翌日、階下の男に会いに行った。表向きは倒れた時に夫に知らせてくれたお礼を言うため。裏向きは……。
「あなた、何を知ってるんですか?」
聞くと、男は言いにくそうに頭をかいた。
「オレ、奴らと縁がある家系なもんで、色々見えるんですよ。お宅のベランダを初めて見たときに、奴の気配を強く感じて……」
「奴って? 彼のこと?」
「彼? ああ、上手いこと人の姿に化ける奴が多いですからねえ。あなたには人の姿で見えていたってことですね」
「・・・彼は、人じゃないっていうの?」
意味が分からない。確かに普通より随分と綺麗な男の子ではあったけれど、どこからどう見ても人間だった。
「えーとですねえ・・・この世界には普通には見えないものもたくさん存在しているんですよ。大昔は人間とも共存していたようですけど、今のこの物理的世界では、彼らのような精神的生物・・・」
「やめて!やっぱりいいです!」
慌てて遮った。聞かない方がいいと思った。彼は彼だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「そうですか? まあ、聞いたところでね……。でも、これから先、その赤ちゃん、あなたの精気を吸うようになるかもしれませんよ。そうなったらあなた……」
男は途中で言葉を止めて、ため息をついた。
「あなた、アレとどういう契約を結んだんですか?」
「……契約」
ふいに、頭の中に言葉が蘇ってきた。あれは初めて挿入した夜。「君のを入れて欲しい」と言った私に「僕に全部くれる?」と言った彼。そして確か「契約成立」と………。
「もう、彼には会えないのかしら?」
「さあ? アレもアレの中で色々決まりがあるらしいですよ。で、どういう契約を?」
「……契約なんてしてないわ」
そうですか?と男が首をかしげた。
そう。契約なんてしていない。私はただ……ただ、彼を愛しただけ。
妊娠8ヶ月を過ぎ、赤ちゃんの性別が男の子だと分かった。男の子希望だった夫は、はしゃいで喜んだ。夫が嬉しそうにすればするほど、申し訳ない気持ちになる。赤ちゃんは夫の子であると同時に彼の子でもあるのだ。
夫のことは人生のパートナーとして信頼しているし、愛されていると実感している。でも・・・・・・私は、彼と出会ってしまった。
夫への償いは、私が一生、夫のことを一番に愛しているという演技を続けることだと思っている。
土曜日の夜、夫が仙台で買ってきてくれた最中を二つ持ってベランダに出た。一つをチェアの横のテーブルに置き、一つを食べながら月を見上げる。甘いあんこの香りが漂う。
しばらく目を閉じていたら、ふいに、ふわりと抱きしめられたような感覚に陥った。泣きたくなるほど愛おしい腕……。
そっと目を開けて……驚いた。
テーブルの上の最中が、ない。
「ああ……」
自然と涙がこぼれてくる。次いで、笑いもこみ上げてきた。
「本当に、最中好きだったのね」
「うん。好きだよ」
耳元でささやかれた涼しげな声。
会いたい。会いたい。君に会いたい。
でも、振り向いても誰もいない。月の光だけが青白くベランダを照らしている。
「またここにいたのか」
しばらくして、夫が顔を出してきた。
「……ねえ、赤ちゃんの名前なんだけど」
月を見上げたまま言葉を続ける。
「『月也』はどう? お月様の『月』と、あなたと同じ『也』」
「おお。いいんじゃないか」
名付けは私に一任すると言いつつも、夫は自分の名前から一文字取りたがっていたので、嬉しそうに肯いた。
「我が家の王子は『月也』で決まりだな」
「ありがとう」
にっこりと夫に微笑みかける。夫が優しくお腹を撫でてきた。夫は責任感が強い人だ。きっと、私がいなくなっても、『月也』を大切に育ててくれるに違いない。
契約の「全部」というのが私の命という意味だとしたら……もしかしたら、私の命は月也と引き換えになくなるのかもしれない。でも、それでも構わなかった。それでこの愛しい命をこの世に送り出せるのならば。……と、思うのは『母』である私。
もう一人の私は……、子供が生まれたら彼が会いにきてくれるのではないか、と期待している、どうしようもなく『女』である私。
もう一度、君に会いたい。君に触れたい。そのためなら子供ですら利用する、ひどい女。
子供は彼との唯一のつながりだ。絶対に無事に産んでみせる。
「月也・・・月の王子。どうか元気に産まれてきてね。もうすぐ会える……よね」
月の光は、彼と出会った日と変わらない冷たさで、私達を包んでくれている。
<完>
-----------------------
以上です。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ここ数日、我が目を疑うアクセス数に驚きと緊張の連続でした。
読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
そのうち、成長した月也の話を書きたいな~と思ったり思わなかったり・・・。
何だか慌ただしい毎日で、パソコンの前にゆっくり座る余裕がないため、
またまた亀の歩み更新に戻るかと思いますが・・・
ボチボチやっていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
尚
「あなた、何を知ってるんですか?」
聞くと、男は言いにくそうに頭をかいた。
「オレ、奴らと縁がある家系なもんで、色々見えるんですよ。お宅のベランダを初めて見たときに、奴の気配を強く感じて……」
「奴って? 彼のこと?」
「彼? ああ、上手いこと人の姿に化ける奴が多いですからねえ。あなたには人の姿で見えていたってことですね」
「・・・彼は、人じゃないっていうの?」
意味が分からない。確かに普通より随分と綺麗な男の子ではあったけれど、どこからどう見ても人間だった。
「えーとですねえ・・・この世界には普通には見えないものもたくさん存在しているんですよ。大昔は人間とも共存していたようですけど、今のこの物理的世界では、彼らのような精神的生物・・・」
「やめて!やっぱりいいです!」
慌てて遮った。聞かない方がいいと思った。彼は彼だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「そうですか? まあ、聞いたところでね……。でも、これから先、その赤ちゃん、あなたの精気を吸うようになるかもしれませんよ。そうなったらあなた……」
男は途中で言葉を止めて、ため息をついた。
「あなた、アレとどういう契約を結んだんですか?」
「……契約」
ふいに、頭の中に言葉が蘇ってきた。あれは初めて挿入した夜。「君のを入れて欲しい」と言った私に「僕に全部くれる?」と言った彼。そして確か「契約成立」と………。
「もう、彼には会えないのかしら?」
「さあ? アレもアレの中で色々決まりがあるらしいですよ。で、どういう契約を?」
「……契約なんてしてないわ」
そうですか?と男が首をかしげた。
そう。契約なんてしていない。私はただ……ただ、彼を愛しただけ。
妊娠8ヶ月を過ぎ、赤ちゃんの性別が男の子だと分かった。男の子希望だった夫は、はしゃいで喜んだ。夫が嬉しそうにすればするほど、申し訳ない気持ちになる。赤ちゃんは夫の子であると同時に彼の子でもあるのだ。
夫のことは人生のパートナーとして信頼しているし、愛されていると実感している。でも・・・・・・私は、彼と出会ってしまった。
夫への償いは、私が一生、夫のことを一番に愛しているという演技を続けることだと思っている。
土曜日の夜、夫が仙台で買ってきてくれた最中を二つ持ってベランダに出た。一つをチェアの横のテーブルに置き、一つを食べながら月を見上げる。甘いあんこの香りが漂う。
しばらく目を閉じていたら、ふいに、ふわりと抱きしめられたような感覚に陥った。泣きたくなるほど愛おしい腕……。
そっと目を開けて……驚いた。
テーブルの上の最中が、ない。
「ああ……」
自然と涙がこぼれてくる。次いで、笑いもこみ上げてきた。
「本当に、最中好きだったのね」
「うん。好きだよ」
耳元でささやかれた涼しげな声。
会いたい。会いたい。君に会いたい。
でも、振り向いても誰もいない。月の光だけが青白くベランダを照らしている。
「またここにいたのか」
しばらくして、夫が顔を出してきた。
「……ねえ、赤ちゃんの名前なんだけど」
月を見上げたまま言葉を続ける。
「『月也』はどう? お月様の『月』と、あなたと同じ『也』」
「おお。いいんじゃないか」
名付けは私に一任すると言いつつも、夫は自分の名前から一文字取りたがっていたので、嬉しそうに肯いた。
「我が家の王子は『月也』で決まりだな」
「ありがとう」
にっこりと夫に微笑みかける。夫が優しくお腹を撫でてきた。夫は責任感が強い人だ。きっと、私がいなくなっても、『月也』を大切に育ててくれるに違いない。
契約の「全部」というのが私の命という意味だとしたら……もしかしたら、私の命は月也と引き換えになくなるのかもしれない。でも、それでも構わなかった。それでこの愛しい命をこの世に送り出せるのならば。……と、思うのは『母』である私。
もう一人の私は……、子供が生まれたら彼が会いにきてくれるのではないか、と期待している、どうしようもなく『女』である私。
もう一度、君に会いたい。君に触れたい。そのためなら子供ですら利用する、ひどい女。
子供は彼との唯一のつながりだ。絶対に無事に産んでみせる。
「月也・・・月の王子。どうか元気に産まれてきてね。もうすぐ会える……よね」
月の光は、彼と出会った日と変わらない冷たさで、私達を包んでくれている。
<完>
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以上です。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ここ数日、我が目を疑うアクセス数に驚きと緊張の連続でした。
読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
そのうち、成長した月也の話を書きたいな~と思ったり思わなかったり・・・。
何だか慌ただしい毎日で、パソコンの前にゆっくり座る余裕がないため、
またまた亀の歩み更新に戻るかと思いますが・・・
ボチボチやっていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
尚