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ちょっと前に、田舎町のグループで「あの駄菓子屋さんには子供のときに毎日のようにたむろしていた」って話がでて、今でも子供たちがたむろしているので、そのときには、この町は、表通りは新しいサーファーや別荘族のための店などがどんどん出てきているけど、ちょっと裏へ入ると、昔の雰囲気、生活が残っているのだなってこの小さな田舎町を好ましいと感じた。
実際、町を流れる川の流域や、町を取り巻く丘には今でも人が入れないような自然がたっぷりと残されていて、その自然を満喫している。
ところが、今朝、レストランの話をしていて、ふとこのことを思いだした。
大都会と違って私の育った町では、家から歩いて15分、20分の間にはお店は駄菓子屋さんが一軒しかなかった。家も軒を並べるのではなく、畑の間に点在していた。
小学校の低学年くらいまではお金のこともよく判らなくて、たんすの引き出しに転がっていたお金、今考えると戦前のお金だった、を見つけては駄菓子屋さんに飴玉を買いに行ったけど。それも一年に一度あるかどうかのことだった。
この辺の人は皆顔見知りだから、後から親に請求が来ていたのは当然だったろう。
長崎に移って高校に通いだしたころから始めて、クラブ帰りに小腹を癒すために学校の傍のうどん屋さんなどに入ったのがはじめての外食の経験だった。
高校をでて、東京に来たときに一番困ったのが食事。たくさん食堂やレストランはあったけど、入るのにとても勇気がいった。基本的に今でも外食は好きではないし、それ以上にレストランに入ることに抵抗がある。
だから私には人と話す話題が一つ欠如している。どこそこのレストランの何が美味しいとか、どんな料理が美味しいとかといった話題はやはり苦手。
今の若い人たちや、子供たちを見ていると、都会ということもあるだろうけど、レストランに入ったり、コンビニでの買い物など、生活の全ての面でお金を使うことに慣れている。社会が、殆どのサービスを経済として機能しているから当然といえば当然なのだろし、ある面とても便利になったことは事実だけど。。。
食事でもそう、家庭の味、母親の味、なんてものが少しづつ薄くなっていっているのじゃないかなって思ったりする。もっと広く取ると、厚意での人へのサービスなんてものはだんだんなくなってきているのじゃないかな。
日本でも一時、アメリカの風潮を真似して盛んに言われていた子供へのサービスへたいする対価。
私は子供に何かをしてもらうときに、お小遣いをあげるのは好きではない。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは両立すべきだと思うし、そのなかで二つの価値観があってもいいと思う。むしろ、ある場所では愛情、厚意による無償の行為が期待されているし、それをするのが正しいというような価値観を持って育って欲しい。
例えば、業者によって温室で育てられた綺麗なバラよりも、持って来てくれた人が丹精を込めて作った虫食いのバラに感激する気持が欲しい。
ヨーロッパはそれでも宗教的な倫理みたいなものがあるから、手が空いてくるとボランティア活動を生活のスケジュールに入れるといったものがまだ残っているけど、でもこれも宗教離れ、アメリカ的な資本主義の広がりで、こちらも衰退しているのだろうか?
とりとめのない日記になりましたね。
実際、町を流れる川の流域や、町を取り巻く丘には今でも人が入れないような自然がたっぷりと残されていて、その自然を満喫している。
ところが、今朝、レストランの話をしていて、ふとこのことを思いだした。
大都会と違って私の育った町では、家から歩いて15分、20分の間にはお店は駄菓子屋さんが一軒しかなかった。家も軒を並べるのではなく、畑の間に点在していた。
小学校の低学年くらいまではお金のこともよく判らなくて、たんすの引き出しに転がっていたお金、今考えると戦前のお金だった、を見つけては駄菓子屋さんに飴玉を買いに行ったけど。それも一年に一度あるかどうかのことだった。
この辺の人は皆顔見知りだから、後から親に請求が来ていたのは当然だったろう。
長崎に移って高校に通いだしたころから始めて、クラブ帰りに小腹を癒すために学校の傍のうどん屋さんなどに入ったのがはじめての外食の経験だった。
高校をでて、東京に来たときに一番困ったのが食事。たくさん食堂やレストランはあったけど、入るのにとても勇気がいった。基本的に今でも外食は好きではないし、それ以上にレストランに入ることに抵抗がある。
だから私には人と話す話題が一つ欠如している。どこそこのレストランの何が美味しいとか、どんな料理が美味しいとかといった話題はやはり苦手。
今の若い人たちや、子供たちを見ていると、都会ということもあるだろうけど、レストランに入ったり、コンビニでの買い物など、生活の全ての面でお金を使うことに慣れている。社会が、殆どのサービスを経済として機能しているから当然といえば当然なのだろし、ある面とても便利になったことは事実だけど。。。
食事でもそう、家庭の味、母親の味、なんてものが少しづつ薄くなっていっているのじゃないかなって思ったりする。もっと広く取ると、厚意での人へのサービスなんてものはだんだんなくなってきているのじゃないかな。
日本でも一時、アメリカの風潮を真似して盛んに言われていた子供へのサービスへたいする対価。
私は子供に何かをしてもらうときに、お小遣いをあげるのは好きではない。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは両立すべきだと思うし、そのなかで二つの価値観があってもいいと思う。むしろ、ある場所では愛情、厚意による無償の行為が期待されているし、それをするのが正しいというような価値観を持って育って欲しい。
例えば、業者によって温室で育てられた綺麗なバラよりも、持って来てくれた人が丹精を込めて作った虫食いのバラに感激する気持が欲しい。
ヨーロッパはそれでも宗教的な倫理みたいなものがあるから、手が空いてくるとボランティア活動を生活のスケジュールに入れるといったものがまだ残っているけど、でもこれも宗教離れ、アメリカ的な資本主義の広がりで、こちらも衰退しているのだろうか?
とりとめのない日記になりましたね。
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