夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

あら、弟がピアノを弾いている

2011年08月27日 16時36分10秒 | 芸術・文化


なんとまぁ、弟がピアノを弾いている。
リューマチで指が回らなくって、うつ病でやる気をなくして、、、、
弾けなくなっちゃったなんていって、ステージに立たなくなっちゃった、、
あの弟がね~


クライスラー  愛の悲しみ


フォーレ  夢のあとに

以前、この詩で日記を付けてませんでしたっけ?
検索してみましたが、出てきませんでした。変だな。
詩をもう一度付けておきますね。

Dans un sommeil que charmait ton image
Je rêvais le bonheur, ardent mirage,
Tes yeux étaient plus doux, ta voix pure et sonore,
Tu rayonnais comme un ciel éclairé par l'aurore;


夢の中にあなたの美しい姿があった
私の幸福の夢、燃え上がる幻影。
あなたの瞳はとても優しく、声は澄んで響いた、
あなたは輝いていた 暁に照らされた空のように;

  今回は、和訳はこちらからお借りしました。

キュイ  オリエンタル



弾けてないけど、俺がピアノを弾いているのは非常に珍しいから、それだけでも希少価値ありってメッセージ付きで送ってきました。

いいじゃん。 ホロビッツだって最初の(?)さよならコンサートはひどかったし、
アーメリンクなんて、あんなひどい声に金を払わされる人は不幸だよねなんて思うようなさよならを5回以上もやっちゃったし。
でも、アートの面白さって、技術だけじゃないんだよね。
ホロビッツのさよならコンサートだって2回目の来日の時はミスタッチも気にならないくらいに気持ちが籠っていたし。あぁ、これが大家の演奏かって納得できたもんね。
アーメリンクだって、歌よりも、人間性が滲み出ていてってか??(まあ、彼女の場合はそういっとかないといろいろ差しさわりがあるから)

昔、企画するアーティストのことを知らなければならないし、知りすぎると見に来る人との目線が違ってくるし、、、って悩みを書いていたけど、

弟の場合も、これでよしとしましょう。
なんせ、身内だからね~

三大勘違い

2011年07月19日 08時22分58秒 | 芸術・文化


チョウトンボがでましたので、こちらはゴクラクトンボ、、、、じゃないってば。
今、赤とんぼをだすと、「秋のものなのに」なんて反応がありそうですが、これは大きな勘違い。赤とんぼの類は6月ごろにも飛んでおります。

こんな思いこみ、勘違いは結構あるのでして、先日アップいたしましたコスモスも、秋桜なんて言われて、秋の花にリストされていますけど、6月ごろから咲く早咲きのものがたくさんありますよ。
秋のイメージが頭にこびりついていて、6月ごろにコスモスを見ても、意識の底に追いやってしまうのでしょうか。この時期にもコスモスはあるってことはは定着しませんね。

そして、ヒグラシ。昨日なぞ、盛大に大合唱をやっておりましたが、これも5,6月くらいから鳴いておりますな。ごめん、あなたの大切な夏の終わりのあの甘く物悲しいイメージを壊しましたでしょうか。

これらは、いすみのような田舎だけでなく、東京でもごく普通にみられること。誤った先入観、常識が頭にあると、自分の目で見ていても「見ないこと」にしてしまう。人間ってそんな風な偉大な能力もあるのですたい。。なもし。

人生をかけた夢って?

2011年02月15日 22時02分21秒 | 芸術・文化


もし、人生をかけた夢って言うのが、自分なりの華を咲かせることなら

咲かせた花がどれだけの人に評価されるかとか、
切花にしたら幾らで売れたかなんてことは、

些細なことなのでしょうか?



評価や、値段がいつの間にか自分の夢の評価とすりかわってたりして。

でも、食べていけなきゃいけないというのも事実なんですけどね、、、、



人はそのすり合わせの、ぎりぎりの緊迫感を見ているのかな、、、、


死んでいる美術館。学芸を殺す組織。

2011年01月14日 09時20分36秒 | 芸術・文化

昨日、岬に移動をかけました。
今日は晴れ、明日は曇りの予報。
なので、目覚ましをセットし、コハクチョウを撮りに行こうと予定を組みました。

知人やいすみの方々のブログで、コハクチョウさんたちが元気にされているのは承知しておりましたが、私は、なんせ11月中旬に2回撮っただけですので、ご挨拶をしておかなければ、また国へお帰りになるかもしれませんしね。

多摩川でも、トモエガモさんにやはり2回だけご挨拶をして、しばらく間があいておりましたら、何度かお訪ねしてもお目にかかれない。もしかしてもう引っ越しをされたのかって心配をしています。

こんなことにならないように、コハクチョウさんたちとはきちんと友好を深めておかなければと思うのですよ。
それに、私が最初に見たときには6羽しかおりませんでしたが、今は10羽になっているそうなので、、、、お初の方もいらっしゃるようですし。

なんて、思いながら目覚ましで目が覚めましたが、なんだか起きだすのが億劫。なんで、今日の予定は取りやめ。。。
コハクチョウさん御免なさいね。


ところで、不思議なのは、いすみの里山などを紹介するセンターが近くにあります。そこでコハクチョウの飛来を確認したのが、私が確認した一月後。
センターでは、コハクチョウの飛来地のそばの方に情報をお願いしていたんだけどって言っていましたけど、
情報をお願いされた方。家の前にコハクチョウが飛び交っているのに、まだ見ていないってどういうことなのかな~

それにこのセンターの方、時間はちょっと早いけど仕事に出る前に、ちょっとだけ回り道をすれば確認できたのにって思います。

上にも書いていますけど、私は最初に見てから、ほとんど東京に戻ってしまっていますので、こちらで見ることはできませんでしたが、それでも知人やこちらの方々のブログやHPにはコハクチョウの写真や記事がアップされているのだから、ちょっと検索をかければ分かることなのにね~

ある市と仕事をするときに、市長から「どんな人を担当にしたらいいか」って聞かれて、「遊びで仕事をする人」って答えて、市長をびっくりさせました。「仕事で仕方なくやっていれば、すぐそばに関連のイベントや、参考になることがあっても、率先して行こうとは思わないでしょうし、ちょっとオーバータイムになっても大騒ぎするでしょう。仕事が遊びなら、言われなくても自分で役に立つようなことをどんどん調べたりしますよね」って付け加えましたら、分かってもらえましたけど。

逆なことを言っているときもありましたね。学生さんたちを前にして、企画の仕事のむずかしさなんてことをうんざりするほどまくしたててね。確かに、やりたいことをやろうとするといろいろと障害がある。でも、彼らは、ある程度それが分かっていながらこの授業に来ているので、熱意はありすぎるほどあるんですよ。だから、年寄りとしては水を差して正気に戻さなきゃってね。
熱意に悶えているのはアーティストだけで十分。マネージをやる立場の人間は、最初にそれは必要だけど、動き出したら、後は冷静な判断、計算しかないんですよ。
水を差されて、それでしゅんとなって萎えてしまうようでは、最初からやらないほうがいいのだし。それでも我に返って、なんとかならないでしょうかって質問には喜んでお答えしましたけどね。

死んでいる美術館とか、熱意のない人のことをよく「美術館のスリッパペタペタの学芸員みたいな人」って言いましたけど、彼らに聞くと、自分たちがいかに難しい環境に置かれていて、日々の仕事に忙殺されているかってまくしたてます。
東京のとある美術館でも、知り合いの学芸たちが随分と辞めて行きました。
確かに東京都という組織は、国の組織以上にわけがわからない組織だし、官僚的。ちょっとしたことで電話を一本入れてみればすぐにわかります。用件を話して、担当者につながるまでに10回、20回は転送されるのが当たり前みたいなところ。勤めている人たちでも自分の横の人が何をしているのか分からないような組織ね。もはや組織としては巨大化して自分の重みで崩れて行っているところ。
だから彼らの言うことも分かります。

でも、日本のほとんどの学芸員が多かれ少なかれそうなんです。それでも何かやろうとする努力をしている人もいれば、スリッパペタペタもいる。
東京でできなければ、地方へ行っても難しいよね。
それは東京の問題もあるけど、彼ら自身の資質の問題が大きいのかななんて思って見ておりました。


おまけに、そんな努力をしている人の方がいろんな意味でリスクをしょっている、失敗して、一生を棒に振る可能性が大きいのですよね。
熱意や努力を買う仕組み、そのような人を守る配慮。
別に、アートマネージメントの世界に限らないけど、上に立つ人にとって組織が大きくなると、余計に必要ですね。



善意の空回り

2011年01月08日 09時53分40秒 | 芸術・文化


正月早々お金の話で申し訳ないけど。

人のために努力して、その結果が報われないならまだしも、そのために相手に反感を持たれたり、不信感を与えたりするようなことがあると、自分も相手もとても嫌なもんですよね。
自分はがっかりだけど、相手はその人が自分のことで努力しているのが分かっていればいるほど文句も言えない、騙されたわけじゃないだろうけど、、、、不愉快な気持ちをどこにぶつければなんてね。


企画を立て、さあやろうとしているときに、お金を欲しい。
大きなところは、どんと企業スポンサーをつけて行く。こんな企画をやりますから御社、スポンサーになってよ。「はい、一口5000万ですよ」なんてね。
でも、お金をもらいながら、これを承諾してくれる会社ってどんな頭をしているんだろうね、、、、って不思議でしたけどね。
そろばんでは判断できない、企業のイメージPRにそんなお金を出せるなんて、、、、


残りの小口の部分は広告バーターというのをよくやりました。このイベント(ほとんどが展覧会などの美術関係の企画でしたけど。音楽やステージは、企画の楽しみ、、、、コンセプトを作り、展開を考えなんてのが少ないし、中心が人だから、資格を持つマネージメントに投げてしまわなきゃいけないから)でその企業のPRをしますから、その広告費分のサービスを提供してくださいねってことですね。
こちらのほうが、ある程度そろばんづくだから仕組みはよくわかる。

例えば、保険会社なら、広告よりも入場券。1万枚あげるからその分保険代を割り引いてって申し込むんです。入場券が1000円なら、1万枚で1000万。。。でもそこまでは見積もってくれませんけどね。
持ってくる物の評価が何千億、あるいはその更に上の単位になるんですから、保険代だって、千万単位、あるいはその上の単位で来るんです。なにがなんでも支出を減らさなきゃって、支出以前に体がすり減ることをやっていたんです。
保険会社は、勧誘のおばちゃんたちにそれを渡して、これはうちが協賛している展覧会なんですなんていいながら勧誘の相手にお土産にするんです。

でも、広告バーターの最たるものが航空会社との交渉。
こちらは普通は入場券などを必要としていないから、なかなかしぶいんです。
でも、美術品の運送や、下見、契約などの人の動き、どうしても契約してもらわなきゃってことですね。
私たちが企画する美術展などに航空会社の名前が協賛でついているのはそのせい。

その広告バーターで一番大切なことは、どれだけこのイベントが告知されるかってこと。入場券やポスターに協賛の名前が出ても、高が知れているでしょ。
そのために、まず私たちが必死になるのが名義主催をしてくれるところ。
この新聞、テレビが主催に立ちます。告知やイベントの紹介記事の中に御社の名前が出ます。その新聞やテレビを見る人の数はいくらいくら。だからその分を広告費として見て下さいってことですね。
私の企画には全て三大紙や大手の経済紙がスポンサーになっていました。
国営放送なんて手もあるんですけど、あそこのイベント担当はたいがい生半可な知識を持っているのでやりにくいし、他から横やりがはいって、途中でぼしゃるケースも多くって。国営放送ダイレクトでなくても、その子会社ならまだやりやすいんですけどね、、、、
展覧会がらみの放送で、外国の街並みが写り、その隅っこになんだか航空会社の看板が写っていたり、飛行機が飛んでいたりするのは、この手ですね。
民放だと大っぴらにやれるんだけど、ここはそうはいかないから。
この建前、、、若手のプロデューサー辺りはニュース番組でも民間の会社の名前が入るのはまずいなんていうけど、上の方だと、どこの会社がこんなのを出しましたなんて平気でだしているでしょ。
組織が巨大になるとね、、、、
建前で縛られている人たちが多すぎて。
見てて胸糞悪い。
でも、アナログでも地デジでも、この国営放送の電波の届かない地域に住むと、さっぱりしすぎて、寂しいな~

こういう動き方をするもう一つ大きな媒体が、広告会社。日本の二大広告会社の力ってすごいんです。テレビや新聞の広告枠は抑えているし、スポンサーも自由に選べるし、、、
この線で企画をまとめると、経済的なことは何も心配いらない、左うちわで寝てればいいになるんですけど、企画がどうしてもアミューズメントになってしまう。企画が入場者の数、広告収入の数で判断されてしまう。だから当初のコンセプトからずんずん離れて行ってしまうことが多いんです。
地方の企画なんかにしても、ここをつけると、とんでもない数の人が集まるし、とんでもないメディアへの露出になる。でも、企画の仕事とアートマネージメントは似て非なるもの。一番核になる部分が違うんです。

地方の大学なんかから、講師でなんてお声がかかったりすると、美学の講座をお持ちですかって最初に聞いて、なければその場でお断りっていうのもその辺ですね。アートマネージメントの核は美なんです。それはどこまでいっても忘れてはいけないこと。でも、なんとなく人が集まれば、活気が出ればってことで安心しちゃうことがだんだん多くなるんですけどね。

何百万人入るイベントのプロデューサーの一人になったり、四千人以上入るホールのこけらの一つを頼まれたりしたことはありますけど、やはりなんか違うんです。そんなの私の仕事じゃない。
狸と狐しか集まらなかったというのも困るけどね~


なんてことを言いながら、本題に、、、、、
なに? 前置きが長すぎる、、、、
そうね~ 自分でも分かっているんだけど、歳をとるとこうなるのよ。

その、広告バーターで航空会社と交渉するときに、相手は航空券代を定価で見積もってくる。こっちは「実勢価格は、その四分の一でしょう。それを反映してよ」って言い続ける。でもね~ 40年近くそのことをやってきて、お付き合いででも、こっちのいいなりになってくれたのは一度きりってのは、、、惨敗ですね。

担当者には、さんざん文句を言うけど、彼らも実勢は知っていてもそれが彼らの限度。おまけに、企画を離れたところでは、安い切符を紹介してくれたり、もっと安いのはっていうと、うちではこれが限度だけど、連絡しておくからここのエージェントに行ってよとか、だまってアップグレードしていてくれたり、、随分と面倒見てもらっているし、担当者も何十年も付き合った仲間だし、文句は言えないよね。

似たことは、年中ごひいきにしてもらっている、、、? させてもらっているかな? カメラのサポート。
積極的に知らせてはいないけど、古いレンズを持っていけば新しいレンズを割り引いてくれるところがあるんです。私のカメラのメーカーもそう。でもね~ 3割引きにしてもらっても、新品の実勢価格はそれよりもっと安いんです。知らずにそれを買って、後で実勢を見たら、不愉快になるでしょうね。メーカーは「古くからの顧客に対するサービスの一環です」って胸を張るけど、顧客のためのサービス、善意(いい意味で解釈すればですよ)が却って顧客に不満を与えることになるのは、メーカーも現場なら知っているはずなんですけどね。
もし私が担当だったら、お客に対してはそっと、他のお店で値段を調べてください、その上でこちらでお買い求めになりたければどうぞっていうでしょうね。


さんざん、あちこちから「浮気者」なんて叱られたけど、、、
一緒のお墓に入るはずだったジムニーちゃんの代わりが昨日届きました。

モデルチェンジの数日前ということもあって、担当者がとてもがんばってくれました。
それはそれで感謝なんですけど、、、
純正のナビをつけるのが嫌で(純正だといろんなプロテクションがかかるのでとても不便なんです)社外品でインダッシュに収まるものをって考えていたんですけど、メンテナンスパスポートとCDをはずして、多少上乗せすればインダッシュのものをお付けしますというのでそれにしたんですね。
これだけで14万近いお金。
ところがこのナビの実勢価格を調べると、5万なんです。ナビの取り付けで9万も余計にかかっているのかな?
しかも、何度もセールスに欲しいなって言っていたバックモニター。ちょっと上乗せすると、バックモニター同梱のタイプもあるじゃないですか。このタイプ専用のバックモニターを単独で買っても1万3千くらい。

彼はそれまでいろいろと努力してくれたのは重々分かっているので、たぶん、彼の買値が高かったんだろうって無理に自分を信じさせて、不信を覚えないようにしてはいるけど、でも、素人の私が5万1千でおつりがくる物を、業者価格で買えばいくらだろうって思いは残っちゃいますよね。
彼なりの努力が、逆に相手に不快な思いをさせたのかな???

CDと、メンテナンスパスポートをはずして、その分の14万値引きした方がずいぶんとすっきりしたのに。
はっきり言って、トヨタさん、顧客への思いやりで、次の顧客を一人失った。




変なもの その3

2010年11月05日 11時30分03秒 | 芸術・文化


この間「おいちゃんは」っておいちゃんの撮る変な被写体をご紹介しました。
実は、そのちょっと前にも、「なんとなく滑稽な」って、変な被写体を紹介しています。
ですから、ここは「変なもの」シリーズの第三弾ですね。
もっとも、時間をもっと長くとれば、あっちにも、こっちにもたくさんその「変なもの」が出てきますけど、あまり意味がないし。


流木や枯れたシダ、、、なんであんなものを面白がって撮るんだろうと思いますが、それにはおいちゃんの悲しい過去があるのです。

仕事場に入ってから、おいちゃんの仕事は、ある国のゲージュツ、ブンカを紹介することでした。
それも、古典は評価が定まっており、紹介すべきものは商業ベースでやれるから、あなたは現代ゲージュツを紹介しなさいってことでしたので、おいちゃんは一生懸命、ゲージュツカと付き合い始めました。
ゲージュツ蚊はブン蚊の仲間。あまりたちのいい手合いではありませんでした。
そんな人の間で、あまりにも熱心に飛び回っておりましたので、おいちゃんの目は飛蚊症になり、目の中に蚊がぶんぶんと飛び回るほどでした。

だから、おいちゃんの頭の中は少し壊れてきたのだと思います。
なにが美しい、何を紹介すべきもの、、、ほんと、ゴミ箱をあさっているようなものでしたからね。
   ゴミ箱; 比喩で言っていると思いますか? とんでもない、それがまったくの真実のものもあったんですよ。
   どこかのお花の流派のお家元。展覧会をやるからおいでなんて言われて、おいちゃんは、華道なら、きゃわいいこちゃんがいっぱいいるだろうと、、、思ったかどうかは定かではありませんけど、いそいそと出かけましたら、なんとそこは夢の島状態。観客も変に気取った根暗ばっかし。。。おいちゃん、がっかりしてしまいました。
   これは別な美術の作家。展覧会やってよってサンプルで送ってきたものは、なんとなく一般受けするような作品。
「まあ、これならどこかに当てはめてもいいか」なんておいちゃんに思わせといて、さて、やろうとして送ってきたのは、ゴミ。
おいちゃん、仰天しましたね。出版されている彼の作品集や、それまであちこちの美術館で見たものとは全く異質なもの。
「このガラクタはなんだ」っておいちゃんの問いには、「作家って日々進歩するものだよ」なんて澄まして答えていましたっけ。
おかげでおいちゃんは顧客の信用を一つなくして泣いておりましたな。

もちろん、おいちゃんも年一くらいは、「顧客サービスです」なんていいながら、好きな古典の展覧会やコンサート、ダンスや舞台のパーフォーマンス、イベントを企画しては、半公認でやっておりました。
成功の拍手は仕事場に、失敗のつけはおいちゃんが負う、そんな馬鹿な状態、、、それでもおいちゃんは古典をやっていたのですね。
それがなければ、おいちゃんの頭はとっくに壊れていたと思いますよ。

でも、ときどき思います。
おいちゃんの仕事の日本のカウンターパート。文化庁では評価の定まらない現代ものにお金と時間をかければ、必ず文句がでてくるからって、現代ものはほとんどやっていない。それを扱えるスタッフさえいない。
おいちゃんみたいな、素人にだって、外務省のスタッフが日本の文化を海外に紹介してみないなんて声をかけてくるくらいだから、人材不足はどうしようもないのでしょうね。
というのか、お役人と話をしてみて人材はいっぱいいるんだと思いますよ。でも政府の枠組みが自由な動きをできなくしている。
まあ、理屈で考えれば日本の役所の動き方のほうが当たり前なんでしょうけど。

最近、漫画だのアニメだのって少しやり始めましたけど、あれだって、世界的に評価を受けたから、それをやっても叱られないって見定めた後ですよね。
評価の定まったものの紹介や、保存なんてのは、それこそ「コマーシャルベースベース」でやれること。
ノンプロフィットの政府としては、まだ評価の定まらない今の文化の紹介、振興をすることが本来の役目だと思うのですけど。

日本では、現代ものっていう言葉さえ理解されていない。
昔、NHKが現代アートの展覧会をやり、それをヨーロッパに回したかったんですね。監修はとても高名な美術史家さん。
相談されて、おいちゃんは鼻先で笑っちゃいましたよ。
そして、担当者とその美術史家さんにいいました。
「これは現代アートではなくって、近代です。だってどの作家ももうとても高く評価されている人だし、その芸術は既存のものになっていますからね。」
それでもどうしてもというので、おいちゃんはヨーロッパに行ったときに知人の美術館の館長や学芸の人にそれを見せましたが、あちらで言われたことはおいちゃんと全く同じ言葉でした。

どこの国でも、名前やその芸術が評価されて、初めて既存のものになる。当たり前のことですけど。
でも、今を紹介しようとした場合に、今、生まれている芸術って、その枠組みから離れているんですよね。それをどう位置付け、評価し、取り上げていくか、それがアートマネージに携わる人にとってとても大切なこと。
   
なんて、口では簡単に言えますけど、現実はとても不可能に近いこと。
おいちゃんは、このやり方が悪ければ辞めさせてもいいですよ、って開き直っていた部分があるし、人(主催者)にリスクを負わせるのに、自分が認めたものじゃなきゃ紹介できないでしょって、気に入らないものは絶対に手をつけなかった。それがおいちゃんの仲間には評価されたし、向こうの国でも一応の評価を受けて勲章までもらったり。もっとも日本で言えば勲四等くらいだから、大したもんじゃないけど、ブンカ、ゲージュツの分野での叙勲は日本と同じでそんなにないんですよ。
その後、かの国に行ったら、今まで鼻もひっかけなかった、大美術館の館長たちからおめでとうを言われて、「こんなブリキのおもちゃよりは、ボーナスをくれるほうがいい」なんて思っていたおいちゃんも、仕事に役立つならよかったわいって思いなおしたくらいですからね。

でも、おいちゃんのような仕事のやり方ができたのはとてもラッキーだったから可能なこと。
教壇に立って、これから続いていこうとしている学生さんたちにこんな話をして、日本の美術界に巣立って行ったら、みんな挫折するのは目に見えている。。。。言えないよね~


日本の美術館では、高名になった作家の作品しか購入しません。
高い税金を使ってね。
でも、ヨーロッパの美術館では学芸の仕事の一つが、これから出てくるであろう作家を紹介し、場合によってはその作品を購入すること。
プロでも、はずれは多いでしょうけど、それがその館長や学芸員の評価なんですね。

その意味で、日本ってどこまでいっても島国。自分が分からなくっても他人が高く評価するものは、「いいもの」になってしまう。知らないものを自分の目で評価するってことが難しい人が多すぎるんですよ。

なんちゃて、でもチビ太にはおいちゃんの面白いものは、どうも評価できない。せいぜいおしっこをかける対象くらいだな。。。。
でもま~ おいちゃんに残された時間はそんなにないのだから、いまさらおいちゃんの価値基準を矯正いたしましょうなんてことをやっても仕方がない。
おいちゃんにはせいぜい、暖かい日だまりの羊の夢を見てもらいましょう。
だって、おいちゃんは未年だから。


月明かり

2010年09月05日 22時28分02秒 | 芸術・文化

子供のころ夜中にふと起きて、雨戸の隙間から昼間のような光が差し込んでいるのを見て、雨戸を開けて外を見ると、そこは白い冷たい光に溢れた音もない世界だったって書いていたことがあります。
李白の静夜思を添えていたのだと思いますが、漢詩を紹介している「漢詩を長崎弁で」のなかにはありませんでした。
なにか別なテーマで書いていたのでしょうか。


岬の我が家。ベランダが白の床ですので、とてもよく月明かりを映し出します。
それに誘われて、ぼんやりと外を見ることもとても多くなりました。
月明かりに照らされた木々の葉や、ベランダのテーブル、、、
普段見慣れた風景とは違う、静かな、死の世界かとも思える、小学校にもまだ上がらない子供の心を虜にした眺めがここにあります。
そろそろ人間を卒業しようかと思うような歳の私にも、あのときの子供心の驚き、畏敬を思い起こさせる風景。



トップの写真。ひょうたんの葉っぱですが、照らしているのは月光。
後ろには星が見えていますね。
ちなみに、データを紹介しますと。トップも、この上の写真も同じデータ。

D300
AF-S Nikkor 18-70mm F.3.5-4.5G ED  このときは25mm
ISO 800
マニュアル露光 30秒 f. 5.6
ただし、この画像を得るために、現像処理でかなり明度を上げています。


ISO800で 5.6の30秒露光というのは、普通ならば真っ黒な世界。
だけど、夜の暗闇に慣れた目には、月の光に照らされた外が、昼間のように明るく見えるってことですね。


作家の中には作為を嫌い、心象に忠実になんて人が多いですけど、その心象がどのレベルから発するものかってことには無頓着な人が多いのかなって思ったりします。
昼間の世界に見えても、その時の自分の状態をちゃんと把握できていれば、これは真っ黒な世界なんだよって分かるはず。それが分かっていての「霜をおいた風景」っていうのなら、理解できます。
でも、何も考えないで、月明かりは、太陽と同じくらい明るいのだって言っちゃったら、それは馬鹿。

よく言ってますよね。お腹が空いてれば、いつもは嫌いなものでも美味しく感じる。

自分が見えてなくって、表層だけの発露で物事を見る、それを表現する。
それが芸術なのだってのは、押し付けられる方としては、勘弁してよって、、、、


まぁ、枯れた花が何をいい、どうあがいても、何の意味もないのですけどね~~~







対話

2010年08月17日 09時07分57秒 | 芸術・文化


このブログへのアクセスを見ておりますと、携帯サイトからの検索でこられる方がずいぶん多いのに気がつきます。でも、携帯サイトの場合どんな検索ワードでこられたのか分からないんですね。
人のブログを見るんだったら、自分の場所も教えろよって思いません?
無作法だと思うし、それ以上にもっと大きなチャンスを逃しているような。
サイトとしては、個人情報の管理と言う大問題を抱えているのは分かるのだけどね~
携帯サイトからのアクセスをカットできればしたいですね。


似たようなこと、以前にも書いたことがありますが、コメントを入れてきて、どんな方かなって見に行ったら、コメントもトラックバックも受け取らない設定にしてある。
人のコメントを受け付けたくないと言う考えがあるのは分かりますし、SPAMが凄く多いですから理解もできますけどね。
なら、自分も人のブログにはコメントをつけるなよって言いたいのです。




自分の意見を述べる、立場を鮮明にする、相手に対してなんらかのアクションをとるということは、相手の意見や立場を(同意はしないまでも)理解しよう、相手のアクションも受け止めようとすることと同義語であって欲しいですね。



最近、トラックバックを2件もつけてきた方がありました。
その方のブログへ、お礼のコメントを入れようと参りましたら、やはりこちらもコメントを受け付けない設定にしてある。
相手に対して無礼だと思いませんか?
それにもっと大きな可能性を自ら否定しているって思いませんか?



よほど、トラックバックを削除しようと思いましたが、共通の知人がいるようなので、そのままにしてあります。
でもね、以前私のブログでちょっとだけ、その共通の友人の話を引用しながら書いていた日記がありますので、もしまたこのブログへこられるようならそれも見てくださいね。



耄碌爺が、遠吠えをしております。
あまり気にしないで。



写真はあまり暑いので、撮りに行っておりません。
大昔に使った写真を再掲しています。

リスト 超絶技巧練習曲集  シフラ

2010年08月16日 16時21分36秒 | 芸術・文化


おいちゃんは今週は運転免許の更新に行かなければなりません。
ほんとうは今日、予定を入れていたようですけど、おいちゃんは暑さでのびています。
車に乗ればエアコンが効いて涼しいのに、葉っぱの上で暑そう。
「おいちゃん、行かなくっていいの」って聞きましたら、
「今日は届け物が着く日だから、やめる」なんだそうです。
葉っぱの外には行きたくないみたいですね。


朝、その一つがつきました。
それがこのタイトルのリストの超絶技巧練習曲ってCD。シフラって言う人が演奏しているのだそうです。

おいちゃんはソファーに横になったまま、朝から延々と聞いています。
「ふん、ふん」なんて、何が分かったんでしょうね。

巨匠って言われる人、戦前、戦後すぐ位の人の演奏って、素晴らしいと思っても、実際はとっつきにくいのだそうです。当時と音楽に対する考えがずいぶんと変わっているから、その辺を理解しないと、とても聞けたもんじゃないものが多いのだそうです。
でも、おいちゃんの好きなルービンシュテイン、そしてそれほどでもないけど時として凄いって思うホロビッツ。あの人たちはもろにその年代の人だけど、あの人たちの演奏は、チビ太にはそんなに今と変わっていないと思うのだけど、、、

シフラはそれよりも少し若い人。リヒテルよりも少し後の人ですね。
でも、最初にこのCDを聞いたときに、おいちゃんは 「あれっ」って顔を何度もしていた。
おいちゃんは、シフラのリストは何度も聞いたことがあるはず。でも昔のことだから、忘れちゃったんだね。
それとも昔はおいちゃんも、こんな風な演奏をする人たちになれていたのかな。今の若い人たちの演奏とはかなり違う。昔風の「巨匠的」な演奏が随所に現れてくる。メロディが先走って、伴奏が待って待ってって追いついていたり、、、 何でここでテンポが変わる? ポーズが入るなんてところがあったり。
もちろん音はよくない。これは1958年から59年にかけての録音をリカットしたものだから、レンジも狭いし。
それにこのピアノ。何を使っているんでしょうね。それとも録音のせい? 低音が妙に響くかとおもうと、高音域が痩せている。

でも、何度も何度も聞いていると、不思議とそんなことは気にならなくなってしまうのだそうです。おいちゃんはシフラ節に洗脳されちゃったみたい。

いくら岬が山の中の一軒家だといっても、おいちゃんみたいに大きな音でがんがんとかけていると、チビ太のところまで音が聞こえてくる。朝から聞かされるチビ太の身にもなってよ。

おいちゃんに言わせると、初めて聞くのだったら、今の若い人の演奏の方が、技巧的にも、録音的にも素晴らしいからそっちを勧めるのが本当だろうな、なんだそうです。
そういえば、おいちゃんがこれを買おうと思ったのは「のだめカンタービレ」でこのなかのマゼッパがでてきたんですよね。チビ太も聞かされたけど、あの演奏の方が確かに分かりやすい。
でもおいちゃんとしては、こちらの演奏がなんだか知らないけど、「味があって」よさそう。
おまけにもう一枚、ホロヴィッツのも注文しちゃってるみたい。

そして、今はシフラのハンガリー狂詩曲とラフマニノフのコンチェルトを買おうかどうしようかって迷っている。これはおいちゃんがずっと昔に夢中になっていた演奏なんだって。
いまさらね~ 今なら若い人のを買ったほうがいいんじゃないかな、、、なんてのが迷いの原因ね。




夕方には、オリンパスペンのファインダーが届いた。
ファインダーをなくしてから、おいちゃんは白けてしまって、ペンには触っていなかったのだけど、これでペンを使えるね。
チビ太の散歩にも持って出れるのだから、はやく散歩に行こうよ。




写真は何の関係もなく、蓮池の亀さん。
でも、もっそりはおいちゃんそっくりでしょう?



リスト:超絶技巧練習曲集
シフラ(ジョルジ)
EMIミュージック・ジャパン

豚は真珠の夢を見るか

2010年08月08日 09時50分30秒 | 芸術・文化


このブログに引っ越した最初のころはまだ仕事のことを引きずっていたので、人間の感覚がどれほど微小な差を認識できるのだろうなんてことをよく書いていた。

たとえば、音。
442のピッチのときに443の音を出せば誰でもわかると思うけど、プロはコンマ以下の差を感じて、演奏中に修正できなければ「プロとはいえないよ」ってのが私の弟の言葉。
たとえば、アンサンブルのときに、10分もしないうちに弦と管のピッチは狂ってくる。片方は上がり、もう一方は下がる。それを演奏しながら、トップのバイオリンのピッチに合わせているのが演奏者の裏の仕事。

長短でも、32分音符でスケールが書かれているときに、メロディとしてそれを弾くのなら、出だしの2,3音。中間の音、そして終わりの3,4音の長さは違うはず。絶対的な長さと言うことから言えば、プロは10分の1以下の長さを区別しているのです。
以前のブログには、MM60のときに、32分音符の長さはいくら。その1割の長短をつけたとすればってことで書いておりましたけど、ほとんど100分の一秒の世界なんですね。
それがその演奏者の解釈であり、個性となっていくのですね。

でも、それはプロだけの問題ではなくって、それを聞いている人が感じてしまう、分かってしまうことでもあるのです。だからプロはその差別を意識して弾いている。




知人のブログには花や猫、空の雲なんてのが毎日アップされている。それに対して一行のキャプションで終わり。
その写真もほとんどがぼかし気味の写真。それが結構素晴らしくって、それだけで意味を持っているので、私のようなだらだらとした説明が要らないのです。

私も究極はそのようなふんわりとした写真を撮りたいのだけど、今のデジカメではどうしてもシャープさ、質感が足りない。

実はふんわりとした写真の基礎は、きっちりした質感の描写ができるだけの力を持っているかどうか。それがなくってだただたふんわり写真を撮ると、ただのぼんやり写真にしかならないのですね。

ハイキーやローキーの写真を撮るときにも、その意図した白さ、輝き。あるいは黒さ、締りを感じさせるのは、そこに隠れた黒い線であったり、黒い部分であったりするのです。

だから、私のは、現段階ではシャープさ、質感の描写で行き詰ってしまって、念願のふんわり写真にはどうしても行けないでいるのです。

フルサイズのカメラ、あるいは「超絶的な解像度を誇る」6*4.5のフォーマットのカメラを使って、ふんわり、ぼんやり写真ばかり撮り出すってのも、私の単なる自己満足を満たしたいがための、馬鹿げた夢なんでしょうな。
ちなみに上に述べた方の使われているカメラ、私がサブカメラにしているもの。決して上級機種なんてレベルではないのです。要するに、私の腕がそこまでいっていないってだけの話なんですね。


なんて、またまた道草を食いそうですので、元に戻って、、、
トップの写真、変哲もない干し海老。
その辺のスーパーで求めた安売りの、どこにでもあるような代物。

でも、その何倍か出すと、ほんとうに粒のそろった、濃くのある干し海老がある。もっともその辺のスーパーでは入手できないとは思うけど。
そして更にその何倍かを出すと、美味しい、綺麗な、味も濃くもある物が手に入るけど、果たしてそれだけのお金を出す必要があるのかって、貧乏な年金生活者の私としては考えてしまう。

いや~、地方税、健康保険、介護保険、、、、みんな年金から天引きされて、そのうち、年金は下りたけど、天引き分で赤字になっているなんてことにならないか心配。
仕事もできなくなり、体や、頭にも問題を抱えるようになった、卒業生のお年寄り達から、なんだらかんだらってお金を搾り取るような今の制度、国のあり方として、どうも不思議。なんてことは今回は関係がないか。

干し海老の話に戻って、おまけに、それを扱っている店を見つけるのもなかなか大変。
私の干し海老の食べ方は、辛味のある大根おろしにつけて食べたり、そのままを口に放り込んで食べるやりかた。特にこれで出汁をとってどうこうしようというような大それたことではないのですね。
それでも、トップの写真のクラスの干し海老にはほとんど触手が動かない。できれば、このもう一つ上のランクのが欲しい。そして更にその上のランクのものを手に入れるのは夢みたいなこと。
だけど、、、、それを手に入れるための手間、そしてため息がでるような値段、、、、そんなことを考えると、今の私には到底無理な見果てぬ夢。

まったく同じようなものに、白子干しがある。私の欲しいのはカリカリのもの。でもただ、干し過ぎたのでは、ぼろぼろとした食感が残るだけ。どこかが違うんですよね。それがその白子干し、あるいは干し海老の味や濃くの差になって出てきている。そして、それがみんなに分かるから、あのような何十倍の値段になっても需要があるし、道楽ではなく、商売として生産できる。

極端な話でしょうか。
皆さんも、海苔だったり、お米だったり、塩だったり、そしてお茶、、、これは私も未だに未踏の台地になっておりますけど、、、、なにか、そんなこだわりを持つものがあるはず。

日常のものではなくって、趣味のもの、道楽のものはもっとすごいですね。
オランダにご一緒した林屋晴三先生。「おいちゃんさん、茶碗は道具だよ。飲めてなんぼかだよ」っておっしゃるけど、でもただ飲めるだけの道具を先生に鑑定していただくと、何十秒で何十万だもんね。
私は350円で買ったお茶碗でも、茶筅の通りがいいなんて喜んでいるけど、確かに、釉薬の掛け方、形、、、、、何をとっても、いいものはいい。
でもあれいいな~とか、今度のお茶会に出せそうかななんてのはその千倍出したって買えないものがほとんど。それだって、その辺のおばちゃんたちの集まりように、「普通のお道具をそろえた」ってことにしかならない。
師匠のとこみたいに、8月に明治神宮でお茶会をやりますのでってレベルだと、使うお道具全部集めたら、数千万なんてことなんでしょうな。。。
私みたいに、お道具全部集めても、1万円行くかどうかなんて環境の中にいる人には夢のまた夢。というより、そんな夢も見ない。
豚は真珠の夢はみないんだ。

食卓に乗せるもの、、、車や、コンピュータのような生活の道具、、、なんでも、なぜそんな差があるのか、そのどれを採るのが自分にあっているのか、、、結構、自分の周りには面白いことがいっぱいある。
そしてそれが自分の生き様にも関係してくるし、生き様もまたそれに関係してくる。


でもその全部を知ろうとしても、自分の生きる時間ってあまりにも短すぎるんですよね。
なにを、捨てていくか、、、、
ほんと大変。
そして、ほんとに面白い。


なんて、たかが干し海老から、、、、
トピックに詰まった証拠ですな。