夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

たおやかな薔薇が、再び咲き誇るのを  秋 アルマン・シルベストル

2009年09月30日 12時04分43秒 |  気になる詩、言葉

よくHPやブログをやっている人から、デジ一が欲しいって言われます。
私は、「そうかな~」って疑問なのですけどね。

私がブログを始めたころの写真は、ズームも効かない200万画素のバカチョンデジカメでしたって日記にもよく書いていますよね。
デジ一とデジカメの大きな差は受光部の面積がデジカメでは小さいこと。
これは確かに質感などをだそうとするときに問題になりそうですが、最近のデジカメなら、よほど大きく引き伸ばさないとそんなことは分からない。リサイズしてウエブに使うくらいなら、絶対といっていいほど区別がつかないと思います。

やはり撮り方に少し問題があるのかも。
デジカメはディスプレィを見ながら撮影しますので、カメラを体から離してとりますよね。だからカメラがぶれやすい。おまけにズーム比が20倍を超えるようなデジカメもありますので、デジカメでもちゃんと三脚を使いましょうね、、、、っていうのが一つありますね。

後は、デジカメで気になるのは画像の上がり、デジ一と比べると、彩度もコントラストも強く設定されているのが多いのですね。デジ一ユーザーは質感、自然な色使いってことを気にする人が多いし、その設定を目的に応じて変える人も多い。
デジカメユーザーは初期の設定そのままがそのカメラで撮れるそのままの画像だって思い込んでいる人がいますし、どちらかというとメリハリのある、ビビッドな色使いを好む人が多いせいだと思います。
でも、これも設定さえ変えれば問題ないのじゃないかなって思うのです。

ということで、サブカメラにデジカメを欲しいなんていい続けながら、お金があると今のカメラのアクセサリーを買ってしまって、なかなかサブカメラまで手が出ません。




ところで今日の写真、バラ、バレリーナです。
バレリーナはこの下に引用した詩人が生まれたちょうど100年後(1936年)にイギリスで作出されています。
つるバラなのですけど、仕立て方でつるじゃないようにもできます。
って、変かな~?
つまり、枝を短めに剪定してあげていると、つるバラっぽくならないのです。
この子はなんどもこちらにアップしているものですけど、花の時期が長く、こんな日当たりがあまりよくないところでも元気に咲いていてくれます。
願わくば、地に戻してあげたいのですけど、東京ではベランダでの鉢植えで我慢してもらわなければ、、、、ちょっとかわいそうですね。




今日は、雨。といっても暗い雨ではなく、明るい感じの秋の雨です。
写真は晴天のときに、、、、って思っていらっしゃる方、曇りや雨のときにカメラを持ち出してみたらいかがですか?
晴天のストレートなコントラストの強い光ではなく、ふんわりと光が回って、柔らかい対象であればこちらの光のほうがベターなんです。
しかも、今のデジカメならホワイトバランスも自動で調整してくれますので、昔のようなフィルターでバランスをとるなどというような面倒がない。
光量が少ない分シャッター速度が遅くなりますので、ぶれに注意して撮ってみるとけっこう綺麗な写真が撮れるかも知れませんよ。

トップの写真は、さらに絞り込んでありますのでシャッター速度は1/10でした。
D300 マイクロニッコール200mm F.4 ISO400  1/10、F.16
(いつもぶれるぶれるって文句をつけているのでニコンのサポートの方が、悲鳴を上げています。なんでいつもスローシャッターを切るのですかって、、、、でも、絞込んで撮るのって、私の好みなんですよね、、、、仕方ないか
超望遠でも絞り込みたがるのですよ。だから三脚や雲台にお金をかけても、ぶれてしまうよ~って泣いています。レンズサポートを買ってこなきゃ。それでも駄目なのは分かっているのですけど、多少は違うでしょうからね)





私は感じる、誇らしい想いでの輝く太陽のなかで
たおやかな薔薇が、再びいっぱいに咲き誇るのを
私の目には涙があふれる、それは私の心が
20年忘れ去っていたことだった。
          秋(の3番目の詩)
          アルマン・シルベストル

   
オリジナルを探してきました。

Automne
       Armand Silvestre

Automne au ciel brumeux,aux horizons navrants.
Aux rapides couchants,aux aurores pâlies,
Je regarde couler,comme l'eau du torrent,
Tes jours faits de mélancolie.

Sur l'aile des regrets mes esprits emportés,
-Comme s'il se pouvait que notre âge renaisse!
Parcourent,en rêvant,les coteaux enchantés,
Où jadis sourit ma jeunesse!

Je sens,au clair soleil du souvenir vainqueur,
Refleurir en bouquet les roses deliées,
Et monter à mes yeux des larmes,qu'en mon coeur,
Mes vingt ans avaient oubliées!
       
上に挙げたのは、この詩の三番目の部分ですね。
Armand Silvestreについてはよく知りません。フォーレなんかの歌曲にこの人の詩が使われたりしています。1836年に生まれて、1900年あたりになくなったようです。


ところで上の詩の訳。定訳が見つかりませんでした。
ご存知の方がありましたら、お教えください。差し替えます。



今日の天声人語

2009年09月28日 09時33分44秒 | 日記


今日の朝日新聞の天声人語は、薄を活けることから書き出して、私も何度か使った去来の「君が手も混じるなるべし、、、、」の句が続いていました。
プロの小説家や俳人などの綺麗だけど、それだけ? みたいな文章ではない、文字で何かを伝える仕事をしてきた人のさらさらとした書き方、こんな書き方こそ、私の日記のお手本なのですけど、どうも私には、人にお金や協力を願う文章しか書いてこなかったので、このような文章を綴るということが難しいみたいですね。


ところで、薄。
私もだいぶ前に薄を挿していますけど、薄は難しい。
いえ、挿すことではなくて、私の場合は写真がいつも一緒なので、その写真が難しいのです。
薄はすっと高く飾りたいし、そうすると左右の空間にいらないものが入り込みすぎてしまう。
スタジオのように何も置かないバックを作るのは、日常生活の中のメモという私の撮り方ではありませんので、私はやらないことにしています。
もう少し薄が野原を飾るようになれば、自然の中での薄を撮れるのでしょうけど。
天声人語では仲秋の名月と薄になっていますけど、満月でなくとも、月明かりと薄、待ち遠しいですね。


昨日は移動日。いすみから東京へ戻ってまいりました。
途中の山側では薄の花穂がどうなっているのか気になって、上総中野を抜けてまいりました。
山は多少秋らしくなってきたかなと思わせるような木々や草原の緑の変化がありますけど、薄はまだ。薄らしくなるにはもう少しかかりそうですね。


ところで天声人語では、薄を花瓶に投げ込んだって書いてありました。
私も「活ける」って言葉はなかなか使えません。
活花もできないで、活けるなんておこがましいって思ってしまうのですね、
(もっとも、お花にも投げ込みは一つの技なのでしょうけど、私が花を投げ込んだて書いたら、文字通りの、がちゃがちゃなんです)
だから私の場合は、花を挿すであったり、投げ込むになってしまうので、この書き手の方の気持ちがなんとなく分かるような気がして、思わず共感を覚えてしまいました。


昨日のルートでは上総中野駅前を通ります。小湊鉄道といすみ鉄道の終点になる駅ですね。この駅では小湊鉄道といすみ鉄道の両方の列車が見られました。
どちらか一方の列車でもなかなか見ることができないので、ラッキーだったのかな。



木更津までの、秋の色を匂わせてきた山道を走りながら、まだだいぶ間がある紅葉を思うのもまたいすみにいる付加的な特権ですね。
海を楽しみ、山を楽しむ、、、、風景だけでなく、味覚ででも、、、、、




ところで、東京に戻りまして、さっそくベランダを覗きました。
シルバーウィークの少し前からいすみに行き、途中戻る予定が、そのまま居続けておりましたので、やや二週間のご無沙汰。
でも、皆元気にしていてくれました。
行く前に、水挿しから土に戻した紫陽花や、ゼラニューム、三つ葉などは土と合って葉っぱを伸ばしてきています。
バラも、バレリーナやパレードが満開。
ゼラニュームやノボタンもはつらつとしています。
万両は、そろそろ赤い色をつけてくれるのでしょうか。
なかでも予想外の喜びはハイビスカス。花を満開にし、蕾もたくさん。



親はなくても子は育つのですね、、、、

昨夜は水をやりながら、ありがとうって口ずさんでおりました。



今日は敢えてトップの写真をお休みにします。
以前の薄を「挿した」ものをご覧くださればありがたいです。

コスモス

2009年09月26日 22時23分37秒 |  岬な日々


ヒガンバナは終わりになりましたが、今、岬ではコスモスが綺麗ですね。



昔は、あまり好きな花ではありませんでしたけど、よくよく見ると、とても綺麗。



なんだか嫋さみたいなものを感じて、



歳をとると、物の見方も変わってくるのですね~

ヒガンバナ

2009年09月26日 22時00分46秒 |  岬な日々


先日来、白のヒガンバナをアップしておりましたが、今日は普通に、赤のヒガンバナ。
もう、ほとんど終わりになってきていますが、まだ色は残っているのが多く、田んぼのあぜなどを飾っています。

お彼岸も終わり。



岬は紅葉の時期が11月中旬くらいになります。
これからどんどんと秋が深まっていきますね。


天神祭  いすみ市岬町長者

2009年09月25日 23時46分14秒 |  岬な日々

さて、先ほどの日記でもご紹介したような朝ごはんを軽く食べて、ぐずぐずと時間をつぶしておりましたが、お腹がすいてまいりました。
お昼でもと思いましたが、時間を見るともう3時。
いすみのレストランはお昼の時間帯が終わると、夜まで店を閉めるところが多いのです。
仕方ない、今日もマックかと家を出ました。
途中のカワセミのポイントでカワセミやセキレイを見て、長者方向へ、
「あれっ? なんだか変ですよ?」って思いながら車を走らせると、目の前に神輿。
なんと、今日は長者の天神社のお祭りだったのです。
しらなかった~
考えてみれば、今日は25日、天神祭の日なのですね~
(ただし、大阪の天満宮では6月から7月25日まで行われます)
天神さんは私の氏神様。
それに九州の家らしく、家にも道真の子孫なんたらいう、多分に訳の分からない言い伝えがあったりして、だから家の家紋は梅鉢なんです。
家の瓦の一つ一つに梅鉢の略紋が入っていて、それを宣伝しておりましたがな。。。
でも、それが本当なら、私ももう少し頭のいいDNAを持っているはずなのだけど、、、自分の頭の悪さを思うと、この説は簡単には頷けないですな~  泣


なんてことは別にして、たしかに、大原の裸祭りなどの有名なお祭りは市役所のHPにも出ていますので、情報が取れますが、ローカルなものはここに住んでいないと入手が困難。
私のような二束の草鞋人種って結構いるのでしょうけど、皆さんはどうしているのでしょうね~ なんて思いながら、車を止めて、お祭りをちょっとだけスナップしました。

神輿の先導を勤めていた踊りのグループ。



いかにも、ローカルで、味がありましたよ。。。
なまじ、プロだと、こちらも構えてなんだらかんだら言いたくなるけど、、、
楽しきゃいいじゃないですかねぇ



近くの神社からのお神輿、子供神輿などかなりの数の神輿が繰り出して通りを練り歩いておりました。




いや、ほんと秋ですね~



キセキレイとセグロセキレイ

2009年09月25日 23時17分06秒 |  岬な日々


いつものカワセミのスポットへ参りました。
カワセミは、私の車が止まったのを見ると、さっと逃げ出し、
「また、逃げられた~」ってがっかりしていると、人の前をこれ見よがしにさっと戻ってきて、反対方向へ隠れてしまいました。
毎度のことで、こちらも諦めております。まあ、カワセミちゃんの元気な姿が見れるだけでもよろしいじゃありませんか。
ということで、帰ろうと思いましたら、ひょっこりセグロセキレイが現れました。
多摩川などにいる子たちとは違って、いすみの鳥はとても人見知り。
間合いがすごく遠いのです。
人の気配だけで、飛んでいってしまいます。
写真はなかなか難しい。



ところで、この場所、セグロセキレイのほかにハクセキレイや、キセキレイもおります。
普通、住み分けをするって言われています。キセキレイはもっと山の上のほうのはずですけど、ここでは一緒に生活しているようですね。珍しいのかな?
キセキレイはしばらく見かけませんでしたので、どこかへ住処を移したのかと思いましたが、今日見かけました。
やはり、ここに住んでいたのですね。
よかった。



物憂い秋の朝は  祭りの幻想

2009年09月25日 09時59分43秒 |  岬な日々


物憂い秋の朝は朝食を作るのもけだるい。
ぼんやりと庭を眺めながら、それでも秋の朝のすがすがしい風が肌をさするのを感じている。
これが私の魂を埋める土地なのだろうか?
終の棲家ってなんなのでしょうね。

秋風引    劉禹錫

何処秋風至
蕭蕭送雁群
朝来入庭樹
孤客最先聞

  風にも秋の匂いがしてきた
  空の風は雁の群れを送ってる
  朝の庭の木立の中にも秋は沁みてきた
  寂しさ一杯のうちん心んなかにも
       2006年9月3日の日記からの転載。前後関係は日記を見てね。

慣れしんだ人や物に囲まれた生まれ故郷ははるか遠く、どこか遠くの記憶にあるだけ。
仕事で過ごした場所は、頭では知っているけど、どこまでいってもよそよそしさを感じてしまう場所。
思い定めて、移り住もうとしているのがこのいすみ市の森の中。でも、自然自然といいながらも、どこかで大都会のありがたさに慣れすぎてしまっている私。


私の最初の上司がそうだった。
両親ともにオランダ人で、パリ育ち。そして人生のほとんどを日本で過ごした人だったので、帰属する所をなくしてしまった。パリに行ってもエトランジェ。オランダに戻っても、パン屋で「オランダのパンをください」って言って笑われる始末。だいたいオランダ語もうまくないって陰口を言われていた人だったから。あきらめて、日本に帰ってきたけど、これまたどこまで行っても外国人でしかなかったんですよね。日本のことは理解している程度でしかなかったから。
亡くなったとも聞いたけど、晩年の思いはどうだったんだろう。

ヨーロッパにいる日本人の知人達も退職して、お迎えを待つころになると無性に日本が恋しくなるみたい。でも、彼らの思っている日本はもう心の中にしか存在しないことも知っているのですよね。
行き場のない身、安住を求める心。


23,24日は大原の裸祭り。23日にちょっとだけ近くまで行ってみましたけど、大渋滞でとても近づけるような雰囲気ではないのですね。ということで24日もお祭り方向は遠慮して、なんとなく一宮方向をさまよっておりました。
本当は昨日で終わっているはずの、神輿の行列。
これを書いていると、家の下を通っています。
いつもそうらしいのです。
夕方に終わるはずの一日の予定が、真夜中にも神輿が行きかっている。
担ぎ手もふらふら、、、町のあちこちで寝てたりするんです。
今朝もその名残なのでしょうか。
なんだか、掛け声がやけのやんぱ、、、、それでも悲壮感もないし、、、悲壮になるほどの意識も残っていないのでしょうね。 とにかく薄れた気力で担いで、出ない声を張り出しているのが見え見え、、、、
でも、自分の住処、巣、故郷なんてのはこんなところから生まれてくるのでしょうね。


昔々、ある左翼系の作家が、車に子供を乗せて日本中を旅行して回っていました。
インテリゲンチュアの典型みたいな彼、そして彼の子供にとって、こんな血縁社会の有象無象はばかげたこととしか写らなかったかもしれません。でも理知的に働く部分と、感情的な部分はうまくバランスを取っていないと、あとあと身の置き所がなくなってしまう、、、、当たり前のこと、誰でも知っていることですけど、、、、若いうちは仕事があるから、やることがあるから、忘れがちなんですよね。
それが身にしみる歳になったってことかな、、、、、




なんてことを思いながら、ふと珍しく小腹がすいているのを感じて、朝食は食べなきゃいけないんだよねって思いだしました。

昨夜のご飯は残っているけど、ご飯を食べるとするとおかずの用意。
それはとてもとても面倒。

パンはないけど、リッツがあるからあれでカナッペにしようかと思うけど、冷蔵庫の中をあれやこれやと探索しているうちに冷蔵庫の中で餓死してもみっともない。

何にしようと思い悩みながら、何も思いつかないときの定番、バナナシェークの用意をする。
うまくいけばこれでお腹をだまし、昼まで怠惰な時間を過ごそうという魂胆。

さて、牛乳をいれ、卵をいれ、バナナをいれ、蜂蜜をいれ、さてスイッチを入れようとして思い出した。
オートミールがあったんだ。
でも、牛乳はバナナシェークで使い果たしちゃったし、生クリームだけで作るのはちょっと怖いものがある。
この間の、牛乳多少多めのクリーム入りオートミールでもかなり濃厚な味になっていたから。コッツウォルズのスワンという有名ホテルの朝食には生クリームで仕上げたオートミールがついていますけど、あれではメタボ推進協議会のご推薦になってしまうかもしれない。
ということで、これは取りやめ。

先日の、渋皮煮は買ってきた栗を使ったのですけど、家の栗がぽたぽたとベランダに落ちてきては存在を主張しているのですよ。
彼らも食べてあげなきゃねって少しだけ拾ってきて、昨夜煮ておりましたのがあるんですよね。これをデザート、、、、パン代わり?、、、にバナナシェークで今日の朝は終わり。



さて、物憂いほどの平穏な朝。
今日も神様は空におられるのでしょうか。
皆様が今日もまた、よい日を過ごされますように。





おおぞ~ら、あおげ~

2009年09月24日 09時06分35秒 | 日記


>よろこ~びに、むねをひ~らけっ おおぞ~ら、あおげ~

マイミクさんのボイス。
この方、かなり精神的にストレスを受けていらっしゃったので、
お気の毒ですね~

どなたか、北さんのご実家の世田谷の病院の方をご存じないですか、、、、

見わたせば花も紅葉もなかりけり

2009年09月23日 23時10分07秒 |  気になる詩、言葉


見わたせば花も紅葉もなかりけり
       浦のとまやの秋の夕ぐれ
            藤原定家
            新古今集 4-363

先ほどは、夕焼けに心躍らされて、恥ずかしげもなく詩を一つアップしておりましたけど、でも、本当に今日の夕焼けは素晴らしかったです。
空一面が真っ赤に染まるというような、度派手な演出ではありませんでしたけど、なんだかじわ~っと心にしみてくるような、本物の秋の夕暮でした。



ところで、これを撮って家に帰る途中、アプローチのところでハクビシンのカップルに出会いました。車を見て、さっと逃げるでもなく、のんびりとこちらを見ておりましたけど、写真を撮ろうと近くまで車を進めて、カメラを構えましたら、さすがに逃げてしまいました。
害獣といわれながらも、飼う人が後を立たない。やっぱり可愛いですよね。
農家ではないので、私は被害を受けないのでそんなことを言っておれますけど(と、いっても、東京近郊のお寺では屋根裏に住み着かれ、家の中を荒らされるので、業者を呼んで駆除してもらったら18匹ものハクビシンが捕れたそうです)農家にとっては作物を食い散らかされる憎い敵なのですね。

でも、お寺が駆除するかな~
って、ちょっと考えてみました。

この世は、すべてが関係を持って生きているのですよね。
だから、それがゴキブリでも、ハクビシンでも、そこにいるというのは、それがいるから、回りまわって私もいるということって、仏教では説明されていますよね。
このままだと、お寺さんが生あるものを駆除しちゃなるめぃになってしまいますけど。

でもね~ もう一つ考えると、
それが自然にそうなっているのなら説得力のある言葉だけど、人間の欲や、一時の迷いでそうなってしまったものも、自然の縁起っていうのでしょうか?


それにしても、ハクビシン君も、人間が勝手に連れてきて、今度は、害獣だって駆除されるのでは堪ったもんじゃないですよね。

此があれば彼があり 此がなければ彼がない。。。。自説経から。