この話、何から話そうか。どんなことを話そうか。
さんざん悩んだ挙句、記紀と播磨国風土記に関することと根日女に関することをと結論したのですが、そんな話になっているのでしょうか。
播磨国と言えば知っての通り、現在の兵庫県の西側で日本海側を除く多くの地域が相当します。(日本海側は但馬国、東側は摂津国)
私は、この播磨には言葉に尽くせない程の縁(えにし)を感じています。故事付けと言われるかもしれませんが、まず、私が神戸市に来、住み始めた動機が、加古川に住み、私の為に労をとってくれた方のお陰で神戸の会社に転職したこと。中学生の時以来“垂水”に惹かれていたこと。女房が佐用(さよ)出身であること。女房の姉の嫁ぎ先が加西であること。更に言えば、私の出身地山口市は“佐波の水門(=佐波の浦)”(佐波川河口)に近いこと。山口市内には「椹野川」と呼ばれる川が流れており、その河口近くの小郡で、播磨国に関して記された石板が出土したこと。また、椹野川の“フシ”は地域で俗に言い伝えられている“小さい雑木”や“不死”ではなく、奈良時代に大和朝廷によって地方の開拓に当たらせるために流された蝦夷の集落“俘囚郷”が由来だとの説が有力となっていることなど、突き動かされる何かがあったと考えたくなることが多々あります。
・大きさ:高さ23.0cm 最大幅15.9cm 厚さ3cm 重さ2.7kg
・奈良時代中期(740年代)のものと思われる。
・刻字 : 表;餝磨郡因達 郷秦益人石 裏;此石者人〔 〕磨ヵ石在
2012年4月、何かに突き動かされるように淡路島へと、“自凝島神社(おのころじまじんじゃ)”と“伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)”を訪ねました。この時、伊弉諾神宮では『古事記編纂千参百年記念大祭』が行われている期間でした。
書店ではどこも、古事記の特設コーナーが設けられていました。そこから下ること3年、今度は日本書紀編纂1300年記念として、日本書紀の特設コーナーが設けられました。
立ち返ると、加西市では、イメージキャラクターの「ねっぴ~」や「フドッキー博士」が制定され、2013年から『播磨国風土記』1300年記念事業が動いていました。
書名:ねひめのとき 根日女伝説×『パフェちっく!』
著者:ななじ眺(ななじ ながむ)
協力:加西市播磨国風土記1300年祭実行委員会
発行所: 神戸新聞総合出版センター
初版発行日:2014年4月30日
古(いにしえ)の書籍の編纂時期等は次のように考えられています。
・古事記;712年(和銅5年) 編纂=太安万侶(おお の やすまろ)-主に稗田阿礼の記憶に基づく <元明天皇に献上>
書名: 日本の神話
著者・編者・訳者:与田準一
発行所: 株式会社講談社(青い鳥文庫)
初版発行日:1993年1月15日
書名:マンガ古事記 神話編・伝承編
監修;原秀三郎 画;阿部高明
発行所:株式会社河出書房新社
初版発行日:(神話編)1988年8月31日 (伝承編)1989年6月29日
・播磨国風土記;715年(霊亀元年)~717年(霊亀3年)<朝廷が地方の行政国に対し令制国への提出を求める>
書名:播磨国風土記
編著者:沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉
発行所:山川出版社
初版発行日:2005年10月5日
書名:播磨国風土記 はりま1300年の源流をたどる
編者:播磨学研究所
発行所:神戸新聞総合出版センター
初版発行日:2016年9月16日
書名:風土記からみる古代の播磨
編著者:坂江渉
編集:のじぎく文庫
発行所:神戸新聞総合出版センター
初版発行日:2007年3月7日
・日本書紀;720年(養老4年) 編纂=舎人親王(とねりしんのう)等 <天武天皇の命による>
天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことが編纂の出発点
書名:日本書紀 まんがで読破
企画・漫画:バラエティ・アートワークス
DTP:臼田彩穂
編集:大嶺浩一郎 圓尾 公佑
発行所:株式会社イーシト・プレス
初版発行日:2010年1月13日
学術的専門書は難解な上に高価なので、古事記と日本書紀については図書館等で閲覧することとし、自前では理解を深めるために、漫画や童話として出版されたものを購読しました。
日本中が「古事記編纂1300年記念」・「日本書紀1300年記念」に湧いている中、加西市では「播磨国風土記1300年記念」に取り組んでいたことになると思います。
風土記によると、播磨国の中心は交通の要所であったと見られる揖保(いひぼ)郡や讃容(さよ)郡だったし、後に播磨の中心となったのは飾磨(しかま)郡の姫路市であり、それら地域の何処でもなくて、何故、賀毛(かも)郡の加西市が「播磨国風土記1300年記念」に取り組んだのだろうか。
古代の加西と播磨国風土記 P1 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8 P9 P10 P11 P12 P13 P14 P15 P16 P17 P18 P19 P20
播磨国風土記1300年祭ガイドブック P1 P2 P3 P4 P5 P6
先にお話ししたように、2012年に淡路島を訪れ、帰宅後「古事記1300年」についてWebで調べていました。その時、加西市のサイトが目に留まり、アクセスしてみると玉丘古墳に眠っていると謂われている根日女命の伝承をテーマとしたイベントが企画・実施されていることを知りました。
その一つとして、加西市出身の ななじ眺氏 による漫画、同氏作品の『パフェちっく』を根日女伝説と融合させた「ねひめのとき」というコミックが加西市播磨国風土記1300年祭実行委員会の肝煎りで出版されていました。早速取り寄せ、このコミックによって、根日女命の物語を知るところとなりました。
しかし、この物語は風土記においては僅か数行の記述でしかありません。賀毛郡の地名の由来について記された部分で、玉野村について記された部分です。〔各行の頭の数値は、風土記1行目からのシーケンシャル行数を表しています。〕
475 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・有玉野村。所以
476 者、意奚・袁奚二皇子等、坐於美嚢郡志深里高官、遺山
477 部小楯、眺国造許麻之女根日女命。於是、根日女、己依命訖。爾時、
478 二皇子、相辞不娶。于日間、根日女、老長逝。于時、皇子等大哀、
479 即遺小立、勅云、朝夕日不隠之地、造墓蔵其骨、以玉飾墓。故、
480 縁此墓、号玉丘、其村号玉野。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また、賀毛郡の記述とは別に、美嚢郡(みなぎののこおり)の条に次の記述があります。
511 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・意奚・袁奚
512 天皇等、所以坐於此土者、汝父市辺、天皇命、所殺於近江国 ~
517 子等令燭、仍令挙詠辞、爾、兄弟各相譲、及弟立詠。其辞
~
<口語訳>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉野村というところがあります。
(現在の)三木市志染町の“志染の石室”に隠れ住んでいた意奚(オケ)と袁奚(ヲケ)という二人の兄弟皇子(後の24代 仁賢天皇と23代 顕宗天皇)が、(現在の)加西市に住んでいた根日女という女性を見染、求婚しました。根日女は二人からの申し出を即座にOKしましたが、二人の皇子は互いに譲り合い、根日女となかなか結婚しようとはしませんでした。そうこうするうちに年月が経って、根日女は年老い、亡くなってしまいました。二人の皇子は大変嘆き悲しみ、「朝から夕方まで、陽が陰らないところに根日女の墓をつくり、遺体を納め、玉石で飾るように」と家来に云いました。そのことからこの墓を「玉丘」と名付け、墓がある周辺の村を玉野と名付けました。
この二つの郡の伝承を踏まえ、プロの手にかかれば、「ねひめのとき 根日女伝説×『パフェちっく!』」にみられるように、壮大な物語となります。
≪佐波の水門について:初出は日本書紀≫
日本書紀巻八 足仲彦天皇 仲哀天皇
八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦、而獻魚鹽地、因以奏言「自穴門至向津野大濟爲東門、以名籠屋大濟爲西門、限沒利嶋・阿閉嶋爲御筥、割柴嶋爲御甂御甂、此云彌那陪、以逆見海爲鹽地。」既而導海路。自山鹿岬廻之入岡浦。
<読み>
八年(やとせ)春正月(むつき)己卯(つちのとう)朔壬午(みづのえうま)〔四日〕、 筑紫に幸(いでま)す。
時に岡(をか)の県主(あがたぬし)の祖(おや)熊鰐(くまわに)、天皇之車駕(いでまし)と聞きまつり、
予め五百枝賢木(いほえのさかき)を抜き取りて、九尋(ここのひろ)の船之舳(へ)に立て、上枝(ほつえ)に
白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、中枝(なかつえ)に十握(とつか)の剣(つるぎ)を掛け、下枝(しづえ)に八尺
瓊(やさかに)を掛けて、
于周芳(すは)の沙麼(さま)之浦に参迎(まゐむか)へて、
魚塩地(なしほのところ)を献(まつ)りて、因以(しかるがゆゑに)奏言(まをさく)
「穴門自(よ)り向津野大済(むかつののおほわたり)に至り東門(ひむがしのと)と為(し)て、名籠屋大済(なごやのおほわたり)を以ちて西門(にしのと)と為(し)て、没利島(もとりしま)・阿閉島(あへしま)を限り御筥(みはこ)と為(し)、柴島(しばしま)を割き御甂(みなべ)【御甂、此(これ)彌那陪(みなべ)と云ふ。】と為(し)、逆見海(さかみのみ)を以ちて塩地(しほどころ)と為(し)まつる。」とまをす。
既にして海路(うみぢ)を導きまつり、山鹿の岬自(ゆ)廻(めぐ)りて岡(をか)の浦に入りたまふ。
<口語>
即位8年1月 筑紫へ。縣主(アガタヌシ)の祖先の熊鰐は、天皇が来るのを聞いて、五百枝賢木(イホエノサカキ)を抜き取って、船の舳艫(トモエ)に立て、上枝(カミツエ)には白銅鏡(マスミノカガミ)を掛け、中枝(ナカツエ)には十握剣(トツカノツルギ)を掛け、下枝(シモツエ)には八尺瓊(ヤサカニ)を掛け、周芳沙麼之浦(すわ さばのうら)に出迎えました。
魚や塩が取れる土地である魚塩(ナシオ)の地を天皇に献上しました。そして言いました。
「穴門(アナト=山口県長門市)から向津野大済(ムカツノオオワタリ=山口県長門市の向津具半島)までを東門(ヒガシノミト)とし、名籠屋大済(ナゴヤノオオワタリ=福岡県北九州市戸畑区の名籠屋崎)を西門とします。沒利嶋(モトリシマ=山口県下関市の六連島(ムレツシマ))・阿閉嶋(アヘノシマ=福岡県北九州市小倉北区の藍島)の間の地域を御筥(ミハコ=穀物を作るところ)とし、柴嶋(シバシマ)を割って御?(ミナヘ=魚を獲る地域)とします。見海(サカミノウミ=福岡県北九州市若松区遠見ノ鼻 岩屋崎近くの逆水という地)が塩地(シオドコロ)です」
すぐに海路(ウミツヂ)を行き、山鹿岬(ヤマカノサキ=福岡県北九州市遠見ノ鼻(岩屋崎))を巡って岡浦(オカノウラ)に入りました。
≪オケ(意奚)とヲケ(袁奚)≫
古事記では兄のオケは意祁、弟のヲケは袁祁と記されています。
古事記 清寧天皇記
御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。此天皇、無皇后、亦無御子、故御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女・亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。
爾山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民・名志自牟之新室樂。於是、盛樂酒酣、以次第皆?。故燒火少子二口、居竈傍、令?其少子等。爾其一少子曰「汝兄先舞。」其兄亦曰「汝弟先舞。」如此相讓之時、其會人等、咲其相讓之状。爾遂兄舞訖、次弟將舞時、爲詠曰、
(中略)
如此歌而、鬪明各退。明旦之時、意祁命・袁祁命二柱議云「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門。亦今者志毘必寢、亦其門無人。故、非今者難可謀。」卽興軍圍志毘臣之家、乃殺也。
<口語>
雄略天皇の御子の白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)は伊波礼(イワレ)の甕栗宮(ミカクリノミヤ)に居て、天下を収めました。この天皇には皇后がいませんでした。また御子もいませんでした。御名代(ミナシロ=皇族の名前をつけて後世に名を残すための土地)として白髪部(シラカベ)を定めました。それで天皇が崩御した後に天下を治めるべき王がいませんでした。それで日嗣(ヒツギ=皇位)を引き継ぐ王をどうするべきかと問うたところ、市辺忍歯別王(イチノヘノオシハノワケノミコ)の妹で忍海郎女(オシヌミノイラツメ)、別名を飯豊王(イイトヨノミコ)が、葛城の高木の角刺宮(ツノサシノミヤ)にいました。
山部連小楯(ヤマベノムラジオダテ)を針間(ハリマ=播磨=現在の兵庫県)の国の宰(ミコトモチ=長官)に任じたときです。その国の人民(オオミタカラ)で名を志自牟(シジム)というものが新室(ニイムロ=新居)ができたお祝いの楽(アソビ=酒宴)に行きました。そこで盛んに楽(アソビ=酒宴)をして酒が酣(タケナワ)になったころ皆、舞を踊り始めました。火を焼く係りの少子(ワラワ=少年)が二人いまして、竃(カマド)のそばにいて、その少子(ワラワ)にも舞を踊らせました。その一人の少子が 「お兄ちゃんが、先に踊って」 と言うと、兄もまた「弟であるお前が、まず踊れよ」とお互いに譲り合いました。そこで集まった人たちはその譲り合う様子を見て咲(ワラ)いました。ついに兄が舞い終わって、次に弟が舞おうとするときに詠(ウタ)いました。
(中略)
明くる朝に意祁命(オケノミコト)・袁祁命(ヲケノミコト)は二人で話し合いしました。 「おおよその朝廷(ミカド)の人たちは、朝は朝廷に参上し赴いているが、昼には志毘(シビ)の家に集まっている。今は、まだ志毘は必ず寝ているだろう。また、その家には人がいない。だから今なら、謀ること(=ここでは暗殺)するのは難しくないだろう」 すぐに軍を起こして志毘臣(シビノオミ)の家を囲み、殺してしまいました。
日本書紀では兄のオケは億計、弟のヲケは弘計と記されています。
日本書紀巻15/清寧、顕宗、仁賢天皇
二年春二月、天皇、恨無子、乃遣大伴室屋大連於諸國、置白髮部舍人・白髮部膳夫・白髮部靫負、冀垂遺跡令觀於後。冬十一月、依大嘗供奉之料、遣於播磨國司、山部連先?伊豫來目部小楯、於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子々億計・弘計、畏敬兼抱、思奉爲君、奉養甚謹、以私供給、便起柴宮、權奉安置。乘騨馳奏、天皇愕然驚歎、良以愴懷曰「懿哉悅哉、天垂博愛、賜以兩兒。」是月、使小楯持節、將左右舍人、至赤石奉迎、語在弘計天皇紀。
三年春正月丙辰朔、小楯等、奉億計・弘計、到攝津國。使臣連持節、以王靑蓋車、迎入宮中。夏四月乙酉朔辛卯、以億計王爲皇太子、以弘計王爲皇子。
(中略)
三年夏四月、弘計天皇崩
(中略)
十一年秋八月庚戌朔丁巳、天皇崩于正寢。冬十月己酉朔癸丑、葬埴生坂本陵。
<口語>
即位2年春2月。天皇は子が居ないことを恨み、大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣して、白髪部舎人(シラカベノトネリ)・白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)・白髮部靫負(シラカベノユケイ=靫は矢を入れる筒で靫負は警備職のこと)を設置しました。願わくは、後々に伝えようとしました。
冬11月。大嘗(オオニエ=天皇即位後にする新嘗の儀式)に奉る料(シロ)を、播磨国に派遣した司(ミコトモチ=役人)の山部連(ヤマベノムラジ)の祖先の伊予来目部小楯(イヨノクベノオダテ)は、赤石郡(アカシノコオリ)の縮見屯倉首忍海部造細目(シジミノミヤケノオビトオシヌミベノミヤツコホソメ)の新室(ニイムロ)で市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)の子の億計(オケ)と弘計(オケ)を見つけました。子供たちを、恐れ敬い抱き上げ、君主として奉ろうと思いました。奉り養うことは謹んで、私物で供えました。柴の宮をたてて、仮に安置して奉りました。駅で馬に乗り、走らせて朝廷に申し上げました。天皇は驚愕し嘆いて、痛々しく思って言いました。
「よきかな。よろこばしきかな。天は大いなる愛をもって、二人の児を与えたのだ」
この月、小楯に命じて、節(シルシ)を持った左右(モトコ=側の人)の舎人を赤石に到着して二人の児を迎えさせました。このことは弘計天皇紀にあります。
清寧天皇崩御後、弟のヲケが第23代天皇の座について顕宗天皇(485年1月~487年4月)となり、その後兄のオケが第24代天皇の座について仁賢天皇(488年4月~498年8月)となりました。
(中略)
即位3年夏4月、弘計天皇は崩御されました。
(中略)即位11年秋8月8日。天皇は正寝(オオトノ)で崩御されました。
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