空気が淀んでしまったので寒いけれど窓を全開にする。冷たい風が心地よい。全身についた汚れを取り去ってくれる気がする。
視線を感じて庭に目をやると、隅の方にユウが立っていた。このアパートの一階の部屋には小さな庭がついているのだ。お隣との境界線には垣根があり、道路側には二メートルほどの塀がある。子供が乗り越えられる高さではない。
「ユウ? どこから入ったの?」
ユウは黙って首を振っている。その瞳には涙が浮かんでいる。
「どうしたの?」
ユウは何も言わない。ふいに胸が強く押されるような感覚にとらわれた。ギュッと抱きしめたくなる。
「あ! りんごだ!」
声に振りかえるとサユリとマユリが上がりこんでいた。彼女達がくる時間には鍵をあけるようにしているので勝手に入ってくるのだ。
「ミカは?」
「ミカちゃんは飼育係の当番でウサギ小屋の掃除してた。ユウちゃんは知らない」
「え? ユウならそこに……あれ?」
庭をみたが誰もいない。小さな庭なので隠れるところはどこにもないはずなのに。
「今さっきまでユウがそこにいたのよ」
「いないじゃん」
「おかしいなあ。消えちゃったよ……」
「えー。幽霊みたーい」
ふふふ、とサユリとマユリが笑う。
「幽霊? まさかあ」
一緒に笑おうとしたがうまくできなかった。
だって本当に消えてしまったのだから。
でもそんなことはありえない。きっと私の見間違えだ。そうに違いない。寝不足だから幻覚が見えたんだ。そうに違いない。
気を取り直してりんごをむく。
「ねえ、ユウってここのアパートの子じゃないんだって?」
言うと二人はきょとんとして、
「ううん。ここのアパートの子だってミカちゃんのお母さんが言ってたよ」
「同じアパートのヨシミで面倒みてあげなさいってミカちゃん言われてた」
どういうこと? 大家である叔母が知らないはずないのに。
「あ! りんごおいしそう!」
しばらくしてミカがうれしそうな声をあげて部屋に入ってきた。その後ろにはいつものようにユウの小さな姿もある。驚いたことに先ほどと同じ白いセーターに黒いスパッツという服装をしている。やはり見間違えではなかったのか?
「ユウ、さっきうちの庭にいなかった?」
「えー? ミカが学校から帰ってきたときにはいつも通りウチにいたよ」
ミカによると、学校から帰るとユウはいつもミカの家にいて、夕方母親が出勤するときに連れて出ていくそうだ。
「ねえ、ユウの家ってどこにあるの?」
「知らない。お母さんはこのアパートの一階っていってたよ」
一階の住人は、私と、斉藤さんとその三歳の息子と、一人暮しをしているおじいさんと、東南アジア系の若い男の人だけのはずだ。
「『ユウはカワイソウな子だから仲良くしてあげなさい』ってお母さんにいわれたの。だからいつも一緒に遊んでるんだ」
カワイソウな子?
ユウは無垢な笑みを浮かべている。いとおしさがこみあげてくる。
ふいに母の言葉が頭の中でこだました。
『一番かわいそうなのはあんたの赤ちゃんよ! 化けて出てくるわよ!』
まさか。
「ねえ、ユウといつから一緒に遊ぶようになったの?」
「うーん。十月くらいかなあ」
「十月……」
背筋に冷たいものが走った。十月といえば私がここに引っ越してきた月だ。
霊感があるというミカの母親。大人よりも純粋なぶん幽霊が見えやすい子供。十月に現れたユウ。まさか……まさか!
「いっただっきまーす。ほらユウも食べな」
ミカに手渡されりんごをほおばるユウ。
確かにユウに対しては他の子には感じない愛しい気持ちになることがある。でもそれは一番小さいからだと思っていた。
「このりんごおいしいね」
「池田のおじいちゃんにも食べさせてあげたいね」
「ねえ、ショーコちゃん。これ持っていってもいい?」
池田のおじいちゃんとは、サユリが通っているピアノ教室の先生の旦那さんのお父さんで、現在駅前の病院に入院しているらしい。
「ユウも連れていくの?」
「うん。いつも一緒にいってるよ」
「そう……私も一緒にいってもいい?」
ユウが他の人にも見えているのかどうか確認したい。
ユウが幽霊だなんてそんなことありえないとは思う。こんなに暖かなぬくもりがある幽霊なんているわけがない。
でも、このアパートにユウという子はいないということや、突然庭先に現れて消えたことはどう説明する? ユウにだけ感じるこの温かい気持ちは?
ユウがあのときの赤ちゃんの幽霊だとしたら、すべてつじつまが合ってしまう……。
視線を感じて庭に目をやると、隅の方にユウが立っていた。このアパートの一階の部屋には小さな庭がついているのだ。お隣との境界線には垣根があり、道路側には二メートルほどの塀がある。子供が乗り越えられる高さではない。
「ユウ? どこから入ったの?」
ユウは黙って首を振っている。その瞳には涙が浮かんでいる。
「どうしたの?」
ユウは何も言わない。ふいに胸が強く押されるような感覚にとらわれた。ギュッと抱きしめたくなる。
「あ! りんごだ!」
声に振りかえるとサユリとマユリが上がりこんでいた。彼女達がくる時間には鍵をあけるようにしているので勝手に入ってくるのだ。
「ミカは?」
「ミカちゃんは飼育係の当番でウサギ小屋の掃除してた。ユウちゃんは知らない」
「え? ユウならそこに……あれ?」
庭をみたが誰もいない。小さな庭なので隠れるところはどこにもないはずなのに。
「今さっきまでユウがそこにいたのよ」
「いないじゃん」
「おかしいなあ。消えちゃったよ……」
「えー。幽霊みたーい」
ふふふ、とサユリとマユリが笑う。
「幽霊? まさかあ」
一緒に笑おうとしたがうまくできなかった。
だって本当に消えてしまったのだから。
でもそんなことはありえない。きっと私の見間違えだ。そうに違いない。寝不足だから幻覚が見えたんだ。そうに違いない。
気を取り直してりんごをむく。
「ねえ、ユウってここのアパートの子じゃないんだって?」
言うと二人はきょとんとして、
「ううん。ここのアパートの子だってミカちゃんのお母さんが言ってたよ」
「同じアパートのヨシミで面倒みてあげなさいってミカちゃん言われてた」
どういうこと? 大家である叔母が知らないはずないのに。
「あ! りんごおいしそう!」
しばらくしてミカがうれしそうな声をあげて部屋に入ってきた。その後ろにはいつものようにユウの小さな姿もある。驚いたことに先ほどと同じ白いセーターに黒いスパッツという服装をしている。やはり見間違えではなかったのか?
「ユウ、さっきうちの庭にいなかった?」
「えー? ミカが学校から帰ってきたときにはいつも通りウチにいたよ」
ミカによると、学校から帰るとユウはいつもミカの家にいて、夕方母親が出勤するときに連れて出ていくそうだ。
「ねえ、ユウの家ってどこにあるの?」
「知らない。お母さんはこのアパートの一階っていってたよ」
一階の住人は、私と、斉藤さんとその三歳の息子と、一人暮しをしているおじいさんと、東南アジア系の若い男の人だけのはずだ。
「『ユウはカワイソウな子だから仲良くしてあげなさい』ってお母さんにいわれたの。だからいつも一緒に遊んでるんだ」
カワイソウな子?
ユウは無垢な笑みを浮かべている。いとおしさがこみあげてくる。
ふいに母の言葉が頭の中でこだました。
『一番かわいそうなのはあんたの赤ちゃんよ! 化けて出てくるわよ!』
まさか。
「ねえ、ユウといつから一緒に遊ぶようになったの?」
「うーん。十月くらいかなあ」
「十月……」
背筋に冷たいものが走った。十月といえば私がここに引っ越してきた月だ。
霊感があるというミカの母親。大人よりも純粋なぶん幽霊が見えやすい子供。十月に現れたユウ。まさか……まさか!
「いっただっきまーす。ほらユウも食べな」
ミカに手渡されりんごをほおばるユウ。
確かにユウに対しては他の子には感じない愛しい気持ちになることがある。でもそれは一番小さいからだと思っていた。
「このりんごおいしいね」
「池田のおじいちゃんにも食べさせてあげたいね」
「ねえ、ショーコちゃん。これ持っていってもいい?」
池田のおじいちゃんとは、サユリが通っているピアノ教室の先生の旦那さんのお父さんで、現在駅前の病院に入院しているらしい。
「ユウも連れていくの?」
「うん。いつも一緒にいってるよ」
「そう……私も一緒にいってもいい?」
ユウが他の人にも見えているのかどうか確認したい。
ユウが幽霊だなんてそんなことありえないとは思う。こんなに暖かなぬくもりがある幽霊なんているわけがない。
でも、このアパートにユウという子はいないということや、突然庭先に現れて消えたことはどう説明する? ユウにだけ感じるこの温かい気持ちは?
ユウがあのときの赤ちゃんの幽霊だとしたら、すべてつじつまが合ってしまう……。