あの日以来、おれは気がつくと『あいつ』の姿を探していた。
でも結局見つからなかった。
バスケ部員かもしれないから、バスケ部の練習を見に行く、という手もないことはないんだけど、バスケ部には顔を合わせたくない奴がいるから顔をだしたくなくて……。
ジャージの色が同じだったから、同じ一年生だということは確かなんだ。でも、一学年12クラスもあるから偶然会うということは無理なのだろう。休み時間にそれとなく他のクラスにも顔を出してみたけれど、結局会えず……。
でも、たぶん、今日は会える気がする。おれはこの日がくるのをずっと待っていた。
今日は『あいつ』を見た日からちょうど二週間。先週の木曜日はGWで休みだったから、あの日以来、初めての学校のある木曜日。
『あいつ』が毎週木曜日に一人で練習しているかどうかは分からない。でも、確信みたいなものがあった。『あいつ』は必ずいる……。
担任に頼まれた用事をすませて教室に戻ってきたら、もう5時近くになるところだった。2週間前とちょうど同じ時間だ。あわてて教室を出ようとしたところで、
「し、渋谷君っ」
いきなり声をかけられ、立ち止まった。振り返ると、隣の席の石川さんが、緊張した面持ちでカバンを胸に抱えたまま立っている。
「……石川さん?」
「ど、どうしたの? 渋谷君がこんな時間まで残ってるなんて珍しい……」
「そう?」
ん? そうか、珍しいか。でもそれはお互い様のような気が。
「石川さんこそどうしたの?」
「あ、私は華道部で……今日は早めに終わったんだけど忘れ物しちゃって……」
「ふーん」
もう5時だもんな。特別届がでている部活の人間以外は5時半には下校しなくてはならない。
だから『あいつ』も5時半までしかいられない。早く行かないと……
おれは『あいつ』のあの心の底からの笑顔を、ヘタックソなくせに一生懸命なところを、もう一度みたいんだ。
「じゃ」
こんなところで時間を潰しているわけにはいかない。石川さんに手を振りさっさと出て行こうとしたころで、
「おやー? お二人さん。逢引きですかー?」
今度は同じクラスの安倍康彦、通称ヤスの調子の良い声に引き留められた。
次から次へとなんなんだっ。
「あ、安倍君っ」
石川さんが真っ赤な顔になってヤスにつっかかっている。
「あ、逢引きって、そんな私はただ忘れ物取りにきて、それで……」
「それだけのわりに顔赤いよー?」
「そんなこと……っ」
「…………」
どーでもいい………
「じゃーな」
ヤスにも手をあげ、ドアに向かう。
こんなところで時間を取られている場合ではない。『あいつ』が帰ってしまったらどうしてくれるんだ。おれの心は体育館の『あいつ』のことでいっぱいで、それ以外のことは考えられない。が、
「なんだよ、渋谷、逃げるのかー?」
逃げる?
ヤスの声にピクリと立ち止まった。逃げるとは聞き捨てならない。振り返り、吐き捨てるように言う。
「あほらしくて付き合ってらんねーだけだよ。ばーか」
「え………」
「え?」
すると驚いたことに、石川さんが真っ赤だった顔を真っ青にして、口に手をあててブルブル震えだした。
「石川さん?」
「あの……っ」
石川さんは、おれの顔をじーっと見てたかと思うと、
「ごめんなさいっ」
ダーッと横をかけぬけていってしまった……。
「……なんだあれ?」
理解不能………。
おれがつぶやくと、ヤスにあきれたように言われた。
「石川さんはお前のこと好きなのに、どうしてああいう言い方するんだよ」
「は?」
「だからー」
ヤスの言うところによると、ヤスは石川さんの友達の枝村さんから頼まれていたそうなのだ。渋谷に好きな人がいるかどうか調べてほしい。石川さんが気にしてる、と。
………どーでもいい。
「興味ねえ」
いうと、ヤスは興奮したように、石川さんといえばクラスで1、2を争うくらい人気のある子なのにもったいない!と騒ぎ立てはじめた。
おれとしてはこんなところで時間を潰している時間のほうがもったいない。『あいつ』のことを見れなくなってしまうではないか。『あいつ』のあの笑顔を思い出して、走りだしたくなってるおれの気なんか知らずに、ヤスは一人で騒いでいる。
「あーもったいない!もったいない! あんな可愛い子、他にはいないぞっ」
「あ、そういうことか」
ヤスのすごい剣幕を見ていて、ようやく気が付いた。
「ヤス、お前、石川さんのこと好きなんだ?」
「え?! いや、オレはそんな………っ」
分かりやすく動揺するヤス。
アホだなこいつ。
「だったらおれとくっつけようとしないで、自分が何とかしろよ」
「いや、だから、石川さんはお前のことがだな」
「おれは興味ねーから」
「でも」
あーとかうーとか言っているヤスに指を突きつける。
「言っただろ。おれはおれより10センチ以上背の低い子にしか興味ねえの」
石川さんの身長はおれとたいして変わらない。
「渋谷より10センチ以下って、150センチ以下ってことだろ? そんなこと言ってたら、彼女できねえぞ」
「ほっとけ」
ヤスに一回蹴りを入れてから、教室を出る。
「渋谷ー、もう帰るなら一緒に帰ろうぜー? オレももう委員会の仕事終わったんだよー」
「悪い。まだ帰れない」
背中にかかった声に振り返りもせず、後ろ手に手を振り、廊下を走りだす。
そう、まだ帰れない。おれは『あいつ』に会うまで帰れない。
***
「慶はその男の子のことが羨ましいのね」
体育館に向かいながら、姉に言われた言葉を思いだす。
2週間前、『あいつ』を見たあと、走って家に帰ってきたおれは、物置の中にずっと入れっぱなしだったバスケッドボールを数か月ぶりに引っ張りだして、近くの公園にいった。
久しぶりのボールの感触。でもすぐに手に馴染む。久しぶりなのにへそを曲げることもなく、おれのいうことを良く聞いて、素直にゴールにも入ってくれる。
もうバスケに未練はない、と思っていたのに、ほんの少し胸がざわつく。
時間を忘れてシュート練習をしていたら、姉が「ご飯、そろそろできるわよ?」と呼びにきてくれた。
「珍しいわね? 慶がバスケするの」
「うん……」
バスケをするのも珍しいが、姉と二人きりで話すのも、数か月ぶりだ。……ずっと避けてきたから。
「何かあった?」
「うん……」
パンッとパスをすると、パシュッと受け止めてくれる。そして、パンッと心地よい強さでボールを返してくれる。姉も中学まではバスケをやっていたのでそれなりの球を投げられるのだ。
小さい頃からずっとそうだった。姉はいつでもおれのそばにいておれのことを受け止めてくれていた。
でも……
おれのことだけ受け止めてくれていた姉に、恋人ができた。キューピットとなったのはあろうことかこのおれだった。
昨年の夏……
おれは試合後の居残り練習の最中に、足に激痛が走り倒れてしまった。診断結果は『膝前十字靭帯損傷』。
今後のことを考え、手術を選び、その後の鬼のようなリハビリにも耐えていたおれ……
しかし、リハビリを担当してくれた近藤先生と姉が付き合うことになったのは、計算外だった……。
順調に回復したため、今はもう、スポーツに対する制限は何もないのだが、でも、もう、バスケはいいかな……と思ってしまった。
元々姉がやっていたのでやり始めたバスケ。姉が喜ぶから中学もバスケ部に入っただけだし、特別バスケが大好き、というわけではなかった。それどころか、自分の背の小ささを再認識させられることも多いし、レギュラー争いでチームメートと揉めたりもしたので、自分にバスケは向いてない、とも思っていた。だからこの怪我はバスケをやめる良いキッカケになった気さえしていた。
それなのに、入学した高校のバスケ部の顧問の上野先生は、どうしてだかおれのことを知っていて、しつこくバスケ部に誘ってきた。まあ、すべて丁重にお断りしたわけだけれども……
(でも、考えてみたら、2週間前、上野に呼びだされてなかったら『あいつ』を見ることもなかったんだよな……)
そう思ったら上野先生に感謝したくなってきた。
上野先生には「バスケ以外にやりたいことがあるのか?」と聞かれたけど、何も答えられなかった。
正直にいって、今のおれには何もない。毎日勉強して寝てるだけだ。
「慶はその男の子のことが羨ましいのね」
姉の言葉は的を射ているのかもしれない。おれは一生懸命ゴールに向かってボールをなげていた『あいつ』が羨ましかったのかもしれない……
体育館への階段を、心臓をバクバクいわせながら、一歩一歩のぼる。
体育館の外へ向かう扉……開いてる。誰か中にいるってことだ。
(いる……かな)
心臓が口から飛び出そうになりながら、そっと中をのぞいたが……
「…………いねえし」
思わず声に出してつぶやいてしまった。
体育館の中はガランとしていて人っ子一人いない。気味が悪いほど静まりかえっている。
「ばっかみてー……」
何をこんなに心臓ドキドキさせながら来てんだよおれ。何この二週間ずっとこの日を待ってたんだよおれ。
ホント、ばかみてー……
「それにしても……」
なんでこの体育館開けっ放しで電気までついてんだ? 紛らわしいな。消し忘れか?
「ま、関係ねーな」
くるりとふりかえり……
「!!」
ぎょっとするっていうのはこういうことをいうんだな、と思った。
「な………」
あいつが目の前に立っている。
思っていたよりも背が高い。優し気な目元。スッと筋の通った鼻。長い手足……
「あ………」
「あーーーーー!!!」
おれが何か言う前に、奴が大きく叫んでおれを指さした。
な、なんだ?!
奴は口をパクパクさせ、一回口を閉じてゴクンと唾を飲みこんでから、また、大声で叫んだ。
「あーーーー!!」
「えええええ??」
な、なんなんだ? なんなんだよ一体!?
呆気に取られてるおれの前で、奴はパンパンパンっと自分の頬をたたくと、その手を頬においたまま……というか、その手がだんだん下がってきてるから、ムンクの叫びみたいになりながら、また、叫んだ。
「渋谷、慶!!」
「…………へ?」
なんでおれの名前を?
奴はムンクの叫びのポーズのまま、おれを見下ろしてブツブツ言っている。
「本物だ……本物の渋谷慶だ……すごい……どうしよう」
「………は?」
何が本物? 何がすごいって? こいつ何言ってんだ??
「お前、何を……、えええっ」
「わあああああっ」
腕に触れようとしたら、びっくりするほどの勢いで遠のかれたので、驚いてしまう。だから、なんなんだよっ。
「お前、さっきからなんなんだよっ。意味わかんねえだろっ。ちゃんと説明しろっ。なんでおれの名前を知ってる?!」
「あ……はい」
おそるおそる……という感じに奴は戻ってくると、なぜかお祈りをするように手を組みながら、
「あの……おれ、昨年の夏に十中であったバスケの試合で、渋谷のこと見て、それからずっと渋谷のファンで、あの……その……」
「夏の十中の試合……」
おれのバスケ生活最後の試合だな……
「渋谷も白高だったなんて知らなかった……会えるなんて感激すぎて……」
「…………」
なんだそりゃ。
「渋谷はどうしてバスケ部入ってないの? あ、そうか、クラブチームとかそういうのに入ってるの?」
「…………」
くらくらするほどの尊敬の眼差しを真っ直ぐに向けられ、なんだか申し訳なくなってくる……
でも、だからこそ、生半可な答えをしてはダメな気がして正直に答える。
「おれ、バスケはもうやめたんだよ」
「え?! どうして?!」
当然の質問に、おれ自身も惑いながら答える。
「お前が見たっていう十中での試合の後に怪我して手術したりしてな」
「えええええっ」
いちいちウルサイ。
「ご、ごめんっおれ、全然知らなくて……っ」
「ああ、違う違う。別にもう普通に運動していいんだよ。怪我のせいでバスケやめたわけじゃないんだ」
「じゃあ、どうして?」
首を傾げた奴に、おれも首を傾げてみせる。
「うーん。どうしてって……。まあ、バスケをやる理由がないからってとこかな」
「理由………。あ、あれ、おれ、ボールどうしたっけ」
「ボール?」
少し離れたところにボールが転がっている。おそらく外に出てしまったのを拾いにいって、おれに会って驚いて手から離してしまったのだろう。
「お前、一人で練習してんのか?」
「うん……おれすっごい下手くそだから、みんなに追いつくために練習しないとって思って」
「ふーん」
うん。お前が下手くそなことは知ってる。
でもあれから2週間か……少しはマシになってるのかな。
「ちょい、やってみ?」
「えええっ」
無理、とか、緊張する、とか奴はブツブツ言いながらゴール下に行き、シュートをした。けれどもリングにあたり跳ね返ってきた。
まあ、でも、リングにあたっただけ、2週間前よりはずいぶんマシになったといえる。
「あーやっぱり入らなかった……」
「まあ、あれじゃあ、入らないよな」
「え」
振り返った奴に、ボールを寄こせ、と手招きする。受け取ったボールを頭の上に構える。
「手本。見とけ」
「え?」
きょとんとした奴の目の前で、嫌味なぐらい綺麗なフォームでシュートする。当然ボールはキレイな弧を描き、ネットの中を通り過ぎていく。
「すごい……」
途端にキラキラした目になった奴に、苦笑してしまう。
「別にすごかねえよ。こんなのお前でもすぐにできるようになる」
「うそだあ」
「うそじゃねえよ」
「うそうそ」
言いながら奴がボールを取りに走っていく。
その後ろ姿を見ていたら、なぜか無性に笑いたくなってきた。
なんだろう、おれ、今、すげー楽しいかもしれない。
もう、楽しめないって思ってたバスケなのに、こいつとだったらやってもいいって思ってる。
「なあ……」
「ん?」
きょとんとこちらを見返す奴。そういや名前も聞いてなかったな……。そんなことを思いながら奴に言う。
「よければ、練習付き合おうか?」
「………え」
「あ」
奴がびっくりしたように目を見開いたので、迷惑だったかと慌てて手をふる。
「あ、いや、別にいいんだ。ただ、一人で練習するよりはちょっとは……、え」
「……いいの?」
真剣に問いかけてくる様子がなんだかおかしい。
「いいぞ?」
「本当に?」
「だからいいって」
こっちは笑ってしまったけれど、奴はいたって真面目な顔をして、ボールを足元に置くと、ジャージできゅっと手を拭いてから、その手をこちらに差し出してきた。
「よろしくお願いします」
「あ……うん」
おれもつられて手を差し出すと、奴はおれの手を両手で強く握りしめてきた。なんなんだこいつ……
「お前……名前は?」
「あ……はい」
奴は、まだおれの手をギュウギュウギュウと握りしめたまま、ふわりとした笑顔になって、言った。
「さくらい、こうすけ、です」
「…………」
さくらい、こうすけ……
心の中でつぶやくと、なぜかドキンと心臓が跳ね上がった。
「よろしくお願いします」
「……おお」
奴の優しい笑顔に、なんだか頭がクラクラしてきた。
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