先日、福岡市東区多の津にある流通センターを久々に訪ねた。東京で言えば、平和島あたりに相当する物流拠点である。
ショールームや倉庫をもつビルが並び、テナントはアパレルや雑貨、各種機器、資材、食品などの商社や問屋、物流を担う運送会社。道路は大型の貨物トラックが走りやすいように幅員が大きく取とられ、直線、平行に走るのが特徴だ。
筆者が子供の頃は、問屋街と言えば店屋町を中心に綱場町、呉服町界隈だった。それが1960年代の終わり頃から、九州における物流の発展を睨み、九州縦貫道路とアクセスが良いこの地で「流通卸団地」の開発が始まったようだ。
小学生の頃、多々良川の対岸で釣りをしたこともあるが、福岡を離れている間に周辺を含めて随分と様変わりした。戻ってきて、その変貌ぶりに触れたときは、子供の頃の記憶とのギャップを埋めるのにかなり苦労した。
筆者がアパレル業界に入った80年代前半は、DCブランド全盛期だったこともあり、東京では小粒のアパレルメーカーが次々と誕生していた。スタッフは企画から営業まで入れても4~5名。多くても10名程度だ。
メーカーと言っても、機能は卸売り。主に全国各地の専門店が取引先だったから、大々的な生産設備を持たなくても、縫製工場への外注で十分に対応できた。
そのため、表参道や南青山、千駄ヶ谷界隈のマンションに一室にオフィスを抱えただけで、バイヤーさんが全国からやってきてくれる。在庫を抱えても一部屋程度のスペースがいつも捌けていたので、特別な物流拠点は必要なかったのである。
一方、百貨店を取引先とするNBアパレルや量販系の卸は、平和島などの湾岸エリアに多かった。取引先が多く、ある程度の在庫を抱えないとビジネスにならなため、どうしてもキャパをもつ倉庫や出荷体制が必要になっていたからだ。
つまり、DCメーカーのように質を追求し、ブランド構築のために直営店展開も行うアパレルなら小売りに近い立地でも良い。でも、量を追うメーカーは卸団地のような商品の物流がスムーズに行える立地に居を構えざるを得ないのである。
翻って、福岡の場合も、福岡流通センターに居を構えるアパレルは量を追うところ、商社系で在庫をもつところが主体になっている。
まあ、九州の場合、東京と違い商品を仕入れるバイヤーは車で来るケースが多いので、高速道路のインターといった交通アクセスが良くて、十分な駐車スペースが確保できるという条件では、やはり卸団地の方が向くのかもしれない。
この流通センターで、アパレルや雑貨を中心とした企業が集まるのが協同組合福岡卸センター。地元企業が約7割で、東京、大阪などの支社もある。筆者もアパレルの仕事で、ここのメーカーや生地問屋を何度も訪れ、仕事をしてきた。
ただ、10年ほど前から、 その顔ぶれがだいぶ変わってきている。02年に往年のアイビーブランド「VAN」を復活させた卸のバイスコーポレーション。05年に丸紅に吸収合併されて、もうここにはない。新生VANを手がけたベルソンジャパンも然りだ。
地場アパレルとして全国のバイヤーから評価が高い丸福商事も、昨年に東京の貴金属・和装卸の堀田正に買収され、今はアパレル事業部として残るだけである。その他、地場ニッターのほとんどが姿を消している。
そうした状況下なのだからか、通りを歩く人々の表情はどことなく冴えない。中心となる福岡流通センタービル(FRC)では、顔見知り、どこかで見覚えのある顔とすれ違ったが、みな一様に疲れきって、生気さえ失っている。
3階にはテナントの共用スペースとして、ソファを備えたリラックスルームもあるが、昼食時に訪れるのはほんの数名。別に談笑するわけでもなく、それぞれ黙々と食事をするだけ。 堂々とフリースのラグを敷いて仮眠を取るおばさんは、見覚えのある顔だった。
かつてはブランドショップに立ち、ハウスマヌカンとして威勢を張ってたのか。メーカーで企画やデザイン、パターンメイキングに明け暮れたのか。その実績を生かして、ファッション専門学校で教壇に立ったのか。きっとどれかに当てはまるだろう。
そうした面影やプライドはすっかり消え失せ、羞恥心さえ失っている。仕事が多忙で疲れているのではない。業界の先も自分の人生も見通せないから、モチベーションも上がらないのだと思う。まさに地場アパレルの疲弊、衰退を感じざるを得なかった。
それに対して、FRCビル内に1社だけ活気に溢れる企業がある。もちろん、アパレルメーカーでも商社でもない。地場プロバスケットボールチームのオーナー会社で、子供たち向けのスポーツ教室を運営するL社だ。
50坪はあるであろう広々としたスペースを贅沢に使い、種目ごとに分かれたユニフォームを着たスタッフがパソコンを見ながら黙々と仕事をこなす。
パーテーションも何もないミーティングスペースでは、バスケットボール教室のスタッフが白板に記入したエリアごとのスケジュールを見ながら、わいわいがやがやと打ち合わせの最中だった。
みな学校を卒業したばかりの20代前半の若者。実業団なら現役バリバリでもあるのだが、スクール事業のマネジメント業務にも臆することもなく、真摯に取り組む姿勢にはとても好感が持てた。
アパレルとは違ってあれこれ計算せずに仕事ができるところが、彼らのやる気を引き出しているようにも感じる。これもプロ、アマ問わずスポーツ選手をリスペクトするL社の企業姿勢の現れだと思う。
かく言う筆者も、今回は糸へんの仕事ではなく、グラフィック関連で同社を訪れたのだから、なおさら時代の変化を感じている。
九州の物流機能という意味では、アパレル以外の業種もある。ただ、高速道路網が整備され、鳥栖インターから県南にかけては食品メーカー系工場、その物流センターも進出している。流通センターでなくても良くなってきている。
唯一のメリットは、ハード面が40年以上経過し、家賃など固定費が安いことだ。FRCビルで坪当たりの家賃が月額6,000円、共益費が同2,500円、敷金が5ヵ月の30,000円だから、オフィスとしては天神や博多駅の比ではない。
公共交通のアクセスは決して良いとは言えないが、スポーツスクールの生徒募集はネットでできるし、教室は各地区の運動公園や施設が使える。ここには生徒や親が来る必要はないから、生産性がない本部機能を置くにはもってこいだ。
逆にアパレル卸は在庫を抱えなくてはならず、ショールームや展示スペース、倉庫も必要になる。売上げが上がらなければ、いくら家賃が安くても、固定費は重くのしかかる。これらがますますアパレルを疲弊させているのだ。
年に1度くらいのイベントを開催したところで、BtoBの活性化にはつながらないだろう。アパレルにはSPA、さらにAMSを活用したファーストSPAなどいろんな面で物流は変わりつつある。流通センターには新たなインキュベーション機能が求められている。
ショールームや倉庫をもつビルが並び、テナントはアパレルや雑貨、各種機器、資材、食品などの商社や問屋、物流を担う運送会社。道路は大型の貨物トラックが走りやすいように幅員が大きく取とられ、直線、平行に走るのが特徴だ。
筆者が子供の頃は、問屋街と言えば店屋町を中心に綱場町、呉服町界隈だった。それが1960年代の終わり頃から、九州における物流の発展を睨み、九州縦貫道路とアクセスが良いこの地で「流通卸団地」の開発が始まったようだ。
小学生の頃、多々良川の対岸で釣りをしたこともあるが、福岡を離れている間に周辺を含めて随分と様変わりした。戻ってきて、その変貌ぶりに触れたときは、子供の頃の記憶とのギャップを埋めるのにかなり苦労した。
筆者がアパレル業界に入った80年代前半は、DCブランド全盛期だったこともあり、東京では小粒のアパレルメーカーが次々と誕生していた。スタッフは企画から営業まで入れても4~5名。多くても10名程度だ。
メーカーと言っても、機能は卸売り。主に全国各地の専門店が取引先だったから、大々的な生産設備を持たなくても、縫製工場への外注で十分に対応できた。
そのため、表参道や南青山、千駄ヶ谷界隈のマンションに一室にオフィスを抱えただけで、バイヤーさんが全国からやってきてくれる。在庫を抱えても一部屋程度のスペースがいつも捌けていたので、特別な物流拠点は必要なかったのである。
一方、百貨店を取引先とするNBアパレルや量販系の卸は、平和島などの湾岸エリアに多かった。取引先が多く、ある程度の在庫を抱えないとビジネスにならなため、どうしてもキャパをもつ倉庫や出荷体制が必要になっていたからだ。
つまり、DCメーカーのように質を追求し、ブランド構築のために直営店展開も行うアパレルなら小売りに近い立地でも良い。でも、量を追うメーカーは卸団地のような商品の物流がスムーズに行える立地に居を構えざるを得ないのである。
翻って、福岡の場合も、福岡流通センターに居を構えるアパレルは量を追うところ、商社系で在庫をもつところが主体になっている。
まあ、九州の場合、東京と違い商品を仕入れるバイヤーは車で来るケースが多いので、高速道路のインターといった交通アクセスが良くて、十分な駐車スペースが確保できるという条件では、やはり卸団地の方が向くのかもしれない。
この流通センターで、アパレルや雑貨を中心とした企業が集まるのが協同組合福岡卸センター。地元企業が約7割で、東京、大阪などの支社もある。筆者もアパレルの仕事で、ここのメーカーや生地問屋を何度も訪れ、仕事をしてきた。
ただ、10年ほど前から、 その顔ぶれがだいぶ変わってきている。02年に往年のアイビーブランド「VAN」を復活させた卸のバイスコーポレーション。05年に丸紅に吸収合併されて、もうここにはない。新生VANを手がけたベルソンジャパンも然りだ。
地場アパレルとして全国のバイヤーから評価が高い丸福商事も、昨年に東京の貴金属・和装卸の堀田正に買収され、今はアパレル事業部として残るだけである。その他、地場ニッターのほとんどが姿を消している。
そうした状況下なのだからか、通りを歩く人々の表情はどことなく冴えない。中心となる福岡流通センタービル(FRC)では、顔見知り、どこかで見覚えのある顔とすれ違ったが、みな一様に疲れきって、生気さえ失っている。
3階にはテナントの共用スペースとして、ソファを備えたリラックスルームもあるが、昼食時に訪れるのはほんの数名。別に談笑するわけでもなく、それぞれ黙々と食事をするだけ。 堂々とフリースのラグを敷いて仮眠を取るおばさんは、見覚えのある顔だった。
かつてはブランドショップに立ち、ハウスマヌカンとして威勢を張ってたのか。メーカーで企画やデザイン、パターンメイキングに明け暮れたのか。その実績を生かして、ファッション専門学校で教壇に立ったのか。きっとどれかに当てはまるだろう。
そうした面影やプライドはすっかり消え失せ、羞恥心さえ失っている。仕事が多忙で疲れているのではない。業界の先も自分の人生も見通せないから、モチベーションも上がらないのだと思う。まさに地場アパレルの疲弊、衰退を感じざるを得なかった。
それに対して、FRCビル内に1社だけ活気に溢れる企業がある。もちろん、アパレルメーカーでも商社でもない。地場プロバスケットボールチームのオーナー会社で、子供たち向けのスポーツ教室を運営するL社だ。
50坪はあるであろう広々としたスペースを贅沢に使い、種目ごとに分かれたユニフォームを着たスタッフがパソコンを見ながら黙々と仕事をこなす。
パーテーションも何もないミーティングスペースでは、バスケットボール教室のスタッフが白板に記入したエリアごとのスケジュールを見ながら、わいわいがやがやと打ち合わせの最中だった。
みな学校を卒業したばかりの20代前半の若者。実業団なら現役バリバリでもあるのだが、スクール事業のマネジメント業務にも臆することもなく、真摯に取り組む姿勢にはとても好感が持てた。
アパレルとは違ってあれこれ計算せずに仕事ができるところが、彼らのやる気を引き出しているようにも感じる。これもプロ、アマ問わずスポーツ選手をリスペクトするL社の企業姿勢の現れだと思う。
かく言う筆者も、今回は糸へんの仕事ではなく、グラフィック関連で同社を訪れたのだから、なおさら時代の変化を感じている。
九州の物流機能という意味では、アパレル以外の業種もある。ただ、高速道路網が整備され、鳥栖インターから県南にかけては食品メーカー系工場、その物流センターも進出している。流通センターでなくても良くなってきている。
唯一のメリットは、ハード面が40年以上経過し、家賃など固定費が安いことだ。FRCビルで坪当たりの家賃が月額6,000円、共益費が同2,500円、敷金が5ヵ月の30,000円だから、オフィスとしては天神や博多駅の比ではない。
公共交通のアクセスは決して良いとは言えないが、スポーツスクールの生徒募集はネットでできるし、教室は各地区の運動公園や施設が使える。ここには生徒や親が来る必要はないから、生産性がない本部機能を置くにはもってこいだ。
逆にアパレル卸は在庫を抱えなくてはならず、ショールームや展示スペース、倉庫も必要になる。売上げが上がらなければ、いくら家賃が安くても、固定費は重くのしかかる。これらがますますアパレルを疲弊させているのだ。
年に1度くらいのイベントを開催したところで、BtoBの活性化にはつながらないだろう。アパレルにはSPA、さらにAMSを活用したファーストSPAなどいろんな面で物流は変わりつつある。流通センターには新たなインキュベーション機能が求められている。