本エントリーは下記の続編です。
①「証言集」に見る新たな謎★教科書執筆者と体験者が初対面
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現地に一度も取材に行くことも無く伝聞のみで『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムスの大田良博記者。
その杜撰な取材手法について曽野綾子氏は自著『ある神話の背景』で次のように書いている。
「鉄の暴風」は、まだ戦傷いえぬ、昭和二十五年に沖縄タイムス社によって企画出版されたものであった。沖縄タイムス社自身が創立されたのは、昭和二十三年であった。
当時政府に勤めていた太田良博氏は、或る日、沖縄タイムス理事・豊平良顕(とよひらりょうけん)氏から、その手伝いをしないかと乞われたのであった。戦史を書こうなどということを思いつくのは、当時まだ新聞社くらいのものであった。そこには新聞人の使命感があった。
取材に歩くと言っても、太田氏が当時使えたのは、トラックを改造したものだけであった。バスさえもまだなかった時代である。
「そんな時に渡嘉敷島へは、どうしていらっしゃいました」
私は驚いて尋ねた。
「漁船でもお使いになりましたんですか? でも、漁船もろくにありませんでしたでしょう」
「いや、とても考えられませんでしたね。定期便もないし」
「どうしていらっしゃいました?」
「いや、向うから来てもらったんですよ」
「何に乗って来ておもらいになったんですか」
「何に乗ってきましたかねえ」
困難な時代であった。直接生きるために必要なもの以外のことに、既にこうして働き始めていた人があるということは、私には信じられないくらいであった。
太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。二人は、当時の座間味村の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起った事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。勿論、二人共、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった。しかし当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのがやっとだった。太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三か月で調べ、三か月で執筆したのである。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないと言う)
太田氏は、この戦記について、まことに、玄人らしい分析を試みている。太田氏によれば、この戦記は、当時の空気を繁栄しているという。当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。最近沖縄県史の編集をしている史料研究所あたりでは、又見方が違うと思うという。違うのはまちがいなのか自然なのか。
いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。
(「ある神話の背景」⇒改題「集団自決の真相」62、63、64頁)◇
これに対して大田氏は後に、両氏を那覇で《捕らえて》の取材ではなく、彼らが沖縄タイムスを訪問して渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について戦記に載せるよう頼んだのだと反論している。
<ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。>
(「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(2)」
しかし、いずれにせよ山城氏と宮平氏が沖縄タイムス大田記者の取材を受けたのは事実のようだ。
直接の経験者ではなかった二人が、渡嘉敷での「赤松大尉の暴状」を噂で聞いて、義憤に燃えて沖縄タイムスに調査を依頼し、それを記事にして欲しいと訴える気持ちは一応理解できる。
■座間味で何があったのかー元教頭の沈黙の謎■
だが、 ここでどうしても理解できない一つの謎につき当たる。
戦時中は南方にいた宮平氏はともかく、
山城氏は座間味島で集団自決を見聞きしており、後に言われるように梅澤隊長が「集団自決」を命令したり強制したりしていたとしたら、「渡嘉敷島の赤松大尉の暴状」という伝聞情報はさて置いても、
先ず自分が体験した「座間味島の梅澤少佐の暴状」を大田記者に訴えるべきではなかったのか。
しかも山城氏が大田記者に取材を受けた時、彼は座間味村の助役という公的な立場にあり、戦記を取材中の大田記者に立場上も「座間味で何があったのか」を報告すべきではなかったか。
山城氏は大田記者の取材を受けた昭和24年頃は座間味村助役だが、
その後沖縄日日新聞の編集長、そして昭和29年には沖縄朝日新聞取締役と一貫して沖縄のマスコミ畑を歩んでいる。
もう一つの謎は助役という公的立場から、マスコミという報道のプロに変わってもなお、かたくなに口をつぐみ続けたことである。
そして曽野綾子氏が『ある神話の背景』の取材をした昭和47年頃には沖縄テレビ社長の要職にまで上り詰めている。
山城氏は助役から新聞社、テレビ局と一貫してマスコミに従事しているのに、自分が体験した「座間味島の出来事」について一切語っていない。
自分では体験していない「渡嘉敷島の赤松大尉の暴状」は大田記者をわざわざ訪問して証言している事実と、自分の体験に対する「沈黙」との対比が不可解である。
山城氏と対照的な「集団自決」体験者が渡嘉敷島の金城重明氏である。
金城氏は「集団自決」で自分の家族に留まらず他人の親子にまで手をかけたが、本人は幸か不幸か生き残った。
「軍の命令だった」と責任転嫁し続けなければ彼は戦後生きていくことは出来なかった。
一方山城安次郎氏はその後も沈黙を守り続け死ぬまで体験を語ることはなかった。
言うまでもないが『潮だまりの魚たち』に登場する「参謀長」と呼ばれた元教頭先生は後の沖縄テレビ社長の山城安次郎氏である。
戦後しばらくして山城氏は元隊長梅澤裕氏を訪ねている。
「集団自決訴訟」が提訴される6年前の2000年頃、梅澤氏は山城元教頭について毎日新聞社の取材に次のように語っている。
「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)
ここでも軍人より軍人らしい民間人の姿が浮かび上がってくる。
住民たちは何かに追われるように次々と自らの命を断っていった。
彼らを死に追いやったの何だったのか。(続く)
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