【享吾視点】
大学生になると同時に一人暮らしを始めた。家族で住んでいたマンションを引き払うことになったからだ。
オレの母親は、オレが中学3年生の時に、精神を病んで数ヶ月入院し、退院後は実家に戻っている。祖母は、亭主関白だった祖父を看取って、ようやく自由な時間を得たばかりだったというのに、今度は娘の世話をすることになるとは思いもしなかっただろう……
母の記憶は入院時とかわらず、結婚当初に戻っているため、オレと兄は混乱を避けるために会うことは許されず、父だけが週末に会いに行くようにしていた。
それから約3年……、母の世話をしている祖母の気力と体力が限界にきていたこともあり、オレが高校を卒業したのを機に、父が母の実家で同居することになったのだ。
「落ちついたら会わせるから、それまで待っててくれ」
と、父は申し訳なさそうに言ってくれた。
兄は父にはにこやかに「大丈夫だよ」と答えていたけれど、オレに対しては「別に二度と会わなくてもいいんだけどな」と吐き捨てるようにいっていた。兄の母に対する気持ちは相当複雑のようで、オレには理解することはできない。オレはただ……
(お父さん、すごいな)
という思いが強い。父は病気になった母を懸命に支えようとしている。そして母はそんな父を心から信頼しているらしい。母が入院するまでは、ごく普通の両親としか思えなかったのに、実はこんなに強い絆で結ばれていたということを知って、『羨ましい』とまで思っている。
そんな風に思えるのは、哲成のおかげだろう。哲成がいなかったら、オレは母に忘れられたことにもっとショックを受けただろうし、母を恨んだりもしたかもしれない。でも、家族よりも愛しいと思える哲成の存在が、オレを救ってくれる。オレも、哲成にとって、母にとっての父のようになりたい。
哲成はあいかわらず義母と上手くいっていないらしい。週に2回はオレのアパートに泊まりにきて「息抜き」をしている、という。
「いっそのこと、ここに住んだらどうだ?」
と、誘ってみたけれど、
「そうしたら本当に取り返しがつかなくなる気がする」
といって断られた。まだ、新しい家族を諦めていない哲成がいじらしい……
哲成とは、高校時代と同様「友達以上恋人未満」を続けていた。シングルベッドで二人並んで寝ていても、何もしない。でも、何となく手は繋ぐ。何となく軽いキスはする。それだけだ。
正直に言うと、我慢できずにベッドを抜け出してトイレで処理することもある。でも、それでも、この心地のよい関係を壊したくなかった。
「キョウ……ピアノ聴きたい。次のバイトいつ?」
「明日」
「ん。じゃ、明日行く」
「分かった」
額にキスをする。ぎゅっと抱きしめる。それだけで、充分幸せだ。
***
ピアノの生演奏を売りにしているレストランでアルバイトをすることになったのは、一つ年上の音大生・笹井歌子との出逢いがきっかけだった。
大学に入学した直後、いつものようにコッソリと、渋谷の楽器店のピアノを拝借してピアノの練習をしていたところ、
「君、アルバイトしない?」
と、歌子に声をかけられたのだ。これから2時間後にレストランで演奏しなくてはいけないのに、うっかり指をドアに挟んでしまって、指先に血豆ができてしまった、という。
「閉店後にピアノの練習してもいいから」
「…………」
時給の良さよりも何よりも、その条件に気持ちが傾いた。即答でコックリ肯いてしまったら、歌子は「よかった」とほっとしたように笑った。
後から聞いたことによると、歌子は何度かオレが練習しているのを見たことがあったそうで、この日、血豆ができて代わりを探さなくてはならない、となった時に、真っ先にオレのことが思い浮かんだそうなのだ。
その日の演奏は、まあ、特に問題なくこなせたようで、歌子の父親だというオーナー兼シェフに、
「ウェイター兼時々ピアニストってことでどう?」
と、誘われた。それで「営業時間外にピアノの練習をしてもいい」ということを条件にアルバイトをすることになった。
(これで哲成にピアノを聴かせられる)
高校時代のように音楽室を借りるわけにはいかないので、どうしようかと思っていたから、それが一番嬉しかった。
その店では、夕方6時から計5回、一時間毎に20分間ピアノの生演奏をする。
「誰でも何となく知っている曲」というのが、選曲の条件となっている。初日は急だったこともあり、自分の弾けるクラシック系の曲しか弾かなかったけれど、その次からは、ジャズやポップスの曲を弾くよう楽譜を渡された。
あまり弾いたことのない系統の曲は、新鮮で面白い。でも、自分のものにできないもどかしさもある。
「え? そんなことないだろ。普通に上手だったぞ?」
聴きにきてくれた哲成はそういって褒めてくれたけれど、自分的には全然納得がいかない。いつか自分でも納得のいく演奏ができるようになるだろうか。
哲成は時々店に来てくれる。来るのはたいてい、夜10時の最後の演奏時間前だ。そして、毎回飲み物だけを注文する。毎回違う飲み物を注文するのは、全部制覇するつもりだからだそうだ。成人したらアルコールのページも頼めるようになる、と嬉しそうに言っていた。
哲成が聴いている回は、ついついクラシックの曲を増やしてしまう。そして、ついつい熱も入ってしまうようで、弾き終わってピアノを離れる際に、お客さんからそれを指摘されることもあるし、笹井歌子からも冷やかされた。
「享吾君の『月の光』の解釈は正しい」
「…………。どういう意味ですか?」
ドビュッシーの月の光。哲成のお気に入りの曲なので、哲成が来ると必ず弾くのだけれども……
「この曲って、月の光の情景を描いたんじゃないんですって。享吾君のそれが当たりみたい」
「だからそれって何ですか?」
意味が分からない。眉を寄せて聞き返すと、歌子はニッと笑った。
「切ない思い、みたいな?」
「え」
「切ない感じが溢れてて素敵よ」
「………………」
思わずムッとして見返すと、歌子は「褒めてるのに」とまた笑ってから、小さく付け足した。
「ちょっと、羨ましい」
「羨ましい?」
「私には出せない音だから」
「出せない?」
どういう意味だ?
見返すと、歌子は再びニッと笑った。
「でも、私にしか出せない音もある。だからいいの」
「………?」
歌子の言うことは、時々意味が分からない。分からせる気もないようだ。
(切ない思い……)
切ないつもりなんかない。オレは今のままで充分だ。充分なんだ。
***
夏休み中は、哲成がサークルとバイトで忙しそうだったので、ウェイターのシフトを増やしてもらった。でもそんな中でも、海、花火大会、お祭り、映画……と、高校生の時と同じように一緒に過ごせたので、オレ的には充実した夏休みだった。
夏休みの終わりには、バイト先に父が母を連れてきた。
父と一緒に住むようになってから、母の記憶は少しずつ整理されていったそうで、オレと兄のことも思い出したらしい。でも、密に接するにはまだ時間が必要なので、とりあえずオレのことを「見に来た」そうだ。
久しぶりに見る母は、少しふっくらして、前よりもずっと健康そうだった。母が幸せならそれでいい、と思う。
それ以来、時々、両親は店を訪れるため、必然的に、哲成とも会ったらしい。10月に入ってから、哲成に言われた。
「店の前でキョウのお父さんとお母さんに会ったぞ? お母さん、元気そうだった」
「ああ……うん」
「良かったな」
「…………」
その時の哲成の表情は、どう解釈したらいいのか分からない。遠くを見るような目で……何となく、不安になった。何が不安なのかは分からないけれど、不安……
不安が的中したかのように、その頃から、哲成が泊まりにくる回数が減った。一緒にご飯を食べたり遊びにいったりはするけれど、泊まりはめったにしない。
あまりにも泊まらない日が続いた時に、理由を聞いたところ、哲成は少し言いにくそうに答えてくれた。
「なんかな、せっかく最近、ママさんの当たりが柔らかくなってきたから……」
ママさん、というのは、哲成の父親の再婚相手のことだ。哲成はずっと彼女に邪険にされていたのだ。
「何で? 何かあったのか?」
「あー……うん」
哲成は頬をかくと、ポツン、と言った。
「たぶん……森元がうちに遊びにきてから、なんだけど」
「………………」
森元……森元真奈。
高校の時に塾が一緒だった、哲成に言い寄っていた女子だ。まだ繋がっていたとは知らなかった……
(っていうか、「うちに遊びに」って……)
そんなに親しいのか、と、愕然としてしまう。それなのに、そんな話、聞いたこともない。
(でも……それをとやかくいう権利はオレには無い)
あらためて、そのことに気がつく。オレは結局、哲成の友達でしかないのだから。
「そうか……じゃあ、梨華ちゃんとも遊べてるのか?」
「うん!オレのこと『テックン』って呼ぶんだよ!超可愛い!」
「…………」
そうか。妹とも遊べてるのか……。お互い家族の話なんてしないから、まったく知らなかった。知らなかった。けど、でも……
「…………良かったな」
「うん」
お前が笑顔でいられるなら、良かった。
だから、秋の終わりに、
「オレ、森元と付き合うことにした」
と、哲成から報告をうけた時も、
「良かったな」
と、同じように言った。それ以来、キスはしていない。
***
そこまで話したところ、西本ななえは、しばらくの沈黙のあと、
「…………なんかよく分かんないなあ」
と、ボソッと言った。
大学2年生の6月。中学3年生の時の同窓会で再会した西本ななえに、中学を卒業してから今までのことを話せ、と詰め寄られ、促されるまま延々と話してしまったのは、やはり誰かに聞いてもらいたい、と思っていたからかもしれない。
「亨吾君はこれでいいの?」
「これでって?」
「なんかモヤモヤしない?」
「…………」
眼鏡の奥の鋭い瞳がジッとこちらを見つめてくる。
「結局、テツ君って亨吾君のことどう思ってたの?」
「それは……」
友達、だろ。
そう言うと、西本は鼻で笑った。
「普通、友達にキスとか許す?」
「…………」
「それ以上に進もうとしない亨吾君にヤキモチ焼かせるために女に走った、とかじゃないの?」
「それはないだろ」
そんなことが理由だとしたら、さっさと別れてるはずだ。でも、哲成と森元真奈はもう半年以上も付き合ってる。
二人は上手くやってるようだし、オレと哲成の友達関係も今も変わらず続いている。ただ……過剰なスキンシップがなくなっただけだ。
そう説明すると、西本は「まー、いいや」と、軽く肩をすくめた。
「私、片方からの情報だけでは判断しないことにしてるの」
ハッキリキッパリ言う西本。
「だから、テツ君にも聞いてみるね」
「やめてくれ」
何を聞くっていうんだ。
眉を寄せてみせたけれど、西本はまったく取り合わず、「亨吾君から聞いた話はしないから安心してー」と言いながら、入口の方を見た。
「あー、テツ君早く戻ってこないかなー」
哲成は今、森元真奈を送りにいっている。家まで行くだろうから、そんなに早くは戻ってこないだろう。
案の定、同窓会がお開きになった直後に、哲成はようやく戻ってきた。
でも、オレが他のクラスメートに囲まれて「二次会に行こう」と誘われている間に、哲成と西本ななえは消えてしまって……
(西本、変なこと言ってないだろうな……)
非常に心配だけれども、二人の行き先も分からず……
しょうがないので、二次会に途中まで参加してから、一人アパートに帰ることにした。
西本に色々話したせいか、いつもよりも更に、頭の中で哲成との思い出がグルグル回っている。二次会で飲んだ酒のせいもあるかもしれない。
だから、アパートに着いて……
「おせーよ」
ドアの前、小さくしゃがみこんでいる哲成が、こちらを見上げて文句を言ってきた姿を見た時には、酔っているせいの幻覚かと思ってしまった。
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………長っ!
この長文を耐えて読んでくださった方、本当に本当にありがとうございます!
「1」までどうしても戻りたくて、切らずに行ってしまいました。
次回はこの続きから……
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