がやるか」
誘ってきた溝部に、慶はアッサリと手を振った。けれども、
「何がアホだ!傷は男の勲章だぞ!」
溝部が偉そうに言い放った。
「オレはなー、この盲腸の時は本当に大変でなー」
「痛かった?」
「スッゲー痛かった! なのに母ちゃんも姉ちゃんも信じてくれなくてさ。『どうせ塾サボりたくて痛いとか言ってんでしょー』とか言ってさ。ホントひでーんだよ」
「…………」
それは……
「それは溝部の普段の言葉が常に嘘っぽいせいだな」
委員長の指摘にみんなでウンウン肯く。溝部は「なんだよそれ!」とムッとしたけれど、委員長に先を促され、言葉を続けた。
「で、結局、父ちゃんが病院に連れて行ってくれたんだけど、速攻で手術ってなってさー。あとから母ちゃんに『もっと真剣に痛いって言いなさい!』とか怒られるし、もう散々だった」
「………それが勲章?」
思わず聞くと、溝部は大きく肯き、
「こんな痛さに耐えたオレ偉い!ってことで!」
「あーそれを言ったら、委員長の傷は本物の勲章って感じかもしれない」
斉藤がポンと手を打った。
「ほら、腕のこれー。な?委員長?」
「別に勲章では……」
「またまたご謙遜をー。これ、こないだのバレーボールの授業でスライディングして……」
「あ、それ、あの時の傷だったんだ?」
「それ言ったらオレだって、これー!」
「だったらオレもー」
ワーワーと傷の見せあい大会は大盛況だ……
「………気が付かなかった」
思わずつぶやいてしまう。今日一緒にお風呂に入ったのに、溝部の盲腸の傷も、委員長の腕の傷も、全然気が付かなかった……
『大丈夫だよ。野郎の裸なんて誰も注目して見やしねえよ』
脱衣所で言ってくれた慶の言葉を思い出す。
ホントだ……。おれもみんなの傷なんて一つも見てなかった。おれの背中のアザだって、誰も気が付いてないに違いない。
それに……気がついたところで、それをどうこう言ったりしないんだ……
小学生の時、中学生の時は、とにかく弱みを見せてはいけない、と思っていた。一つでも突っ込まれるところがあったら、そこから攻め込まれてしまうから。
でも、もう、そんなこと思わなくていいんだ……
「………慶」
こっそりと、みんなからは見えないように荷物で隠しながら、慶の手を握りしめる。温かい手……
「ん」
慶はキュッと握り返して、優しく微笑んでくれた。慶がいるからおれは大丈夫……
二日目の夜のお風呂の時間……
意を決して、脱衣所の鏡に自分の後ろ姿を写してみて……愕然とした。
(………薄くなってる)
昨年の夏に見た時には、もっと黒かったのに……。でも、もう、ほとんど気にならないくらい、薄い。
(どうして……?)
最後に母から折檻をうけたのは、中学3年の夏のことだから、薄くなっていてもおかしくはない。でも、こないだの夏に見たときは、もっと黒かったのだ。この半年の間に急に薄くなったのか……?
「浩介?」
心配そうに、昨日と同じようにおれの背中を庇おうとしてくれる慶に、軽く首を振ってみせる。
「ありがと……もう、大丈夫」
「そうか?」
いいながらも、背中を撫でてくれる慶。温かい手……。体の中全部、愛しい気持ちで満ちてくる。
慶に押されながら風呂に入ると、中では溝部達がシャワーの順番を巡ってぎゃーぎゃー騒いでいた。でも……
「あ、あそこ一個空いた!」
「一緒に使おーぜ」
タイミングよく端っこのシャワーが空いたので、溝部達に気付かれる前に急いで移動する。
「慶の体洗いたーい」
「アホかっ冗談言ってないでさっさとしろっ」
「………冗談じゃないのに」
ブツブツ言ったけれど、希望は叶えてもらえなかった。今後やりたいことリストに加えておこう……
体も頭も洗い終わって、湯船に移動する前に、もう一度、シャワーの横の鏡に背中を写してみる。と………
(やっぱり、薄い……)
半年前、海で泳いで日に焼けたからだろうか? それくらいしか理由は思いつかない。海に行く直前に見たきりだから、いつから薄くなっていたのかも分からないけれども……
「浩介?」
「あ、うん」
促され、急いで湯船に浸かる。慶の上気した顔が色っぽい。色が白いから余計に赤が引き立つ。
「あー……やっぱりデカイ風呂はいいよなー」
「うん」
おれの背中のアザはきっとこのまま消えてくれるだろう。母との記憶も消えてくれたらいいのに。
「来年、ホントに絶対旅行行こうな?」
「うん」
ニコニコの慶に力強く肯く。おれは来年も再来年もずっと慶と一緒にいるんだ……
この日を境に、背中のアザのことを思い出す時間は減っていった。時折ふと思い出して鏡を確認するのだけれども、いつも何もなくて……。このまま、そんなもの存在した事実さえないかのように、時は過ぎていくと思っていたのに……
***
慶と付き合いはじめてからもうすぐ丸11年になる。
高校を卒業してから体を重ねることをはじめ……もう何度慶と一つになったかは、さすがのおれも数えきれない(はじめのころは数えていた、ということは内緒だ)。
「………慶」
ごめんね。
小さく謝りながら、そっとその柔らかい髪を梳く。
気を失うように眠ってしまった慶は、ピクリともせずに寝息をたてている。
最近、本当に自制がきかない。
『汚したい』
そんな歪んだ欲望の末、慶のその白皙に穢れた己の白濁をぶちまけてしまったのは約2週間前のこと。
さすがにもう、そんな失態は演じていないけれども……
(似たようなものか)
今日は無理矢理に快楽の頂点に連れていき、休息もとらせず、制止の言葉も無視して、疲れている慶をひたすらに攻め立てて……
(でも、慶が悪いんだよ……)
今日……慶が真木さんと一緒にいるところを遠くからだけど見かけてしまったのだ。
真木さんというのは、慶の勤める病院の系列病院の医師だ。10日ほど前、ゲイである彼は、慶を襲おうとして慶に伸されてしまったのだけれども、その後は仲直り?したらしく……
(考えてみたら、慶って昔からそうだったよな……)
ふいに、高校一年生の時に、おれのクラスメートと喧嘩をしたのに、直後にすぐ仲良くなっていたことを思い出した。だから友達も多いのだろう。
(ああ……嫌になる……)
何もかもが、嫌だ。最近、嫌なことばかりだ。
昨日は、顧問をしているバスケ部の生徒の親が学校に怒鳴りこんできた。部活のせいで勉強がおろそかになっている、と。そんなことを言われても、うちは私立高校で、部活動は勉強の妨げにならないよう、かなり時間制限されているので、これ以上練習時間を減らすことなんてできない。
(ああ、嫌だ。嫌だ……)
その親を見て、うちの母親みたいだ、と思ってゾッとしたのだ。
母親からは毎日、矢のように電話やメールがくる。
『浩介! いい加減にしなさい! ちゃんと電話に出て!』
留守番電話にふきこまれた母親の声。昔から変わらない。ヒステリックで高圧的で。吐き気がする……。
「…………」
せっかく慶と一緒にいるのに、母親のことを思い出している場合じゃない。
(蒸しタオル作ろうかな……)
慶を起こさないよう、そっと布団から抜け出る。慶は行為のあとそのまま眠ってしまっているのだ。体を拭いてあげないと……。
勝手知ったる慶の部屋。洗面台の棚にあるタオルを勝手に取る。その扉を閉めようとして……
「!!!」
息を飲んだ。鏡に写った背中に……
「なんだ……これ」
見たことがある。一瞬「懐かしい」という感覚さえ沸き起こった、見覚えのありすぎるアザ。
『ぼくの背中には醜い黒いアザがある』
自分の声が頭の中でわんわんと鳴り響く。背中に広がった、青黒い大きな……
『母に叩かれ続けてできたアザ』
ずっと消えていたのに。最後に叩かれたのは、中3の夏なのに……
『誰にも、誰にも見られたくない』
『こんなものを見られたら嫌われてしまう……』
そんなことはない。
慶は、慶は、何があっても大丈夫って……
「………慶」
深い闇の中に堕ちていく………
-------------------------------
お読みくださりありがとうございました!
はじまりました「閉じた翼」。安定の暗さの浩介でございます。
の前に、懐かしい修学旅行話。脱衣所の話は「将来5-1」でした。
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「その瞳に」から3日後のお話です。
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浩介の友人の一之瀬あかねさんが、真面目~な顔をして、言った。
「オレ、バリタチなんで、スミマセン」
バリタチ????
「はい????」
「何言ってんの?」
キョトンとしたおれと浩介に、あかねさんはさらに真面目に続ける。
「慶君、真木と会うの気まずいでしょ?」
「まあ………」
「……………」
真木というのは、おれの勤める病院の系列病院の医師で、3日前、おれを襲おうとしたナルシストの変態野郎だ。鳩尾に膝蹴り&延髄斬りでのしてやったけど……さすがに顔を合わせるのが気まずい、とは思っていた。
「ほら、ああいう男は、ネチネチといじめとかしそうでこわいじゃな~い? 一応、和解はした方がいいと思うのよ」
「和解………」
しないでいい。もう二度と関わりたくない。けれども、仕事となるとそうもいかないんだよな……
「そこで!」
パンっと手を打ったあかねさん。
「提案するのが、この魔法の言葉です。『オレ、バリタチなんで、スミマセン』」
「だから、何すかそれ……」
「だから、魔法の言葉。これを慶君にいわれたら、真木は絶対に和解に応じるから」
「はあ………」
「でも………」
顔を見合せたおれと浩介に、再び手をパンっと打ったあかねさん。
「はい!いいですか? Repeat after me!『オレ、バリタチなんで、スミマセン』」
「オレ、バリタチなんで、スミマセン……?」
「わあ慶!言わないでいいから!」
ぱたぱたと手を振った浩介。
「もー!あかねサン、何言わせてんの!」
「だーかーらー魔法の言葉だってー!」
「………………」
わあわあといつものように言い争いをはじめる浩介とあかねさん。あいかわらず仲良いよな……。
二人は職業が教師(浩介は高校の社会科教師、あかねさんは中学の英語教師だ)という共通点もあるし、いまだに、同じボランティアのNPO法人に所属しているし、親の前では恋人のフリをしているし、3日前、真木の滞在するホテルに浩介が現れたのも、浩介があかねさんに相談したかららしいし………。
内心、面白くない。と思うおれは心が狭い嫌な奴だ。あかねさんの恋愛対象は女性なので、浩介とどうこうなることはないと分かっていても、やっぱり面白くはない。浩介のことになると、おれはどうしても嫌な奴になる。
「まあ、向こうの出方次第で……言ってみます」
「そうしてそうして~」
ニコニコのあかねさん。
「慶、無理しないでね。また襲われたりしたら……」
「大丈夫だよ」
心配でたまらない、という顔をした浩介の頭を軽く小突く。
「ちょうど明日、勉強会で会うはずだから。様子みて対応してみる」
「うん……気をつけてね?」
浩介はものすごい心配してくれてるけど……大人なんだし、露骨に何かしてくることはないだろう………
と、思いきや。
「渋谷先生、真木先生と何かあったの?」
一緒に勉強会に出ている同期の吉村に聞かれるくらい、真木のおれに対する態度は大人げなかった。挨拶も完全無視。前回までは休み時間もベッタリ一緒にいたのに、今回はグループ討論の間までも、おれがいる方向に顔すら向けないほど、徹底的に無視してきたのだ。子供かよ!
(あったまくんなー……)
だいたい、悪いのはあっちで、こっちは正当防衛なのに。まあ、若干、過剰防衛気味だったかもしれない……? いや、そんなことはない。あんなもんじゃ気が済まなかったけど、早々に伸びてしまったから、それ以上はしないでやったんだ。完全なる防衛のみだ。
おれと真木の分厚い壁はそのままで勉強会は終わった。
終了後は各々で情報交換をしたりしていて、おれもお目当ての先生に質問に行ったのだけれども………
「ああ、それは、真木先生に聞いてみて? 同じような症例を扱ったことがあるってさっき言ってたよ」
「あ………はい………」
う……やっぱり真木になるのか……。そうじゃないかとは思ったけど……。
真木はあれで経験値も知識も高い優秀な医師なのだ。あちこちにツテもあるので、この1ヶ月で色々な人を紹介してもらえた。本当に頼りになる先輩なのに……あんなことさえなければ……
(仕事、仕事……仕事のため……)
なんとか自分の怒りを腹にしまいこんで真木の姿を探す……と、ちょうど部屋から出ていく後ろ姿が見えた。
「真木先生!」
すぐさま追いかけて声をかけたけれど、聞こえないんだか、まだ無視してるんだかで、さっさと歩いていってしまっている。悔しいけれど足の長さが違うので歩くのも速い。
院内は原則走るの禁止。出来る限りの早歩きで追いかけていくと、階段の方に曲がったのが見えた。ここは最上階なので、当然下りたのだろうと、おれも曲がって下りかけたのだけれども……
「慶君」
涼やかな声が上から聞こえてきた。振りあおぐと、真木が屋上前の踊り場の手すりから顔を出している。
(あそこからであの顔の位置になるのか……)
正直、真木の背の高さが羨ましい。真木の豊富な知識も経験値も人脈の広さも羨ましい。おれが持っていないものを真木はいくつも持っている。そのおおらかさも明るさも尊敬していた……のに。
真木がゲイであり、毎夜男を取っ替え引っ替えしているような男だ、ということはあかねさんに聞いた。男達にしなだれかかられて写った写真まで見せられては、もう否定もできない。
(まあ、否定するも何も、あの変貌をおれは身をもって体験したわけだしな……)
そうだ。そうだ。
しかも、奴は浩介にも色々言ったらしい。それが一番ムカつく。ああ、思い出したらやっぱり腹が立ってきた……
でも、我慢。我慢だ……。仕事のために、無視だけでもやめてもらわなくては……
階段をのぼりきると、壁に背をあずけ、腕を組んでこちらを見ている真木の姿があった。
「あの……真木先生……」
意を決して声をかける。
「こないだは……」
「慶君」
遮られたので黙ってしまう。何を言われるかと身構える。……と、真木がふわりと微笑んだ。
「君は俺のことが気になってしょうがないんだね。さっきもずっと見ていたよね?」
………………。
それは、お前が無視するからだろーが!!
という言葉はなんとか押し込める。
「いや、その……」
「無視していたのは、ちょっとしたお仕置き、だよ」
ふふふ、と笑った真木。
お仕置き……? 意味わかんねえ………
真木は固まっているおれにスッと近づいてきた。
「この前は悪かったよ。急に誘われてビックリしちゃったんだよね?」
「えーと……、って!」
ぐっと肩を掴まれ、嫌悪感からビクッとなってしまう。それをどうとらえたのか、真木は少し目を細めて穏やかに語りかけてきた。
「俺はね、君のことを初めて見た時から、君は俺の隣にいるべき子だと、確信していたんだよ」
「え………」
「その美しい瞳には俺だけを写していればいい。君こそが俺にふさわしい。俺が君を天国に連れていってあげる。俺だけの天使君………」
………………。
うわーーー蹴りてえええ! こいつ、今すぐ蹴り倒してえええ!!
(いやいやダメだ!我慢だーー!)
蹴ったら、仕事に支障がでる!
こうなったら、あかねさんの魔法の言葉を………っ
(………って、あれ?)
なんだっけ……
えーと、えーと……バリ……なんだ? なんだっけ?!
「慶君……」
「うわわわわわっ」
思い出すのに気をとられていたところで、顔を寄せられそうになり、慌てて身をそらす。
「慶君、照れないでいいから」
「いや、その………」
ムズムズする足を押さえつけ、一歩下がり二歩下がり……としていたら、後ろの壁に背中がついてしまった。
(しまった……っ)
おれとしたことが!迂闊過ぎる!
真木も今回はおれからの反撃に備えているようで、微妙に腕でガードをしながらもジリジリと迫ってきていて………
「慶君……」
「いや、あの……っ」
真木の香水の匂いがまとわりつく。まずい………蹴り倒して逃げるか? いや、そうしたらこいつはまた無視してくる。それは困る。だから、だからだからだから……っ
「慶君、自分の気持ちに素直になって……、痛っ」
「!」
まずい! 伸ばされた手を反射的に勢いよく弾き返してしまった。
驚いたように見開いた真木の目……
「すみませんっ」
あわてて頭を下げたけれど、瞳は驚きから怒りの色に変わっていき……
「お前……」
「あの……あの………」
バリ……バリ、バリ…………、なんだ?
今となっては、真面目に覚えず、意味さえ聞かなかったことが悔やまれる。
「いい加減にしろよ?」
口調の変わった真木の声。どんっと、壁の横に手をつかれる。
「調子に乗りやがって……」
「ええと、あの……」
なんだっけ……バリ……バリ……
「この俺がこうまで目をかけてやってるっていうのに」
「あの……」
バリ……バリ……
「自分の立ち位置ってものを少しは考え……」
「あああ!」
その言葉に、思わず叫ぶ。
立ち位置!立ち位置!立ち!立ち!立ちだ!
「あの!!」
思い出したーーー!!
「バリタチ!」
「え?」
怪訝そうに眉を寄せた真木に一気にまくし立てた。
「おれ、バリタチなんで!! すみません!!!」
***
あかねさんから教えてもらったその言葉は、本当に魔法のように効果があった。
真木はおれの頭の横についていた手をどかし、ジロジロとこちらを観察するように見はじめたのだ。戦意は完全に喪失している。
よしとばかりにおれは言葉を続けた。
「あの、真木先生のことは、本当に、尊敬してるんですけど」
そう、医師としては尊敬しているし、教えてほしいこともたくさんあるんだ。
「でも、すみません、おれ……っ」
「タチ……なんだ?」
ぽつっとつぶやいた真木。口に手をあてながら「へえ、そうか……そうなのか……」とブツブツいったあげく……、
「え!?」
急に爆発したように笑いだしたのでこちらが驚いてしまう。あはははははは……と、まるで舞台俳優のようにわざとらしい笑い声をあげて……
「あの……?」
「ああ、ごめんごめん」
バンバンッと肩を叩かれた。でもさっきみたいな、いやらしい感じじゃなくて、普通の、親愛の情のスキンシップ、という感じ。
「そうかそうか……君のその情熱的な視線は、完璧なタチである俺への憧れのものだったのか……」
「…………は?」
情熱的な視線? いつ、誰が、どこでそんな視線を送った!?
「すっかり俺に恋い焦がれるものだと勘違いしてしまったよ」
「…………」
だから、なんなんだそれは!?
「おかしいと思ったんだ。この俺の誘いをあんな風に……、なるほど。バリタチか。それなら納得だ」
真木、一人で勝手に納得している。
「君、喧嘩しなれてるの?」
「ええと……、おれ、背も低いし、顔もこれだから、昔から馬鹿にされることが多くて……それで鉄拳制裁っていうか……」
「なるほどね」
うんうん、と肯く真木。
「バリタチなのはそのコンプレックスのせいなのかもしれないね。そうかそうか。おれはそのコンプレックスを刺激してしまって、鉄拳制裁をうけた、と」
「いや、その……すみません」
意味も分からないし、言いたいことも山ほどあるけれども、本人が勝手に納得しているから、この際放置することする。
「いや……俺もね、今までノンケの子やタチの子を落とすこともしてきたよ? でも、幼少からのコンプレックスを崩すのは難しそうだし……ここは潔く、君のことは諦めるよ。また蹴られたらたまらないしね」
にこっと笑った真木は、出会ってからあの事件が起こるまでの間の、頼りになる先輩そのもので……
「これからは友人として、医師仲間として、よろしくな」
「よろしくお願いします!」
思わず差し出された手を握り返した。が、
「うわ、その笑顔……ホント天使だな……」
「!」
変なことを言われ、咄嗟に飛び離れる。
「ああ、ごめんごめん。もう言わない言わない」
「…………」
真木は笑いながら、階段を下りていき……
「慶君? 追いかけてきたのは何か聞きたいことがあったからじゃないの?」
「あ! はい! 清水先生に真木さんが同じ症例を扱ったことがあるって聞いて……」
並んで歩き出す。返してくれる答えはいつも通り、的確で分かりやすくて……
(あかねさんに感謝だな……)
本当に魔法の言葉だった。されたことはムカつくし、浩介に変なことを言ったことは許せない。でも、人間的にどうでも医師としては本当に尊敬できる人なんだ。こうして上手くつき合っていけるのなら有り難い限りだ。
(それにしても………)
バリタチって何だろう………
***
「バリタチっていうのはね……」
その日の夜、おれのマンションのベッドで1回戦を終わらせ、狭い湯船に一緒に入っている中で、浩介がおれの質問に答えてくれた。
「バリバリタチってことだよ」
「あ、やっぱりバリは、バリ3とかのバリってことな?」
すっごいとかそういう意味だな。バリ3というのは、携帯電話の電波が3本、バリバリ立っている、という意味で……
「じゃ、タチは?」
「タチはー……」
後ろから腰に回された腕にぎゅーっと力がこめられ、うなじのあたりに唇が落ちてくる。
「受け攻めの、攻めのことです」
「え、そうなんだ?」
「タチとネコという言い方もあるのです」
「知らなかった……」
まあ、受け攻めという言葉だって昔実家にいた頃に、妹が読んでいた本を拾い読みして知った言葉だけど……浩介はなんで知ってるんだ?
「なんでお前そんなこと知ってんの?」
「え」
「…………あかねさんに教えてもらったとか?」
腹の奥がムカムカムカムカするけれど、なるべく普通の顔で問うと、
「まさか。こないだ南ちゃんがくれた本に書いてあったんだよ」
「……………」
浩介とおれの妹の南は昔から仲がいい。南に関してはムカつかないのは妹だからだろうか。……いや、違う。南が浩介を情報源として利用していることを知っているからだ。南には浩介と仲良くする理由がある。
でも、あかねさんは、単なる友人。ただ単に、普通に気が合って仲良くなった友人。だから、モヤモヤする………
(あー、おれ、心狭い……)
ぶくぶくぶく……と水面に顔をつけると、浩介がぎょっとしたように、おれの腰から手を離した。
「慶!?どうしたの!?」
「なんか……嫌だ……」
「え!?何が!?おれが南ちゃんに本もらったこと!?」
あわあわと慌てている浩介。
「それとも、やっぱり、真木さんに何か……」
「真木?」
………忘れてた。
あー、とりあえず「バリタチ」の意味は分かった。真木にはおれが「攻め」だと嘘をついたってことだな。その手の話題をされた時に気を付けないと……
「あー……なんでもねえ……」
「なんでもなくないよ!何が嫌なの?!もしかしてこうしてお風呂一緒に入ることが嫌?」
「………………」
方向転換して、浩介の方を向く。浩介………ものすごく不安そうな顔してる………。
『老婆心ながら忠告させてもらうとね』
ふっと帰り際に真木に言われた言葉が頭によみがえる。
「慶君、ちゃんと桜井君に言葉で伝えてあげてる?」
「え…………」
言葉でって……
「桜井君、不安でしょうがないって顔してるよね? だからこそ俺も、つけ入る隙があるって思ってしまったんだけどね」
「………………」
「もし、言ってないなら、たまには愛の言葉を囁いてあげなよ? 少しは桜井君の不安も和らぐんじゃない?」
愛の言葉………?
「…………馬鹿馬鹿しい」
「え!?何が馬鹿馬鹿しいの!?」
「なんでもねーよ」
「なんでもなくな………、あ、慶……」
水中の浩介のモノを探しだして、優しく掴みながら、その不安げな瞳や口元に唇を落とすと、途端に蕩けるような表情になった。
(愛の言葉? んなもん言わなくても分かるだろ)
何年一緒にいると思ってんだ。こうして肌を重ねるだけで、充分伝わってる。
「慶……大好き」
「ん」
おれ達はこれからもずっとずっと一緒にいるんだ。
お前の瞳には、おれだけ写っていればいい。
-------------------------------
お読みくださりありがとうございました!
バリ3って、今の若い子は知らないよね(^_^;)
「何年一緒にいると思ってんだ」と慶君はいってますが、付き合ってまだ11年です。
現在(交際25年)の安定浩介とは違い、色々なことに不安でいっぱいの浩介君です。まだ若いです。
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(2017年3月3日に書いた記事ですが、カテゴリーで「現実的な話をします」のはじめに表示させるために2017年5月12日に投稿日を操作しました)
目次
0 おまけのBL(浩介視点)
1(溝部視点)+ おまけはBL
2(有希視点)+ おまけはBL
3(有希視点→溝部視点)+ おまけはBL
4(有希視点)+ おまけはBL
5(溝部視点)+ おまけはBL
6-1(有希視点)
6-2(有希視点)+ おまけはBL
7(溝部視点)+ おまけはBL
8(有希視点)+ おまけはBL
9(溝部視点)+ おまけはBL
10(有希視点)
11-1(有希視点)
11-2(有希視点)+ おまけはBL
12(溝部視点)+ おまけはBL
13(有希視点)
14(溝部視点)+ おまけはBL
15(有希視点)+ おまけはBL
16-1(有希視点)
16-2(有希視点)
17(溝部視点)・完
追加のおまけ(山崎視点→浩介視点)
溝部家のその後が書かれている短編
2017年8月「~クーラー設定温度の戦い」
2018年4月「~プライベートな話をします・前編」
2019年1月「~新年がくる2」
人物紹介
溝部祐太郎(みぞべゆうたろう)
41歳(←誕生日3月なので)。身長169㎝。ちょっと太め。お調子者。元野球部。現在某大手メーカー勤務
鈴木有希(すずきゆき)
42歳。身長168㎝。すらりとした肢体。元バレーボール部。一児の母。昨年離婚して現在肩身の狭い実家暮らし。
鈴木陽太(すずきようた)
有希の息子。小学校4年生。少年野球チームに入っている。
山崎卓也(やまざきたくや)
42歳。某区役所地域振興課勤務。おとなしく控えめ。近々結婚予定。
戸田菜美子(とだなみこ)
33歳(10月で34)。心療内科医。浩介の主治医。近々山崎と結婚予定。
渋谷慶(しぶやけい)
42歳。小児科医師。身長164センチ。中性的で美しい容姿。でも性格は男らしい。
桜井浩介(さくらいこうすけ)
42歳。フリースクール教師。身長177センチ。慶の親友兼恋人。
あらすじ
自称イケてる男・溝部祐太郎。
結婚願望はあるものの気が付いたら40過ぎ……
デートする女性はいても、なぜか交際までは発展しない。
付き合うことになっても、なぜか長続きしない。
原因は、高校の時に片想いをしていた鈴木有希の呪縛?!
昨年の同窓会をきっかけに、高校同級生たちとの親交が復活。
桜井浩介&渋谷慶カップルのラブラブっぷりにあてられ、ますます結婚したくなってきた溝部君。
でも、合コン相手の明日香ちゃんに頑張ってアタックしたものの、やっぱりうまくいかず……
そんな中、鈴木有希が離婚して実家に戻っている、という情報が飛び込んできた。
好き!ってことだけでは進めない、オトナの現実的な恋のお話。(になる予定)
浩介×慶のオチも何もないおまけの話付。
-------------------------------
お読みくださりありがとうございました!
ようやく書きます。溝部君の話。男女カップルの物語です。なるべくサクッと終わらせる予定……。
先日から溝部君と鈴木さんのことを思い出すために、高校2年生の時代、片恋・月光・巡合を読み返していて、く~~~っと一人で身もだえていました。
「片恋」~~慶君辛かったねえ偉かったねえ…
「月光」・「巡合」~~浩介頑張ったねえ偉かったねえ…
ああ、青春だなあ……
ここら辺は、私が現役女子高生の時に作ったプロットを元に書いたので、余計にガッツリ青春!という感じに思えるのかも…。
それから四半世紀がたち……「現実的な話をします」。アラフォーになった今だからこそ書ける「現実的な話」。
毎週火曜日と金曜日の朝7時21分に更新する予定です。
とりあえず、本日3月3日金曜日朝7時21分に、本編前のおまけの話をお送りします。
どうぞよろしくお願いいたします!
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おかげで新作に取りかかることができました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
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