「月の女王」の主人公・斉藤香は、特になりたいものも見つからないまま、短大に進学し、就職活動をし、ごくごく普通の会社に就職します。いわゆるお茶くみコピー取りから始まる事務職です。
当時、就職氷河期と呼ばれる時代で、就職できればどこでもいい!って雰囲気満載での就職でした。
そして、女性の社会進出も今ほど盛んではなく、香の就職した会社も、女性は結婚したら、もしくは結婚して子供ができたら退職する、というのが慣例となっていました(産休・育休も最低限の保障しかなかったし。今みたいに総合職でバリバリ働く女性がこんなにたくさんになる時代がくるとは思わなかったなあ)。そんな時代のお話です。
携帯はチラホラ持つ人が出てきてましたが、まだ主流はポケベルかな……って感じです。
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一人言(七)のノートより
『永遠を、待ってる』
「…………ふううううっ」
斉藤香は自室に入るなり、バタリとベットに寝転んだ。そうしなければならないほど疲れているのだ。肉体的にも精神的にも。
「……なーにやってんだろ、私……」
天井を見つめながらぼんやりとつぶやく。
今日は四月の二回目の金曜日である。つまり香が就職をし、働き始めてから十日目というわけなのだ。
はじめの一週間は緊張のし通し、新しいことに目を奪われっぱなしで、あっという間に過ぎてしまった感じだったのだが、二週間目にもなると周りが見え始め、会社の嫌な部分も目に止まりはじめる。
だが、一番精神的にこたえていることは別にあった。
それは……
「香ー? クリスくんから電話よー?」
突然、母親が電話の子機を持って部屋に現れた。ニヤニヤと冷やかし気味に笑っている。
「やーっぱりかかってきたわねー香。嬉しいでしょ?」
「うっるさいなあ、もおおっ」
があっと電話を受け取り、キッとにらみつける。
「余計なこといってないでしょうね?!」
「会いたがってるわよって言っといたわよ」
「だーれがよっ。たかが一週間で……」
香の二つ年下の恋人、クリス=ライアンは一週間ほど前から強制帰国させられているのだ。電話をかけることも禁止されているので、一週間、声も聴いていない。
「じゃ、ごゆっくりねー香ちゃーん」
ふっふっふっと笑いを残して出ていく母親をもうひと睨みしてから、香はあわてて電話をつないだ。
「もっもしもし?!」
『香?』
「………っ」
カーンっと頭の中で何かが響いたような感覚に襲われる。
『香? 聞こえてるか?』
「う……うん」
軽く首を振り、息を整える。
「大丈夫なの?電話なんかして。見張りとかは?」
『いない。大丈夫だよ』
「そう……」
一週間ぶりに聞くクリスの声が胸の隙間に広がっていくようである。静かにやさしく体中に浸透していく。
『香、お前こそ……大丈夫なのか?』
「なにが?」
『なんか……疲れた声してる』
「……ん」
ごろんと再びベットに寝ころび目をつむる。
「少し……疲れた、かな」
『香……』
「ん……」
クリスのやわらかい声が心地よい。
『……香。仕事、つらいのか……?』
「ん……というかね……」
まぶたの裏にクリスの姿を浮かべながら香は答える。本人が目の前にいるときよりも何十倍も素直になっていることに香は気づいていなかった。
「仕事がつらいとか……疲れるとか……そういうんじゃないの。そんなことより一番こたえてるのは……」
『こたえてる、のは?』
「……永遠、かな」
言ってしまってから、ふっと気が遠くなる。
今までは、小学校は六年間、中学・高校は三年間、短大は二年間と終着点がしっかりと見えていたのだ。しかしこれからは、終着点が決まっていない。毎日「このままでいいのか」「何をしているのだろう」と考えている。「今」の状態に納得していない。……いや、納得しようとしていない。納得したくないのだ。
「私ってなんなんだろうとか思うの。このまま終わりが見えない状態でいていいのかな、とか……」
『香……』
心配そうなクリスの声に涙が出そうになる。
香は本当にいつになく素直につぶやいていた。
「……会いたい、な」
言葉にしてみて、あらためて認識する。
「すごく……会いたくなる。こんなとき」
会って抱きしめてほしくなる。「心配ないよ。オレがいるから大丈夫だよ」といつものように言ってほしくなる。
「……なんていってもしょうがないけどさ」
『オレも会いたいよ。香。会いたい。お前に』
「クリス……」
ポロリと涙がこぼれた。
それに気付いたのか、クリスはあわてたように、
『なあ、香。そしたらさ、東側の窓、開けてみろよっ』
「東側の窓?」
東側の窓というと、ベットの真横の窓になる。
「なーに?『この空はオレがいるアメリカにまでつながってるんだぞー』とかいうわけ?」
くすくすと笑いながら、香はベッドの上で立ち上がった。そして窓に手をかける。
「今日は天気がいいから星が見えるかもしれないな。そっちの天気はど………」
窓を開き……言葉を止めた。いや、止まってしまったのだ。見覚えのありすぎる愛おしい金色の髪が真下の公園で月の光を受け輝いている。
「………クッ」
絶句した香に向かってクリスはひらひらと手を振ってみせている。
「な……っなんで……っ」
『いやあ、香に会いたくて、見張りぶん殴って出てきちまったんだよ。そうでもしなくちゃ日本に帰ってこられそうもなかったからさ』
「あ、あんたねぇ……」
言いつつも、怒っているのか笑っているのかわからないような表情になってきてしまった。
あんなに会いたかったクリスがすぐそこにいる。
すぐ、そこに。
『香。飛び下りてこいよ。今度はちゃんと受けとめるから』
電話の声と肉声が入り混じって響いてくる。
『お前を……今すぐ抱きしめたい』
「クリス……」
ストーンっと胸のつかえが外れた。そのまま両腕を広げているクリスの元に……飛び下りる。
マンション二階分の重力を感じたのも束の間、一瞬後には求めたものの中にいた。
「クリス……っ」
香はクリスの首に勢いよくしがみついた。
「会いたかった。香……」
耳元で本物のクリスの声がする。
「うん……」
力強く抱いてくれる腕に安心して身をまかせる。
「……あのさ、香」
「ん?」
「四年、待ってくれ。四年」
「……え?」
首元に埋めていた顔をおこし、真正面からクリスの青い瞳を見つめ返す。
「四年?」
「前に言ったときには、信用できないって言われたけど……」
「それは……」
ちょうど一年ほど前、五年待ってほしい、と言われた。でも香は「高校生の言うことなんて信用できない」と答えたのだ。
実際、その時のクリスはまだ高校三年生になりたてで、子供じみた夢を語っているにすぎなかった。しかしこの件をきっかけに、クリスは漠然としていた将来のことを本気で考えるようになり、ホワイト家とも今後のことについて話し合いを進めているらしかった。
背がさらに伸びたせいもあるが、クリスはこの一年で着々と、精神的にも外見的にも少年から青年へと変化を遂げていた。
「四年後にはオレ、必ずみんなに認められるようになるから。だから……会社勤めのお前の終わりは四年後ってことで。四年待ってくれ」
「四年たったら……?」
「四年後からは、オレと一緒に『永遠』をはじめよう」
「……永遠」
思わず口の端に笑みがのぼる。
「……考えとくわ」
「あ、香。オレ本気だからな。今度こそ信用してくれよ」
あわてたように言うクリスの頭をかき抱く。
「ん。分かってるわよ」
「それならいいけど……。でも、いいな。たまには、さ」
「何が?」
「しばらく会わないと、香ちゃんが甘えてくれるっ」
「……なによそれ」
いいつつも香はクリスの首から手を離さない。
「ほら、こういう風に香が抱きついてくれるなんてめったにないでしょー?」
「……だって。あ、やだ、離さないでよ?」
「か、お、り、ちゃーん?」
にやにやとクリスの顔がだらしなく緩んでいく。
「いーのかな? それ、そういう意……」
「だああっ。ちっがーうっ」
香は寄ってきたクリスの頬を思いっきりつねり上げた。
「ちがうちがーうっ。離さないでねって言ったのは、靴履いてないから地面に降ろさないでって意味ーっ」
「え? くつ?」
部屋から飛び降りてきたので、香の足はストッキングにしか包まれていないのだ。
「ありゃあ……どうしよっか。司邸の時みたいに、このまま抱いたままで家まで連れていくってのは……」
「絶対いや」
「……だろうから、ちょっと待ってろ。靴取ってきてやる」
クリスは器用に香を抱いたままハンカチをベンチにひくと、そこに香をおろした。
「すぐ戻ってくるから待ってろ」
「……ありがと」
香は足をブラブラさせながらクリスの金色の頭を見送ろうとしたが、ふ、と彼を呼び止めた。
「ねぇ……クリス」
「なんだ?」
振り返ったクリスを香はまぶしげに見上げ、
「………待ってる、ね」
「? おお」
不思議そうな表情をしてクリスは走って行った。その後姿を見つめながら香は小さくつぶやいた。
「……四年後の『永遠』。待ってるから、ね」
(1995.8.13,14)
ふー超久しぶり。せっかく夏休みなので書きました^^ 就職して二週目の木曜日ごろできた話。うーん、私もクリス欲しいなあ……。
↑と、当時20歳。就職したての私が書いてます。
超久しぶり、と言っても、前回は4月末に書いてるんですけどね。
この時、香は(というか、私も)、結婚が終着点、と思っていた。結婚さえできれば幸せになれる、みたいな……
それから二年後……↓↓こんな感じに考えは変わっていきます。世の中の流れも変わってきたんだよね。
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『将来の夢』
(私の将来の夢はなんだろう?)
最近、斉藤香はそんなことを考えることが多々ある。
入社して丸二年たち、社内でも中堅どころに仲間入りする三年目。それなりに責任のある仕事も任されており、毎日忙しい。入社当時とは打って変わり、残業も増え帰りも遅い。休日も疲れていて遊びに行く気になどなかなかならない。
(私の将来の夢ってなんだろう?)
あと数年すればきっと結婚し、会社も辞めるだろう。
(結婚するのが夢?)
否。香は小さく首をふる。
(クリスのことは愛してる。もちろん。結婚するんだったら彼とじゃなきゃダメだもの)
でもそのクリスとも実は目下喧嘩中。原因は約束していたデートをキャンセルしたからである。どうしても出かける気になれなかったのだ。
(私、このままでいいのかな……)
このままなし崩し的に今の会社で勤め、自分のしたいこと(何をしたいのかはまだわからないが)もせず、そのまま何年かたち、なし崩しに結婚。それで終わり。
(私、何をしたいのかな……)
まだ、わからない。でも何かしたい。「何か」したいのだ。その「何か」を見つけたい。このままでは会社に従属し、クリスに従属し、「自分」をもたないまま終わってしまう。
(みつけなくちゃ。探さなくちゃ、だよ)
自分、を。まだ今年で23歳。いくらでも可能性はある。
「………よし。行こう」
香はゆっくりとベットから身を起こした。
(1997.8.16)
…2年ぶりだよいろんなことあったねぇ…2年たつと会社や恋人に対する目もこんだけ変わります
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これを最後に、「一人言」のノートは終わっています。ようやくシュレッターかけられる~。
これから17年かあ。色々あったねえ……。でもあっという間だったよ。
まさに今現在、従属人生を満喫している私のことを、当時の私は何というだろう
私、今回、これを読み返すまで、クリスと香は普通に結婚して幸せに暮らしましたとさ、おーしーまい。なのかと思ってました。
でも、どうもそうでもなさそうなの?なんなの?って気がしてきました。
あ、でも、クリスと香が結婚するってことは確定です。
2人の間の子供(女の子と男の子の双子)が小人のアル・イーティルと出会って……ってベタな話も漠然と考えてたし。
そのうちその後の話を書くかもしれないし、書かないかもしれないし。
今は「風のゆくえには」を書きたくてうずうずしてるので、そちら優先で。
んで、二本書いたら今年は終わりにします。