夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

白鳥の湖 失言

2005年12月31日 23時38分51秒 | 芸術・文化
花に水をやりながら音楽を聴いていた。「白鳥の湖」
ちょうど婚礼の場にさしかかるところから、キャラクターダンスのところで、早いテンポの曲が流れている。
プレビンの指揮でロンドン交響楽団の演奏。
バックグラウンドで流していると凄く綺麗なんだけど、頭の中にダンサーのイメージが湧くとどうも変。
ダンサーが踊れなくてべそをかいている。
テンポが速いんだ。
それよりも、もっと大変なのはジャンプや回転などのときの動きの直前・直後のダンサーが落ち着く「間」(ため)がない。
あくまで曲として演奏されているから。

来年は知らん振りして、ダンサーにこのCDで躍らせてみようかな。
一遍で自信喪失してしまうだろうね。


ちょっと蛇の足
昨夜、女優さん(俳優さんも出てたのかな)とプロのダンサーによるダンスの競演をやっていた。ダンサーでもないし、その訓練も受けていないのに女優さんの動きがとても綺麗だし、自然に見える。
この人たちは何時も自分が見られていることを意識していて動作をすることが当たり前になっているから、綺麗なんだって言ってたら、審査員が全く同じことを言ったので、一緒に見ていた女の子の私を見る目が、一挙に尊敬の目に変わって、うるうるしてきた。なに誰でも知っていることを言っただけなんだけどね。

それで調子に乗って「綺麗な人は動作も、言葉遣いも綺麗。子供のときから自分が注目されているのを知っていて、それを当たり前として行動しているから」って、言ったら、「どうせ、私は」って怒って帰って行った。
Sit!  What a slip of the tongue!

一人寝の夜がきた、、、



                         2005年12月31日

小豆

2005年12月30日 09時20分36秒 |  食べるために生きる

豆を煮るのが好きって変な趣味がある。
昨日小豆を買ってきて、水に漬けていた。
先ほど鍋に入れ、火を入れた。



細火でじっくり、
ことこと、ことこと
踊らさないように、
ことこと、ことこと


豆の匂いに
子供の私が目を覚ます


煮汁を取り替え、
じっくり、じっくり
静かに、静かに、

踊らさないように、
静かに、静かに


母さんの思い出が
あっちに、こっちに
顔をだす


明日は灰汁とり、
ことこと、ことこと


砂糖を加えて、
ことこと、ことこと


外は吹雪の風の音
中は暖かい豆の音
ことこと、ことこと


母さんのエプロン
母さんの手
ことこと、ことこと


ちょっぴり塩して、味見して
冷まして、味見て、暖めて


さあ頂きましょう
母さんの温もり


ロールキャベツ

2005年12月30日 09時13分07秒 | 私も作ってみました
ロールキャベツって苦手だな。
あれを出されると、初めて恋人の両親の家に行った女の子の気分になる。
魚を出されて、「綺麗に食べなきゃ躾が悪いと思われる、でも魚って苦手なんだよな~ どうしよう。」って悩んでいる女の子ね。

まだ新しい恋人の家に行って、ロールキャベツを出される。
料理している子のお尻を見ながら、うん意外と家庭的なんだなんて思っているうちはいいけど。
「そろそろワインを開けてくださらない。」なんてのから始まり。
「灯りもキャンドルにしましょうか。」なんて向こうは気合十分。

で、食卓に上るロールキャベツ。
これが問題。

上手く切れないんですよこれが。
キャベツに気を取られると、肉がぐじゃぐじゃ。
肉に気を取られているとキャベツがギャッと広がっちゃう。
食べるときにも気を使うし
味なんてわかりゃしない。

程よく慣れた相手なら失敗もご愛嬌だけど。

最近の娘さんは一人では着物着れないしね、、、

「場所が違うでしょ。
ここは私の家なのよ。
着れなくてもいいのよ。」

あっ、そうか。




普通の事故、普通の病気

2005年12月30日 09時04分07秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
今日も先日の鉄道事故の原因がテレビで議論されていた。
鉄道、そして航空機、客船。
確かに一つの事故にしては死傷者が多い。
そして運転している人はそれぞれその専門家。
だから事故そのものだけでなく事故究明や、事故対策が大きく報道される。
この事故で亡くなった方、けがをされた方には心からのお見舞いを申し上げる。
また事故原因の調査や、再発防止の努力は当然しっかりとやるべき。
でも報道や社会の取り上げ方にちょっと違和感を感じているのも事実。

例えば、交通事故。
毎日、200件以上の事故が発生していて、それによる死傷者は毎年8-9000人、100万以上の人が負傷している。一件、一件は死者の数も上のような事故に比べれば少ないだろうし、日常茶飯事に起こっていることだから世間の注目も引かない。
でもそれで苦しむ人の数は、飛行機事故や、列車事故とは比べ物にならないほど多いのだ。慣れすぎが人の目を奪っている。

本当は報道機関も、定期的にこのような事故や問題に光を当てて取り上げていかなければと思うのだけど。

などという話を今朝来た友達の医者と話しをしていた。

医者もそうだよね。癌やエイズやって、世の中の注目が当たっている病気は研究者もたくさんいて進むけど。ごく普通の風邪などは見向きもされない。
でもそれでどれだけの人が苦しんでいるか。そしてそれが元で他の病気を誘発して死んでいく人もたくさんいるのに。
彼は、「そうだよね。」って頭をかきながら、
「じゃけん、脳味噌のことは毎年毎年いろんなことが判ってきちょっと。成果が上がっちょっとよ。恐ろしがらんと病院に検査して、入院してなおそ。
発作で死ぬんじゃったら、おまさんの勝手じゃろが、麻痺して生き残ったらはた迷惑ちゃ。
なに、迷惑かける相手がおらん? そりゃおまさんの日ごろの心がけたい。わしはそげんときには団体で世話に来るぞ。がっは、がっは。」だって。

九州人を前にして怪しげな九州弁をしゃべるような医者、だれが信用するか。
あまり診たいって言うから、診せてやるだけ。
お前んとこなんかに入院なんぞ誰がするか。
美人看護婦をつけるか、拘束衣でも着せないと、絶対に逃げ出してやる。

あら、事故の話をしてたのに。
なんで、検査に行くことになっちゃった?

 


モモ その2

2005年12月21日 23時55分54秒 |   私の小さな恋人たち
お茶の先生のところのモモ君については12月3日に書いたけど、この猫は本当に勇猛、大尽の風格を持った猫だった。
マツに言わせれば、猫にしとくのは惜しいというところか。

先生の隣の家に犬がいた。
通りを通っている程度なら問題ないのだが、ちょっとでも門に近づくと猛然とダッシュしてきて相手をにらみつける。
家の人と話し出すと、嫉妬してか、狂ったように吠え出す。
見かけは獰猛だけど、このうちの嫁に出た娘さんが大好き。
里帰りで返ってくるときなど、車が見えないうちから、吠え出し、尻尾が千切れるのではないかと思うほど振っている。
車が着いて、娘さんが門を開けて入ってくるともう、一騒動。


この犬がモモのからかいの種。
モモはすることが何もなくなると、隣の家との間の塀に登る。犬は噛み付きそうに吠え出す。飛び掛れないことを知っているモモは悠然と塀の上を行ったり来たり。犬をからかっているのが判るのは、決して犬の死角には入らない。何時も犬にその姿をみせて、ちらちらと視線を送り、犬が吠えるのを楽しんでいる。

ところが先生が隣に用があっていくときには、モモも一緒に後をついていく。
門を開けて入っても、全く平然としている。どうしたことかこのようなときにはこの犬も全くお客様を迎えるような態度で、先生とこの敵を迎え入れる。

公私のはっきりとした犬と猫の関係。
第三者にはちょっと理解しがたい。

納税 人を殺す気?

2005年12月21日 16時21分38秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
今日税金を支払ってきた。150万。
これに関しては税務署との間で大喧嘩があったが、海外で治めた源泉徴収された分を認めないという日本の税務署の判断は未だに理解できない。でも2年かかってやっと全てを払い終えた。
頭の中は怒りで一杯。

先月も50万の税金を支払った。
先月はその上に田舎へ帰ったりして25万近く支払いがあり、その他の事も含めるとこの二月で300万近くの出費。
首を切られて逆さにつるされても、血の一滴も出ない状況。

ただの年金生活者になぜこのような税金がかかる?
年金が生活できる水準なら文句は言わない。
ヨーロッパなどでは給与の6割から7割は年金として支払われる。
日本では2割ちょっと。
しかも私のような厚生年金をもらえる人はまだいいほうで、国民年金だと本当に生きていけないと思う。
一生懸命働いてきて、身体が動かないようになって、老後を少し楽しんでから、人生にオサラバしようというお国の戦士に対しての処遇としてはあまりにも冷たい。
おまけにそのような人からもまだ所得税や健康保険などを徴収しようというのだから日本は原始国家以前。

理由はさまざまだろう。人口の逆ピラミッド化とかいろいろな理由が聞かれるけど、私には単純に資金運用の不手際としか思えない。

日本の政治というのは最低。

運命の相手

2005年12月20日 16時17分47秒 | 私も作ってみました
岬に珍しく雪が降った。
ブランディのグラスを持ちがなら
私はテレビのスイッチを入れる
ニュースも関係がない
ドラマも空々しい

じゃ音楽にするか
CDの棚に向かうが
ラフマニノフは一人で聞くにはわびし過ぎる
ショパンは甘すぎる
バッハはご大層過ぎる
サティ? BGMはいらない

椅子に戻り、じっと外を見る
黒々とした木々の間を通して見える
月明かりに白く浮かび上がった下の田畑
私の心には白い雪よりも
その上を吹きすさぶ風が吹いていた

手はかじかみ
足は凍り
心は凍てついた針金のようにぼろぼろになっている

もう一人の私がささやく
みろ、お前は一人では生きていけない
お前を何時も見守る人が必要なんだ
お前を何時も抱きしめてくれる人
暖かい、愛に溢れた目でお前を見つめてくれる人
お前が何かを望むときに、喜んで献身してくれる人
お前の心が傷ついたときに、お前のために泣いてくれる人
お前が傷つけられるようなときに、お前を守ってくれる人

お前が心の緊張を解いて
生まれたままの心ですがり、甘え、心の安らぎを得られる人

そして お前を心から信頼し
お前に全てを投げ出し
お前に甘えかかる人

お前にはそれが必要なのだ
それがいないお前の家は
どんなに明かりを灯しても
どんなに暖房を入れても
ただの冷たい箱でしかない

それがいないお前は 何もできない
ただの木偶の坊。

だから、、、、


そう、だからあの出会いは運命だったのだ
ふと目線が会ったときに、私の心は震えた
相手もじっと私を見つめ返してきた
ちょうど、私の心の奥底を見るように
心に響いてくる相手の問い
貴方は私の運命?
私は貴方の運命?

優しさに溢れ、理性を感じさせる目
しなやかな身体
手を伸ばしその上に頭を乗せてじっと私を見つめている

お前は私の運命
私はお前の運命
私は心でそう答えた

お前の目は優しく瞬いてそれを肯定した

私は思わず手を差し伸べようとした


強い力が私の肩を掴み 引き戻した
お客さん、危険ですよ
黒豹は猛獣ですからね -----

大浦みずき 微小な差 再び

2005年12月18日 23時36分29秒 | 芸術・文化
今朝のNHKの番組で大浦みずきさんがダンサーへ宝塚的振り付けって断りながら、動きを教えていた。
二つの動きだけだったけど、例えばバレエでいうピルエットの動きのときにダンサーはメインのカメラに向けて一点で止まる。でも彼女は「宝塚の舞台は広いから」観客の範囲は角度があるからって終わりの目線が客のいる範囲。
アロンジェの動きもダンサーのエネルギーをぶつけるような動きとは違い、指先のしなやかな動きを強調することで先への動きの予感を込めることで観客にその動きが伸びていくことを感じさせられる。

これはクラッシックバレエなどでは初心者の時からずっと言われ続けることなのだと思う。
一つのフレーズあるいはパートが一つ一つの音や動き、色や形の単なる集合ではなくて、まとまりとしてフレーズ全体でかもし出すイメージということ。
1+1は2ではなく、4にも5にもなれるし、なることを期待されているということなのだと思う。

以前久米仙人のブログで人間の認識の範囲がどの程度微小なものか、それによって演奏や作品を見るときの観客の目の鋭さが判るし、演奏家や作家がどこまで気を使わなければならないのかについて触れたことがある。

例えば演奏家にとってのピッチの差は0.1サイクル程度でも判るはず、人よりちょっと音を響かせたいとか、人のピッチにあわせたいというときにはプロの演奏家は442.5を求めていれば442.4では低いと感じなければならないということ。それが判らなければならないということ。

上行する同じ長さの音符の連続したメロディがあって、最初から、最後まで楽譜どおりで弾く演奏家はいない。最初はゆっくり、そして途中で早くなり、最後はまたゆっくり。
音が単純な音のつながりであれば、楽譜どおりでいいわけだけど、それがメロディとしてその人に感じられれば、その人にとって、楽譜どおりではなく、長短のメリハリをつけたものが、均等の音符を弾いているという感じになるのだと思う。

アゴーギクなどではそれの普遍的な展開の仕方を教えているけど、それはあくまで一般論で、その人がそれをどのように脚色するかでその人となりの演奏になっていく。その微妙さを私は100分の一秒くらいって書いていたと思う。

それはプロの演奏家だけがわかるものではなく、聞いている普通の人が認識できる差であるからプロはそこまで気を使うのだとも書いた。

いい職人が認識できる差はカンナのひと削り、つまり1ミクロンの差だという。
人間の認識の差というものはとても普通に自分が気がついている以上にすごいものだと思う。

またこれを意識して作り出せるのは熟練したプロの技なんだろう。それができて初めて何事にもプロとして認められるのだろう。
でもそれを普通の人が認識できるからこそ、プロがそこまで精進せざるをえないということも事実だと思う。
私がここで言っているのは、絶対的な差ではないことはお分かりだと思う。
440.1の音を聞かされて、これはいくつって聞かれても、私なら絶対にわからないだろう。
でもアンサンブルで誰かのピッチが0.1狂ってくれば、全体の音の響きがにごったり、奇麗でないと感じるだろうと思う。
一つの音符を0.01秒長く弾くことがフレーズ全体として、もたつきを感じさせたり、妙にもったいぶった弾き方と感じたり、あるいは先へ伸びていく余韻として感じたりするだろう。でも単純にその長さの音だけを出されても絶対に判らない。

で、久米仙人のブログの時にはこのときには、作家の心のイメージを伝えるためにはどれだけの細心さが求められるかというような気持ちで書いていたけど、


同じイメージを作家が表そうとしても、そのときの環境によっても、非常に大きな差がある。響くホールでは同じ長さの音を出そうとするともっと短い音を要求されるだろうし、使う材料や、見る人の置かれる環境によって、色や形を変えなければ、映し出したいイメージが相手に伝わらなくなる。
暖かい色は熱いときには暑苦しさ、不快さを伝えるし、寒いときには好感のもてる暖かさとして伝わるだろう。

気持ちだけが先走って、環境もメッセージを伝える相手のことも何も考えなくて、自分の気持ちだけをぶつけて、「ああ、さっぱりした」では見る人は他人のマスターベーションに付き合わされているだけ、作家や演奏家が何を言いたいのか、何を表したいのかまったく判らない。
作家は互いに理解できるキーワードをそのなかに入れ込めなければ、見る人には共通の土台には立てない。それは作家の伝えたいイメージが判るかどうかという以前の問題。

対話がなければ、相手に対して自分の気持ちを表現できない。
もちろんその対話は言葉でするものではなく、作品に込められるものだけど。

季節のご挨拶

2005年12月18日 16時05分44秒 | 私も作ってみました
恋人が季節のご挨拶を出すというので、向こうのソファーに陣取って、さっきから文面をしきりに考えている。

それはいい。
私も彼女のように毛筆とは行かないまでも、メールででも普段ご迷惑をおかけしている人々やこのブログを見ている人にご挨拶をしようと思い立ち、PCの前に座った。
うん、いい感じ。

でも何を書けばいいのか判らない。彼女に聞いたら「愚痴と、体の不調は書かないこと」って答えた。格調高く行動することはいいいことだ。

「うん、」と返事して、さてとキーボードに向かったけど、じゃ、何も書くことない。う~ん、じゃ、今年は止めて、来年から始めよう。

「うっふ、うっふ」って声が聞こえる。
「あれ?あれ何の声だろう?」
「あれね、あれは鬼の笑い声」

あなたの鼓動、 華

2005年12月16日 14時32分15秒 |  あなたの鼓動、華
木や花が好きなので、そちらに関したことも書くだろうって、「あなたの鼓動、 華」というカテゴリーを立てている。
華は判るけど、あなたの鼓動っていうのはなにって聞かれたので、ご説明まで;



DATE: 12/16/2005 03:39:05

家の下の家、その家は前を小さな道とクリークが通り、長さが40間、高さ一メートルほどの石垣に囲まれていた。石垣の上部がその家の庭のレベルになっていて、ちょうど中ほどに2間ほどの階段がL型に母屋へと向かっている。母屋の右奥は木々に囲まれてあまり見えないけど離れがあった。左はお蔵になっている。

家人もいたはずだが、私は誰も見たことがないし、声も聞いたことがなかったと思う。

他人の家だったけど、その庭の道路側の部分は私の遊び場の一つだった。

入り口の階段の側に大きな椎の木があった。
恐らく子供3人が手を結んでも回りきれないような大きな幹。
そして2メートルくらいのところで3っつに枝分かれをしていた。

近くに同じ年頃の子供がいなかったのだろうか、いや多分いたのだろうと思うけど、子供の頃に他の子供たちと遊んだ記憶が殆どない。

夏の頃の私のお気に入りの場所はこの椎の木。
ごつごつした木の幹は、子供の私でも手足をかけるところがたくさんあり。枝別れしたところまで簡単に登れた。
そこへ腰を下ろし、1時間でも、2時間でも過ごすのが私のお気に入りの時間の過ごし方だった。
見晴らしがいい訳ではもなんでもないのだけど。ただ静かな、夏のひと時を木に抱かれてすごしていた。
当時の小学生の定番だった白い開襟シャツの袖元から涼しい風が胸のほうへ抜けていく感じが好きだった。
白い細かな土が夏の日を照り返し、じりじりと肌を焼き、土ぼこりが身体にまとわりつく、そんな土地だったけど、木の葉っぱの下は何時も清涼な空間を提供してくれた。

木に抱かれて耳をつけると、ごんごんとかごおごおといったような低い音が絶えずしていて、その木の鼓動を聞いていると、いつの間にか眠っていた。

遠い、静かな、静かな夏の一日。