「私は彼の音楽が分からない
でも、私は老いぼれだ
彼が正しいに違いない」
これはグスタフ マーラーが妻に語ったシェーンベルクの評。
彼はシェーンベルクと激しい音楽論を戦わせて、絶交状態になったりしながらも、死ぬまでシェーンベルクのことを気にしていたという。
でも、作家同士がそのコンセプトを話し出したら、まず絶対に相容れることはないのかもしれない。作家はそのコンセプトを死ぬまで磨きに磨きをかけていくのだから、合致するチャンスはまずないでしょうね。
だから、その問題は個人の問題として、敢えて触れないってのも一つの手なのかもしれない。
上の言葉も、どこか相容れない部分があるのだけど、それ以上に、互いに作品を、そして才能を認めている、認めてもらっているって確信がなければ言えない言葉。
作家同士ならまだしも、私のような部外者であれば、それが素晴らしいと思えば、作家のコンセプトの向かっている方向だけを信じて、それを傷つけないようなマネージメントしかできない。
これは同業、あるいは同じ仕事を目指す若い人に対したときでも同じ。
技術は教えられる、でも、何を取り上げるべきか、どう取り上げるべきか、、、、それはその人の問題であって、いくらキャリアが深かろうとその人にそれを押し付けることはできない。
若い人にその技術だけを教えると言うのは、教えるほうにとっても、かなり精神的にストレスのたまるものだけど、、、、
ねぇ、チビ太。
もう、おいちゃんは目もかすんできたし、よいよいになってきたから、若い人たちの向かう方向もわからなくなってきたんだよ。
目の前に蝶ちょが飛んでいても、ぼけちゃってね~ 関係のない下の花に気をとられていたりして。。。
彼らの才能にめまいを感じるような羨望を感じたとしても、、、
もうおいちゃんは老いぼれたからね~
なにもできない。
ただただ昔の、夢に身を沈めていることしかできないんだよ。
何でこんな話になったかと言うと、アマゾンからのメールが来まして、今年はマーラーの生誕150周年なのだそうで、さまざまな記念盤がでているのですよ。それの宣伝を見ながら、ふ~んって思ったんですね。
それに、今朝は、作家のマイミクさんが、作家同士のコンセプチュアルな話ができないって嘆いておられたのも頭の隅っこにあったりしたんでね。
ところで、
弟はマーラーの孫弟子なんですよね。ミュンヘンではヒンデミットの弟子に作曲を習っていた。
面倒くさい音楽を作る?
とんでもない、おいちゃんの弟だもん。
曲を聴いていて、えらく甘い曲だから、それを言ったら、
「このほうが女の子が喜ぶでしょう」って、、、
流石! 座布団三枚!
もう一つ付け加えると、作家のコンセプトに対しては、それを受け入れるかどうかが最初に自分の中にある。だからそれは大切に生かして生きたいって書いているけど、でもね、作家に対して、くそみそに言うこともあるんですよ。弟の発表会を紹介した日記のときにもかなり厳しい表現があって、削除しようかどうか迷ったりしたんですけど、、、、
どこかでも書いていましたよね。
才能がない人に厳しくしてもかわいそうなだけ。
才能があると思うから、厳しいことも言う。
作家にひどい言葉を浴びせるときにも、貴方の才能、作品は認めているのだから、貴方の作品を紹介しようとしているって前提があるわけね。
コンセプトに対しては、何も言わない。でも才能に気が付かないであたら死なせているような人にはね、けっこう鬼になるんですよね、、、これが。
あれを書きながら、おいちゃんは、まだ死んでも、消え去ってもいないな~なんて思っていたりして。
ところで、この日記の写真。
岬に来ていますので、念願のオリンパスペン E-PL1に、ニコンの70-300のズーム(今、販売されているのではなくって、その前の手振れ防止の付いていないもの)をくっつけたもののテストでした。
使えそうかな~