夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

質問 ビオラダガンバと調弦

2005年07月29日 16時05分58秒 | 芸術・文化
DATE: 07/29/2005 21:38:40

弟が入院している南林間のそばにはビオラダガンバを作る人がいるらしい。弟によるととてもいい響きの楽器を作るそうだ。
バイオリンは指がこんがらがる、チェロはこの年では指の力が足りない。でもビオラダガンバはとても優しい音だし、(といっても私が何十年か昔に弾かせてもらったのは、ある音楽大学の博物館のコレクションのガンバと弓。楽器を返却するときに当時であわせて2000万近いと聞いて腰を抜かしそうになった。でもいい楽器で、本当にいい音がした。資金さえ豊富なら、やりたい楽器ですね。

ただ今になって思うと、ガンバのピッチ合わせはどうするのだろう。フレットが着いているので、ピッチを上げるのはフレットの手前側に指を置くことでできるけど、さげるのはフレットが邪魔をしてできない。
メロディの上行、下降によって、平均律的に言えば同じ音(例えばF♯とG♭)でもピッチが違う。上行は上に言ったようにしてできるけど、下降のときはどうゆう風にピッチを下げるのか、解からない。(でもごめん、私はあのピタゴラスなんたら、Logなんたらなんて全く意味不明。純正律とか、ベルクマイスターとかなんたら、かんたらあまり学問的なことは書かないで。猿にもわかる程度の説明をよろしく。
眠れなくなってしまう。)

また、アンサンブルなどで、バロックバイオリンは弾いているとどんどんピッチの下がる楽器。(弦が伸びるのですよね)弟のところの生徒(子供たち)は休符の間にピッチを上げているけど、逆に大人のプロはそんなことできない人が多い。
当時の音楽は完全調弦(いわゆるゼロビート)。現代のにごった和音ではなくきちんとハモル音を出さなければいけないはずなんだけど、アンサンブルなどで、どうやって他の楽器とのピッチを会わせているのか、どなたか教えてください。

なんて、全く浅薄無知をさらけ出してる私。
恥ずかしい。


どうせ無知蒙昧をばらしたのだからもう一つ恥さらしな質問。
バロック以前のバイオリンは全身に整形を受けて、現代ピッチの楽器に生まれ変わっているけど、(以前にオリジナルのストラディバリウスが一台だけあるけど、その音を聞いてみたいって書いていたよね) 弓はどうなったのだろう。バロック以前の弓はバロックバイオリン用以外には存在しない?
いい楽器(弦楽器)はいい弓を選ぶ。バロック以前のバイオリンにはその当時の弓が会うはずなのだけど、それでは古典以降は弾けないよね。

指定管理者制度

2005年07月15日 15時26分38秒 | 芸術・文化
DATE: 07/15/2005 00:53:20


あまり本業のほうは差しさわりがあるので書きたくないのだけど、指定管理者制度が今話題になっている。もちろん私の周りでの話は文化面の問題だけだけど。

2月にあったある地方都市での会議で、市側が政府から言われているので、7月までに400以上のサービスを指定管理者にまかせなければならないと発言、あまり急な話でちょっと大きな問題となった。会議はその都市の文化政策などを話し合う会議であったけど、それまでには指定管理者の問題は一切なかったのだけど。政府から言われていて、全てのサービスを指定管理者にしなければならない。免除できるケースは3っの条件だけということ。

実はこの都市がある県の美術館、博物館の運営が指定管理者に移行するというので、希望する団体を募ったら、応募がなく、一つは県外のマネージメント会社へ、もう一つは因果を含めて団体に押し付けた形になっていたことを会議の前のゴシップとして委員で話しをしていたばかりだった。

確かに大都市で、そのような能力を持つ団体がいくつも存在するところでは、このような制度はむしろ進歩なんだろうと思う。そしてこのことへの取り組みなどの新聞発表も殆どの事例が大都市圏の話ばかりが取りざたされていて、歓迎ムードがむしろ当たり前のような状況。後は現場にあわせて、何をどこまで、移行するのかといった技術的な側面だけが取りざたされていた。

でも大多数の地方都市ではむしろそのような団体がまだ未成熟なところも多い。あまりにも性急な指定管理者への移行は何のメリットももたらさないのではないかと、私には心配に思えてならない。
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立ち姿

2005年07月15日 15時21分41秒 | 芸術・文化
DATE: 07/15/2005 00:49:32


人のブログを覗きに行って、俳優は後姿で見るというのがあって、なるほどと思ってたけど、私もだいぶ前のことだけど、立ち姿ってことで、ある舞台女優の言葉を紹介したことがあった。プロのアーティストなら舞台に立つだけで、その人の舞台に賭ける気持ち、真摯さが解かるっていうのだけど、確かに作品のテクニックとか、演出とかといった以上に作品やステージ、演奏、あるいはそれ以前のアーティストから直接心に響いてくるものを感じることがある。

例えばゴッホの麦畑。ゴッホ美術館で大掛かりなゴッホ展が開かれたときに、有名な麦畑も展示されていた。それはそれですごいと圧倒されたけど、その隣にもうちょっと小さな麦畑の絵があり、それはもしかしたら知られている麦畑より前に描かれた習作的なものだったのかもしれない。テクニック的にも構図的にも、知られているほうがすばらしいと思ったけど、私はこの小さなほうの麦畑に、背筋がびりびりくるような緊張感と怖さを感じた。荒削りの作品の中にゴッホの思い、執念がもっと強く出たということなのだろうか?

あるお茶のお家元のお茶会で、最初若宗匠(今のお家元)がお茶を点て、ついでお家元が点てられた。若宗匠のお茶はリズム感があり、流麗でそれだけを見れば満点以上のお茶であったけど、その後のお家元のお茶は見ていて、心が和む感じを与えるお茶で、流石としか言いようのないすばらしさだった。

ホロビッツがさよなら公演(2回目のやつ)で来日したとき、思ったのは、彼のミスタッチが気にならないということ、一つ一つの小さな傷が気にならないほどに全体の感じがすばらしい。私はホロビッツというピアニストはそれほど好きなピアニストではなかったのだけど、(私の世代ならルービンシュテインなんかが神様だった)その年輪から来る完成さなんだろうか?

ほんと、やれテクニックだとか、目新しさだとかで、作品を飾り立て、綺麗だねとか、奇抜だねっては感じても、心に何も訴えるもののない作品ばかり見ていると、本当はアートなんてテクニックの問題ではないのだなって思えたりする。でも日本の画廊って、作品を見るときにテクニックしか見ないよね。悲しいことに。

それがリハーサルであっても、ステージの中央に立ち踊りだす瞬間に、気持ちに何か伝えてくる人がいる。このような人の踊りは、演出などは別にして、踊りとしてはすばらしいものになる。

ところで最初の人のブログで、後姿で見るというのは始めて聞いたので、次からは舞台の袖で見てみましょうって書いたけど、私にとって人の袖って手を入れるところ、でも横から眺めるのもいいかもね。特に単の季節になってきたし、若い綺麗な女性なら、、、、

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マンハイムのため息

2005年07月14日 13時42分27秒 | 芸術・文化
DATE: 07/14/2005 22:58:34


最初の水琴窟のところでちょっとだけマンハイムのため息について触れました。
マンハイムはバロックとロマン派の音楽の間にちょっとだけ顔を出す音楽の拠点。

でも音楽を専門にやったり、特別な愛好家でなければ、もうマンハイムの音楽のことについては誰も知らないようになってしまいました。でもフルートやリコーダーをやる人にはシュターミッツの名前はポピュラーだと思いますけど、彼もマンハイム楽派の人ですね。モーツアルトも一時期ここの宮廷楽団に就職したかったのです。
マンハイムの音楽はその人々の間にも過渡期の音楽、ロマン派の音楽に大きな影響を与えたことだけが取りざたされています。ソナタの4楽章編成や、マンハイムのため息と言われたクレッセンド、デクレッセンドの演奏法だけが知られているのだと思います。

でも私にとって興味があるのは、このマンハイムの音楽がホールなどに依存しない、楽器の音をストレートに聞かせる音楽だったのではないかということ。バイオリンも決して遠鳴のする楽器ではなく小さな音でも繊細な音を出せる楽器が使われていたということ。
だからこの音楽を再現するのはそれほど問題はないと思う。
ホールにはそれほど気を使わなくてもいい。
ただしそれを演奏できる演奏者と楽器があれば、、、、、、

現在の楽器、これは音楽に留まらず、多くの芸術表現において、大きな音響、インパクトを与える能力がともすれば評価されがち。
繊細さ、緻密さはなかなか売り物にはならなくなった。

もう一つは、小ホールでしか演じられないこのような音楽ではとてもコストがかかりすぎ、ビジネス的にペイしないもので、特権階級のスポンサードがあった当時とは社会状況が違ってきたことも、難しさをもたらしている原因だと思うけど。
何も数が貴重ではなく、本当に判っている人が、一握りでも楽しめるもの、そんなものの生きる場があってもいいと思うけど。


マンハイムは政治的、文化的な繁栄をミュンヘンに奪われ、工業都市として発達してきました。そのため第二次大戦では壊滅的な戦火を受けましたが、他の町がやったような昔の再現ではなく、必要に迫られた町の復興をして、昔の繁栄の財産を殆どなくしてしまいました。ここにはドイツでも最大といわれるバロック様式の宮廷があったりするのですけど、町全体の雰囲気がなくなってしまっています。

何か日本の復興の町作りをドイツで見ているようで、、、、

水琴窟 その2  音色について

2005年07月14日 04時15分10秒 | 芸術・文化
07/14/2005 22:29:00 


ところでこれも数日前に書いた水琴窟の話。
あそこでホールのピッチについて書いていたけど、プロの音楽家でも自分の楽器のピッチには気を使うけどホールのピッチに関しては無頓着な人が多いって書いたよね。
確かに自分でホールのピッチは変えれないし、あるものを受け入れていくしかないのだけど、もっとプロの演奏者たちがピッチについて口にしてもいいのではないかと思う。

ちゃんとしたピアニストであれば、そこは明るくとか、しっとり弾いて欲しいっていうとそのような音色を出してくれる。これはハンマーが当たる瞬間の指の形を硬くしているか、柔らかく柔軟にしているか、そして音の切り方によって音色が変わるのでそれを使い分けているのだけど、
ちゃんとした調律師なら、明るい音色でとか、柔らかくとか注文していれば、きちんとそのような音色を出すように調律してくれる。反響板までは手が回らなくとも、フェルトの質でもある程度音色を変えられる。弟は安いピアノを買って、ハンマーなどをいいのに取り替えて使ってるけど、確かに音色はその投資以上にすばらしく変わっている。

このように楽器の調律や、弾き方、ちょっとした楽器の修正で音色は変わってくるけど、それ以上に大きいのはホールの持っているピッチだと思う。

水琴窟のところで書いたけど、一つの音があって、それが私たちの耳に聞こえるときには、その音が周りの環境によって変化したものを聞いている。まったく反響のない、周りの影響のないところでの音はストレートに聞こえてくる。ピアノのような反響板をもった楽器や、バイオリンのように反響室を持った楽器ならある程度自分の楽器のストレートな音を聞かせることもできるけど、フルートのような殆ど反響室を持たない楽器ではストレートの音はとても聞けたものじゃない。これは部屋の反響を前提に作られている楽器だから。

ここで一つ問題は演奏者たちの多くは自分の楽器のストレートな音を聞いている。聴衆の耳に届く音を聞けないこと。
(バイオリンなどで遠鳴のする楽器というのがある。近間のストレートな音はがざがざした音でしかないけど、離れたところではすばらしい音色で、音も大きく出るような楽器がある。友人がコレクターの楽器を弾いていたことがあるけど、家の中で練習しているのを聞くと、ゴオゴオという音しか聞こえない。驚いて何でそんな音を出してるって聞くと、家を出て遠くで聞いてごらんっていうから、何軒か先で聞いているととてもすばらしい甘い音色の音が聞こえてくる。こんな楽器があるんですよね。もっともこの楽器に当たって、その音色を引き出すのにはちょっとした才能が必要なのかもしれないけど。こんな楽器を使いこなせる演奏者はストレートの音と、ホールの中で聞こえている音の区別がついて、聴衆の耳に届いているであろう音色を想像しながら弾いているのだろうと思う。)
ホールの持つピッチが低ければ、自分の耳に届いているストレートな音よりも低い倍音が強調され、荘重な音、しっとりした音色に聞こえているし、ピッチが高ければ明るい音色が聞こえているはず。

音楽家が楽器のピッチのこだわるのも本当はその音色の問題だと思う。442で調律されている音を聞きなれていれば、443になっていれば、高い、明るいというような感じを誰もが持つのだろうと思う。人によっては442.1でも区別がつくはず。
(音楽家の弟に寄れば、プロはコンマ1桁の差まで判らなければいけないそうだ。演奏の途中で管は上がるし、弦は下がる傾向がある。演奏会の途中で奏者が音合わせをしているのをご覧になったかたも多いと思う。プロはそこまで調整しながら弾いているのだから。)
一時期アメリカ風のはでな音が好まれたときに世界のオーケストラのテンポやピッチがどんどん上がっていって446くらいまで上げたものを聞いたこともある。(今は収まる傾向にあるけど)
アンサンブルのソリストはピッチを微妙に上げたがる。それはアンサンブルの音の中で自分の音を聞かせたいから。

でも楽器の音色、ピッチにそこまでこだわるのなら、ホールのピッチ、残響、アクースティックにもっとこだわりを持って欲しいよね。

音楽にも、建築にも素人が何を言うかって言われれば、何もいえないけど。素人だから言えることもあるかもしれない。自分の専門だと、いろんな差しさわりがあるから。私はビジュアルアートに関しては何も申し上げません。だって何か言って干されても怖いもんね。

病院 雑感

2005年07月13日 15時14分43秒 |  これがまあつひのすみかか我が日本
DATE: 07/13/2005 17:37:44


昨晩救急車で病院に運ばれ、病院が遠いので、状況が安定している今、近くの病院に入院して、精密検査を受けることという条件付だが、先ほど帰宅を許された。

確かに病院の手続きが遅く待たされることが多い現今では、それを必要としない人たちまであえて救急車を呼んで病院にいく状況があり、それも必要悪だよねって言っていたが、身をもって救急医療の現場を体験できた。
搬入された病院ではあっという間に血圧計、心電図、レントゲン、CTの検査が終り、病室に移され、血液や尿の検査も始まった。

これが一般で行ったらどうだろう。弟はいつ心臓発作が起こってもおかしくないといわれていながら、検査から、入院、手術まで1月待たされていた。内科の処置では間に合わないということで外科に変るのにさらに3週間待たされている。

もっともこれは日本だけの状況ではない。イギリスなどでは6ヶ月、8ヶ月待たされるのも普通だと聞く。

私のケースでも、友人たちがタクシーで私を病院に連れて行ったら、まず時間外で見てもらえないかもしれない。受け付けてもらっても、実際に検診を受けるまで数時間待たされ、検査の一つ一つにさらに数時間づつかかるかもしれない。
病院は一刻を争う病人は、受け付ける前に死んで欲しいとでも思っているのだろうか。

救急医療の体制を見ていて、確かにこれを一般診療のラインに乗せることにはさまざまな問題があるとは理解できるけど、でもこのシステムを一般診療にも欲しいと思うのは私だけだろうか。

水琴窟、能舞台 (プリ)バロックのホール そして夜噺

2005年07月11日 09時07分19秒 | 芸術・文化
07/11/2005 10:58:56 
この間のプリバロック用のホールを欲しいと書いた後で、そのことで音楽家と話をするチャンスがあったけど、この人何も分かってなかった。ピアノ奏者なので、ピアノ曲はバロック以降のものが多いし、あまりホールのことを気にするようなことはなかったのかもしれないけど、同じ演奏家でも例えばフルート奏者などは反響があって何ぼのもの。ホールの残響にはかなり気を使う。
だから最近は木のホールなどがたくさん作られているのだけど、結構音楽家ってその辺無頓着なんだなって、がっかりした。

水が滴り落ちている。それが何もない空間の石の上に落ちているだけだら、ピタピタという音だけでおわり、何の情緒もない風景。でもそれが水琴窟のような囲まれた空間に落ちると、その空間の持つスペースの広さによって、音の成分の聞こえ方が違ってくるし、周りに反響して残響も生まれてくる。それによって聞くほうは、音に色を感じたり、雰囲気を感じたりして楽しむ部分が出てくるのだけど。
能の舞台の下に甕を埋め込むことも同じ原理。舞台をトンと足で踏んだときの音色と残響が全く違ってくる。これがピタピタ、コトコトだけしかしなかったら、役者も観客もしらけてしまうだろうと思うけど。

特にプリバロックの音楽は石造りの空間で演奏されていることが多く、そのためにあの通奏低音とその連綿とした流れの中に、オブリガートのメロディが響き渡る。これが醍醐味なんだと思う。
音楽専用のホールが生まれ、バロック以降の和声の進行の考えが生まれてくると、ホールの設計ピッチも上がってくるし、(ということは昔の音楽はもっと中音以下が豊かに聞こえていたわけ)この残響は全く邪魔なものでしかなくなるわけ。それはそれですばらしい進歩だと思うけど、でもプリバロックの音が全く聞けなくなるというのもまたちょっと寂しいよね。

それにしても、バロックの音楽もまた無視されている。あの「マンハイムのため息」をきちんときけるようなホールは少ない。確かに小ホールはたくさんあるけど、アクースティックが対応していないところが殆ど。こんだけホールがあるんだから一つくらいって、これにも当てはまることかもしれない。

オリジナルを大切にするということは、それを知らなければできないことだけど、それを知る場すらないのが現状なのかな。これは日本のいろんな伝統や文化についても言えるかもしれない。
夜噺のあの和蝋燭の光の下での怪しげな雰囲気は、いくら光量を落としても電気の照明では味わえない。夜噺では色の付いた花を使わない。蝋燭のもとでは色がにごったり、見えないから。それも今は明るい部屋で出来ますからって、色花を生けることも当たり前になってきてるようだけど、ならこれは夜にやるお茶であって、夜噺ではないって言うと、あいつは煩いからって嫌がられる。

茶道具を美術品として鑑賞するのはいいけど、でもそれらは本来的には道具なんですよね。
本来の価値を見て、その上で美術品としての価値も見る。それが博物館に入ってしまえば美術品としての価値でしか判断できなくなる。それは本来的な価値ではないと思うけど。

とは言いながら、では日本刀を道具としてみるために人を切るのって聞かれると、答えに困るけど。

ハモンベジョータとストラディバリウス

2005年07月10日 23時49分48秒 | 芸術・文化
DATE: 07/10/2005 23:39:25


少し前にハモンベジョータについて書いたことがあったけど、そのレスであるレストランのオーナーからそこのレストランでは裏メニューでハモンベジョータの脂身のところを使ったチャーハンを出せるって話があり、その取り合わせに思わずう~んとうなってしまった。値段もリーゾナブルだし、チャーハンならあのちょっと強めの塩味も、ほどよくなるのだろうか。なんて考えていたら、ならそのオーナーシェフをスペインに連れ出して、スペインでチャーハンを作ってもらえたらなんて、とんでもない考えが浮かんだりして。でもどんなに美味しいといわれるものでも、そこの風土の中で育ってきたものだから、特にヨーロッパ物は塩味も香辛料も日本で出されるとちょっと強すぎると思う。日本は湿気が強いから。

そして今日の話のストラディバリウス。これも前に書いたと思うけど、知り合いがついている先生(音楽音痴の私でさえ名前を知っているような世界的なバイオリニスト)がストラディバリウスのオリジナルを持っているということを言っていた。ストラディバリウスなら日本人でも持っているし、オリジナルだからって騒ぐことはないと思われるかもしれないけど、その楽器を除いて、現存するストラディバリウスは全て現代ピッチに改造されたもの。私はオリジナルのストラディバリウスの音を聞いてみたいと思う。そしてそれも早い機会にやらなければ、楽器の「賞味期限」過ぎてしまう。楽器にも耐久年があるんだよね。まだ十分に聞けるうちにその音を抑えておかなければ、ストラディバリウスもアマティもそのオリジナルの音を聞けなくなる。

これもやっぱり、ヨーロッパに行って、その風土の中で聞かなければ、本当の音色を聞けないかもしれない。

ヨーロッパへ行く留学生に、勉強はそこそこでいいから、たくさんの人に会って来なさいっていうし、音楽家には石造りのヨーロッパのうちの音の響きを聞いてきなさいってもいう。勉強は日本にいてもできるし、人的なネットワークがあればそこからいろいろの活動ができる。だから私は日本でできないことで、日本に帰ったときに財産になるようなことをやるべきだと思うから。

ところでずいぶんと話は変るのだけど。日本の音楽ホールにはプリバロックのピッチと残響を持ったホールが一つもない。これだけの数のホールがあるのに、どうしたことだろうと思う。少なくとも関東地方とか近畿地方とかというような地方ごとでもいいからプリバロックの音楽がやれるホールがあればと思う。

ハモンベジョータのチャーハンを食べに、シェフごとスペインに行くというのは夢のまた夢なんだから、少なくとも日本でそれに近いものを見たり、聞いたり、食べたりして味あうことができればいいのになってどこかで思ってるのだけど、贅沢すぎる夢かな。
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