仕事柄、カメラマンとの付き合いは長い。主にスチールだが、かれこれ30年以上になるだろうか。アパレルではスタジオ撮りからモデル撮影のロケまで頼んでいたが、プレスプロモーションの仕事をし始めてからは置撮りから取材やインタビューにまで広がり、私的なクリエイティブワークを含めると、あらゆるケースでお世話になって来た。
今でも年に何度かは一緒に仕事をする。ただ、昔に比べると隔世の感がある。 カメラはデジタルに変わり、フィルムを現像する必要がない。カメリハからずっとパソコンでチェックでき、撮影は手間暇かからなくなった。撮った写真データはPhotoshopでレタッチもトリミングも行え、そのままIllustratorでレイアウトできる。
極端に言えば、撮影はカメラマン一人でも可能だ。カメラそのものが家電化し、大まかな調整はプログラムされたシステムが自動的にやってくれる。人間は構図を整えて撮影を管理しながら、微調整するだけでいい。カメラマン自身が「求められるのは撮影の技術より、写真を加工できる能力だ」と言う。
WEBデザインに使用する写真は印刷物ほどの画素数は必要ない。卓越した撮影技術も求められなくなっている。アマチュアでも撮影の仕事ができる反面、その影響が撮影費に及び値下げ圧力となっている。デジタル加工まで受けるとか、スチールだけでなくムービーまでこなさないと、プロとして食えなくなっているのだ。
カメラマンは撮り貯めた写真をライブラリーに委託し、貸し出している。国内外の四季折々の景色・風物からポートレート、スティルライフまで、ロイヤルティフリーの写真を1枚当たり数千円から数万円で貸せるので、これが副収入になっている。
ところが、今ではタダで使える写真がネットに転がっており、企業サイトなどの制作ではこれが使われるケースが多い。大手代理店がグロスでアカウントをもつ物件ならいざ知らず、Webデザイン会社が直で受ける仕事は、グラフィックに比べ端から「取り」=制作費が少ないせいか、利益を出すには「払い」=外注費をかけられない。
そのため、Webデザイナーはどうしても写真やイラストカットはフリー素材で賄ってしまう。ネット全盛の現代においてカメラマンやイラストレーターの仕事が少なくなるはずだ。ただ、ネット事業者の中にはフリー素材を使うことさえ面倒なのか、他人が撮った写真を平気で借用(盗用)しているところがあると、あるカメラマンは言う。
昨年、それを裏付ける不祥事が発覚した。DeNAのキュレーションサイトで、他人が書いた記事の引用が「盗用」にあたるとして謝罪会見を開いたことだ。経営陣は「知らなかった」という善意の釈明に終始したが、記事だけでなく写真までが無断で転用されている事実も明るみに出た。ネット社会の発展で情報の受信が完全にボーダーレス化した中、著作権管理は完全に形骸化してしまったことになる。
大手ネット事業者は資金を出したベンチャー(DeNAのケースでは50億円で買収したMERY)に新種のビジネスを興させ、それで荒稼ぎさせればいいのだろう。あとは上場して投資したカネを回収すれば片付くのだ。そこではプロのカメラマンの「力量」や写真の「価値」まで尊重しようという発想は、無いに等しいと思う。
ワールドワイドで、無尽蔵にアップされているWebサイトにおいて、いちいち著作権侵害をチェックしようものなら、電通の社員を自殺に追いやった残業どころの騒ぎではない。お上が残業時間を規制したことが、なおさらチェックの厳しさを助長していく。
DeNAのケースを見ると、ネット事業者が生産性が上がらない部分に多くのコストを割くとは思えない。盗用されたと思われる投稿元の制作者には、 DeNA側が被害者に金銭の支払いを提案しているという。迷惑料として画像の転載1カ所あたり1000円程度を提示したようだが、金額の根拠を説明しないことに反発の声があがっている。収益を上げるためには倫理観どころか、オリジナリティなどどこ吹く風のようである。
そんなこと考えていると、この道12年のキャリアを持つ、米国のファッションフォトグラファーの記事がネットにアップされた。「カメラマンはインフルエンサーに仕事を奪われている」:あるファッションカメラマンの告白である。
http://digiday.jp/publishers/confessions-of-a-fashion-photographer-i-dont-know-anyone-who-isnt-owed-thousands-of-dollars/
これによると、米国のファッションメディアでも仕事がどう変わり、見合うギャラが得られているかの背景が明確にわかる。とかいうか、世界中どこも同じようである。
「業界自体が変わった。…いまは予算が本当に厳しい」とのこと。
かつて大手印刷会社の下請けで、チラシの撮影をしていたカメラマンは、「商品1カットが2000〜3000円だから、数をこなしても割に合わない」と言っていた。今はその半分以下だと思う。設備投資はかかっているわけで、そんな撮影単価では仕事として成り立たないのである。
単価が下がっただけではない。ネット通販を個人でも行えるように、ホリゾントや照明まで揃えた格安のキットまで売り出されている。ネット通販を考える商店主もこれを使えば、店頭の片隅で物撮りが可能になる。その規模を拡大したのが「ツケ払い」まで始めた某ファッション通販サイトだろうか。それさえ模倣し、さらにコストダウンできると訴えた宮崎の業者も登場したくらいだ。撮影コストをかけないのだから、予算が計上されるはずもない。
フォトグラファーへの支払いはしっかりしている点については、
「未収金の額が2万7000ドル(約300万円)に達している。…表紙を含む4回の撮影の料金を払ってくれないクライアントに対しては、集団訴訟まで起こしている」
知人のイラストレーターから聞いた話では、発注元である制作会社が倒産し債権者会議に参加すると、そこにはカメラマンやコピーライターも来ていたという。ネットを含め格安の料金を売りにする事業者との取引ではどうなのか。大きな利益は得てないことを前提に考えると、仕事は受けないことが自衛策なのかもしれない。
もっとも、この記事で最も注目すべき点は以下の2つ。これがネットを中心にした今のビジネス環境を指し示す。まず「プロのカメラマンに対する見方」が変わったことだ。
「インスタグラムと、写真を撮れるスマートフォンの存在が、この業界を大きく変えた。影響力のあるソーシャルメディアやブロガーもだ。質の高いコンテンツの制作よりも、コンテンツを早く作ることの方が大事であり、知り合いに誰がいて誰にコンテンツを届けられるかの方が、実際にどんなコンテンツを制作しているかよりも重要になった」
プロのカメラマンが撮ったということより、写真原稿がどれだけ早く多くの人間に「いいね」「リツィート」されるかが重要なのだ。知り合いにSNSで月刊のブログアクセス数を公表されている方がいらっしゃるが、カメラマンもいかにお友達を増やしてアップした写真のアクセス数を稼ぐか。それが「評価」であり「価値」なのである。
もう一つは、ソーシャルのインフルエンサーに仕事を奪われていることである。
「数千人規模のフォロワーを抱えるインフルエンサーに仕事を奪われて、…クライアントの関心はいまはインフルエンサーにある」
インフルエンサーとは、「インターネットの消費者発信型メディアにおいて、他の消費者の購買意思決定に影響を与えるキーパーソン」である。まあ、巷の解釈ではネット上で強い影響力を持つ個人ブロガーなど、消費者目線に近い人間ということだろう。
ファッションはマスメディアのフィルターを通した情報が発信されても、すでにそれほどの反響はない。雑誌がほとんど売れなくなっているのがそれだ。メディア子飼いのカメラマンには受難の時代でもあり、淘汰は確実に始まっている。
個人同士のつながりが重視されるネット社会では、業界慣れしてない方が多くの人間に共感を持たれるのは間違いない。それがインフルエンサーやブロガーに市民権を与えたのだろうが、その情報を鵜呑みすることは諸刃の剣でもある。情報発信に対する責任の所在が曖昧だし、側面にネット事業者が押し付けた価値観を感じられるからだ。
なぜなら、ネット事業者はDeNAの不祥事のようにタダに近い記事を集めて、SEOでアクセスを増やしてバナー広告で収益を上げたり、取り上げた商品とは関係ないクライアントの通販サイトに誘えばいいからである。ビジネスの本流が「商品を作って売る」のとは違うところにあるのだ。
コレクションを観覧しているインフルエンサーやブロガーがどこまでアパレル、糸へんの知識があるのか。まして撮影経験どないずぶの素人だ。すべてがそうだとは言わないが、多くが自分が生まれ育った環境、知識や学習の積み重ねでもたらされる知見はないだろう。実態は周囲を含めた狭い世界での価値観で生活しているのに、それでもアクセスが多ければ、あたかもそれが「正論」と他には何も言わせないし、言われない。
ファッションの撮影はエディターとカメラマンが幾多の経験値のもとで、アパレルメーカーが企画した商品、デザイナーが創ったクリエーションに対し、「どこにスポットを当てる」「どこをどう見せる」なら、「写真はどう撮るのか」と、阿吽の呼吸でのもとで仕事をこなしてきた。だから、客観性があって事実がストレートに伝わるのだ。
プロが撮った写真はテーマが違うし、カット一つ一つでクローズアップの仕方が違う。素材、色、質感、デザイン、カッティングと、ライトの当たり方で撮り方を変え、デザイナーの無言の主張をまるで言葉ように伝えてくれる。そこにエディターの文章が加わるから説得力がつき、誌面にレイアウトすれば、見る人に対しネットより格段に正確な情報が事実として伝わるのだ。
単にファッションが好きで情報をタレ流し、それを多くが読んでいるから評価されるのは、いかに全体のレベルが低くなっている証拠ではないのか。そんな素人の情報発信にド素人が共感するのは異常なことだ。あくまで商品を評価するは、プロが発信した情報をもとに市場で実際に購入した消費者で、インフルエンサーやブロガーは単なる情報発信元の一部に過ぎない。 それはモデル崩れの三流タレント見たさに客が集まるガールズコレクションにも共通する。
それをネット事業者があたかも正論と喧伝すれば、あまりに恣意的な情報がまかり通ってしまい、カメラマンはもとよりエディターさえ存在価値はなくなる。経験や実績は何の意味も持たなくなってしまうのだ。
糸へんという環境に身を置いたこともないインフルエンサーやブロガーが自ら知識を付けようとすることもなく、錬磨されてない感性のもとで素材もクリエーションも技術も無視した自惚れな論説、業界知らずの評論でアクセス増やしたからと、なんぼのものかという気持ちでいる。
だから、リスペクトと言えばおこがましいが、しっかり撮影してくれるカメラマンに対してもギリギリの状況まで付き合うし、自らコスト負担してギャラを出すように心がけている。誰かがやらないと、ファッションを伝えるプロは育たないからである。
ファッションの情報発信に携わり、現場で経験を積み重ね、卓越した技術と見識をもつ仕事をして来たカメラマン、エディターというプロが報われるのが当たり前だし、ド素人の評論を利用して稼ごうというネット事業者こそ、そう遠くない時にまた新たなビジネスにとって代わられるかもしれない。
ネットの隆盛はしかたない。マスメディアが衰退していることも事実だ。しかし、俄評論家のSNSのみでファッション市場が動かされることには、賛同はできない。そもそもマスで流れる情報にも商品にもあまり関心がないからだが。30年以上ファッション業界に携わって来たが、今はわかってもらえる人だけにメッセージが伝わればいいかと思っている。
だから、レスポンスがどうのといったマスに対する責任も感じていない。それは自負でもなければ、やせ我慢でもない。同じ視点をもつカメラマンと仕事をすれば、「いいアングルじゃん」「ピンがばっちり」と会話も弾むし、あがった写真は情報としてすごく意味をもつと思うからだ。
上質な生地で作られた芳醇な香りがする服が好きな人間は、そうでない人間よりも少しだけ心にゆとりが持て、垢抜けて見える。それに共感してくれる人たちにわかってもらえる写真や記事を伝えて行く。これからどうなろうが、それで十分だと思っている。
今でも年に何度かは一緒に仕事をする。ただ、昔に比べると隔世の感がある。 カメラはデジタルに変わり、フィルムを現像する必要がない。カメリハからずっとパソコンでチェックでき、撮影は手間暇かからなくなった。撮った写真データはPhotoshopでレタッチもトリミングも行え、そのままIllustratorでレイアウトできる。
極端に言えば、撮影はカメラマン一人でも可能だ。カメラそのものが家電化し、大まかな調整はプログラムされたシステムが自動的にやってくれる。人間は構図を整えて撮影を管理しながら、微調整するだけでいい。カメラマン自身が「求められるのは撮影の技術より、写真を加工できる能力だ」と言う。
WEBデザインに使用する写真は印刷物ほどの画素数は必要ない。卓越した撮影技術も求められなくなっている。アマチュアでも撮影の仕事ができる反面、その影響が撮影費に及び値下げ圧力となっている。デジタル加工まで受けるとか、スチールだけでなくムービーまでこなさないと、プロとして食えなくなっているのだ。
カメラマンは撮り貯めた写真をライブラリーに委託し、貸し出している。国内外の四季折々の景色・風物からポートレート、スティルライフまで、ロイヤルティフリーの写真を1枚当たり数千円から数万円で貸せるので、これが副収入になっている。
ところが、今ではタダで使える写真がネットに転がっており、企業サイトなどの制作ではこれが使われるケースが多い。大手代理店がグロスでアカウントをもつ物件ならいざ知らず、Webデザイン会社が直で受ける仕事は、グラフィックに比べ端から「取り」=制作費が少ないせいか、利益を出すには「払い」=外注費をかけられない。
そのため、Webデザイナーはどうしても写真やイラストカットはフリー素材で賄ってしまう。ネット全盛の現代においてカメラマンやイラストレーターの仕事が少なくなるはずだ。ただ、ネット事業者の中にはフリー素材を使うことさえ面倒なのか、他人が撮った写真を平気で借用(盗用)しているところがあると、あるカメラマンは言う。
昨年、それを裏付ける不祥事が発覚した。DeNAのキュレーションサイトで、他人が書いた記事の引用が「盗用」にあたるとして謝罪会見を開いたことだ。経営陣は「知らなかった」という善意の釈明に終始したが、記事だけでなく写真までが無断で転用されている事実も明るみに出た。ネット社会の発展で情報の受信が完全にボーダーレス化した中、著作権管理は完全に形骸化してしまったことになる。
大手ネット事業者は資金を出したベンチャー(DeNAのケースでは50億円で買収したMERY)に新種のビジネスを興させ、それで荒稼ぎさせればいいのだろう。あとは上場して投資したカネを回収すれば片付くのだ。そこではプロのカメラマンの「力量」や写真の「価値」まで尊重しようという発想は、無いに等しいと思う。
ワールドワイドで、無尽蔵にアップされているWebサイトにおいて、いちいち著作権侵害をチェックしようものなら、電通の社員を自殺に追いやった残業どころの騒ぎではない。お上が残業時間を規制したことが、なおさらチェックの厳しさを助長していく。
DeNAのケースを見ると、ネット事業者が生産性が上がらない部分に多くのコストを割くとは思えない。盗用されたと思われる投稿元の制作者には、 DeNA側が被害者に金銭の支払いを提案しているという。迷惑料として画像の転載1カ所あたり1000円程度を提示したようだが、金額の根拠を説明しないことに反発の声があがっている。収益を上げるためには倫理観どころか、オリジナリティなどどこ吹く風のようである。
そんなこと考えていると、この道12年のキャリアを持つ、米国のファッションフォトグラファーの記事がネットにアップされた。「カメラマンはインフルエンサーに仕事を奪われている」:あるファッションカメラマンの告白である。
http://digiday.jp/publishers/confessions-of-a-fashion-photographer-i-dont-know-anyone-who-isnt-owed-thousands-of-dollars/
これによると、米国のファッションメディアでも仕事がどう変わり、見合うギャラが得られているかの背景が明確にわかる。とかいうか、世界中どこも同じようである。
「業界自体が変わった。…いまは予算が本当に厳しい」とのこと。
かつて大手印刷会社の下請けで、チラシの撮影をしていたカメラマンは、「商品1カットが2000〜3000円だから、数をこなしても割に合わない」と言っていた。今はその半分以下だと思う。設備投資はかかっているわけで、そんな撮影単価では仕事として成り立たないのである。
単価が下がっただけではない。ネット通販を個人でも行えるように、ホリゾントや照明まで揃えた格安のキットまで売り出されている。ネット通販を考える商店主もこれを使えば、店頭の片隅で物撮りが可能になる。その規模を拡大したのが「ツケ払い」まで始めた某ファッション通販サイトだろうか。それさえ模倣し、さらにコストダウンできると訴えた宮崎の業者も登場したくらいだ。撮影コストをかけないのだから、予算が計上されるはずもない。
フォトグラファーへの支払いはしっかりしている点については、
「未収金の額が2万7000ドル(約300万円)に達している。…表紙を含む4回の撮影の料金を払ってくれないクライアントに対しては、集団訴訟まで起こしている」
知人のイラストレーターから聞いた話では、発注元である制作会社が倒産し債権者会議に参加すると、そこにはカメラマンやコピーライターも来ていたという。ネットを含め格安の料金を売りにする事業者との取引ではどうなのか。大きな利益は得てないことを前提に考えると、仕事は受けないことが自衛策なのかもしれない。
もっとも、この記事で最も注目すべき点は以下の2つ。これがネットを中心にした今のビジネス環境を指し示す。まず「プロのカメラマンに対する見方」が変わったことだ。
「インスタグラムと、写真を撮れるスマートフォンの存在が、この業界を大きく変えた。影響力のあるソーシャルメディアやブロガーもだ。質の高いコンテンツの制作よりも、コンテンツを早く作ることの方が大事であり、知り合いに誰がいて誰にコンテンツを届けられるかの方が、実際にどんなコンテンツを制作しているかよりも重要になった」
プロのカメラマンが撮ったということより、写真原稿がどれだけ早く多くの人間に「いいね」「リツィート」されるかが重要なのだ。知り合いにSNSで月刊のブログアクセス数を公表されている方がいらっしゃるが、カメラマンもいかにお友達を増やしてアップした写真のアクセス数を稼ぐか。それが「評価」であり「価値」なのである。
もう一つは、ソーシャルのインフルエンサーに仕事を奪われていることである。
「数千人規模のフォロワーを抱えるインフルエンサーに仕事を奪われて、…クライアントの関心はいまはインフルエンサーにある」
インフルエンサーとは、「インターネットの消費者発信型メディアにおいて、他の消費者の購買意思決定に影響を与えるキーパーソン」である。まあ、巷の解釈ではネット上で強い影響力を持つ個人ブロガーなど、消費者目線に近い人間ということだろう。
ファッションはマスメディアのフィルターを通した情報が発信されても、すでにそれほどの反響はない。雑誌がほとんど売れなくなっているのがそれだ。メディア子飼いのカメラマンには受難の時代でもあり、淘汰は確実に始まっている。
個人同士のつながりが重視されるネット社会では、業界慣れしてない方が多くの人間に共感を持たれるのは間違いない。それがインフルエンサーやブロガーに市民権を与えたのだろうが、その情報を鵜呑みすることは諸刃の剣でもある。情報発信に対する責任の所在が曖昧だし、側面にネット事業者が押し付けた価値観を感じられるからだ。
なぜなら、ネット事業者はDeNAの不祥事のようにタダに近い記事を集めて、SEOでアクセスを増やしてバナー広告で収益を上げたり、取り上げた商品とは関係ないクライアントの通販サイトに誘えばいいからである。ビジネスの本流が「商品を作って売る」のとは違うところにあるのだ。
コレクションを観覧しているインフルエンサーやブロガーがどこまでアパレル、糸へんの知識があるのか。まして撮影経験どないずぶの素人だ。すべてがそうだとは言わないが、多くが自分が生まれ育った環境、知識や学習の積み重ねでもたらされる知見はないだろう。実態は周囲を含めた狭い世界での価値観で生活しているのに、それでもアクセスが多ければ、あたかもそれが「正論」と他には何も言わせないし、言われない。
ファッションの撮影はエディターとカメラマンが幾多の経験値のもとで、アパレルメーカーが企画した商品、デザイナーが創ったクリエーションに対し、「どこにスポットを当てる」「どこをどう見せる」なら、「写真はどう撮るのか」と、阿吽の呼吸でのもとで仕事をこなしてきた。だから、客観性があって事実がストレートに伝わるのだ。
プロが撮った写真はテーマが違うし、カット一つ一つでクローズアップの仕方が違う。素材、色、質感、デザイン、カッティングと、ライトの当たり方で撮り方を変え、デザイナーの無言の主張をまるで言葉ように伝えてくれる。そこにエディターの文章が加わるから説得力がつき、誌面にレイアウトすれば、見る人に対しネットより格段に正確な情報が事実として伝わるのだ。
単にファッションが好きで情報をタレ流し、それを多くが読んでいるから評価されるのは、いかに全体のレベルが低くなっている証拠ではないのか。そんな素人の情報発信にド素人が共感するのは異常なことだ。あくまで商品を評価するは、プロが発信した情報をもとに市場で実際に購入した消費者で、インフルエンサーやブロガーは単なる情報発信元の一部に過ぎない。 それはモデル崩れの三流タレント見たさに客が集まるガールズコレクションにも共通する。
それをネット事業者があたかも正論と喧伝すれば、あまりに恣意的な情報がまかり通ってしまい、カメラマンはもとよりエディターさえ存在価値はなくなる。経験や実績は何の意味も持たなくなってしまうのだ。
糸へんという環境に身を置いたこともないインフルエンサーやブロガーが自ら知識を付けようとすることもなく、錬磨されてない感性のもとで素材もクリエーションも技術も無視した自惚れな論説、業界知らずの評論でアクセス増やしたからと、なんぼのものかという気持ちでいる。
だから、リスペクトと言えばおこがましいが、しっかり撮影してくれるカメラマンに対してもギリギリの状況まで付き合うし、自らコスト負担してギャラを出すように心がけている。誰かがやらないと、ファッションを伝えるプロは育たないからである。
ファッションの情報発信に携わり、現場で経験を積み重ね、卓越した技術と見識をもつ仕事をして来たカメラマン、エディターというプロが報われるのが当たり前だし、ド素人の評論を利用して稼ごうというネット事業者こそ、そう遠くない時にまた新たなビジネスにとって代わられるかもしれない。
ネットの隆盛はしかたない。マスメディアが衰退していることも事実だ。しかし、俄評論家のSNSのみでファッション市場が動かされることには、賛同はできない。そもそもマスで流れる情報にも商品にもあまり関心がないからだが。30年以上ファッション業界に携わって来たが、今はわかってもらえる人だけにメッセージが伝わればいいかと思っている。
だから、レスポンスがどうのといったマスに対する責任も感じていない。それは自負でもなければ、やせ我慢でもない。同じ視点をもつカメラマンと仕事をすれば、「いいアングルじゃん」「ピンがばっちり」と会話も弾むし、あがった写真は情報としてすごく意味をもつと思うからだ。
上質な生地で作られた芳醇な香りがする服が好きな人間は、そうでない人間よりも少しだけ心にゆとりが持て、垢抜けて見える。それに共感してくれる人たちにわかってもらえる写真や記事を伝えて行く。これからどうなろうが、それで十分だと思っている。