加賀の千代女のこの詩はとても好きで、何度か日記にもあげているはずなのですけど、「気になる詩」のカテゴリーで見てみましたけど、見つかりませんでした。
きっと、どこかのカテゴリーに紛れ込んでいるのでしょうね。
「とんぼつり」、、、竹の先につけた糸におとりのトンボをくくりつけ、寄ってくるトンボを捕まえるという子供の遊びなのですけど、私の子供のころにはちょっとだけあったよう。 弟の時代にはもう廃れて、見られなくなっていました。
なんとなく、懐かしく、ちょっとメランコリックになるような詩ですけど、家の子はまだ帰ってこない、今日はどこまで行ったんだろうというような、平安な気持ちで詠まれた詩ではないのですね。
加賀の千代女には一人息子がいました。でも幼いころになくなったのだそうです。
その子を、思い続けて生きている母親の千代女。
とんぼを見ても、天国であの子はとんぼつりをしながら幸福にくらしているのだろうか思ったに違いありません。
そんな悲しい思いがこめられたものなのです。
そういう背景を知りながらもう一度この詩を詠むと、涙が溢れてきます。
きっと、どこかのカテゴリーに紛れ込んでいるのでしょうね。
「とんぼつり」、、、竹の先につけた糸におとりのトンボをくくりつけ、寄ってくるトンボを捕まえるという子供の遊びなのですけど、私の子供のころにはちょっとだけあったよう。 弟の時代にはもう廃れて、見られなくなっていました。
なんとなく、懐かしく、ちょっとメランコリックになるような詩ですけど、家の子はまだ帰ってこない、今日はどこまで行ったんだろうというような、平安な気持ちで詠まれた詩ではないのですね。
加賀の千代女には一人息子がいました。でも幼いころになくなったのだそうです。
その子を、思い続けて生きている母親の千代女。
とんぼを見ても、天国であの子はとんぼつりをしながら幸福にくらしているのだろうか思ったに違いありません。
そんな悲しい思いがこめられたものなのです。
そういう背景を知りながらもう一度この詩を詠むと、涙が溢れてきます。
文面からは、作者が幼い子を失った事実を読み取れません。
名作として調べて背景を知れば、子を失った深い悲しみが胸をうちます。
自分の疑問は
『俳句は、背景を調べて鑑賞するものなのか?』
ということ。
この詩は、背景を知らなくては全く意味が変わってきますよね。
そこで講談社の俳句サークルに所属している人に聞いたら、
『俳句は背景を調べるのではなく、わずかな言葉からイメージする推理ゲームです』
とのこと。
…
連想したのが、三島の雑談。
『夏目漱石の研究家が沢山いるけど、本人が生きていたら、アッと驚くタメゴローだよ』
文学は誤解まみれなのですね(>_<)
書いた本人の思いを置き去りに、読者が勝手にイメージを拡げていく。
でも、虚しくはないですよね。
人との出会いが誤解まみれでも、虚しくはないように。
この千代女の歌はそんなことを知らない人にも、長閑な子供を思う母の心として受け止められていると思います。背景を知ることでまったく違う意味の句になりますが、それを知るべきか、それともあくまで表現されたものだけで判断されるべきか。
あるいはよく知られた事柄であったとしても、作品、言葉の持つ意味がその時代背景や、作家のおかれている状態、作家の思想によって、違う意味合いに撮られることもありえます。
仕事が展覧会などの企画でしたので、おっしゃることは常に、頭の中に葛藤としてありました。作家を知らなければ作品を完全には理解できないけど、そうすると普通の人がその作品を見て感じるものと遊離してしまう。。。。
ただ、できれば、作家を調べて、その作品の持つ本当の意味を知りたいとは思っています。
テレビなどではいろいろ放送されていますが、現地の惨状、目を蔽うばかりでした。
葉隠も五輪書と並べて書いていたことがありますが、平安な時期になって武士に求められる精神を書いたものと、常に生死の線上で書かれた五輪書とは、似たような内容なのに、表現も異なります。
それに、特にとは言いませんが、日本の社会では裏表の差が大きかった。
おまけに、武士道があまりにも有名になりすぎて、あそこに書かれている武士道が求められていたのは日本の歴史の中でほんの数百年の間だけだということをついつい忘れがち、