集団自決の証言を検証する場合、証言者を縛る「呪縛」を斟酌しなければ事実の解明を誤ると述べた。
一方、マスコミ取材による「証言」という「呪縛」を離れ、
人の目に触れる機会の少ないミニコミ冊子などに寄稿された「証言者」の随想には、
「呪縛」を解き放たれた「証言者」の本音が語られている。
この随想に表れた富山氏の本音は、心ならずも不本意な証言をさせられ、真実を墓場に持ち込んだ富山氏の我々に対する「伝言」が含まれている。
読者の松五郎さんの言葉を借りつと、次のようになる。
≪氏の心中を察すれば、親しい共同体との折り合いを優先させたぎりぎりの選択であったのかも知れません。無責任なことを言い残したまま何も語らずに逝くより、後世の者に強いシグナルを遺してくれました。このシグナルには、沖縄タイムスを信用せずに「富山の口外した証言の信憑性」を疑いなさいよという強いメッセージを感じます。≫
戦時中、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた旧軍人たちが、慰霊祭等の参加の為、島を訪れて島の人々と親しく交流する話はよく聞くが、これが地元の新聞で報じられることはない。
地元紙が報じるイメージとは、島を訪問した(親兄弟を死に追いやった)「残虐非道の旧軍人たち」に対して、村人たちが「人殺し!」「帰れ!」といった怒声を浴びせるシーンであり、
このような「旧軍人VS遺族」という対立構図があってこそ報道価値がある。
「住民と旧軍人の親しげな交流」など、間違っても記事になる話ではないのだ。
京都国体を見学に行った座間味の老人会グループが、ついでに旧軍人を訪ねて旧交を温めた話は以前に書いた。
『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。
そこに写っているのは、憎みあっているはずの元軍人と渡嘉敷村民約70名の和やかな姿と笑顔である。
渡嘉敷の港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。(昭和59年撮影)
この「不都合な真実」を物語る記念写真はここで見れる。(写真は最後の部分)⇒ 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!Ⅱ
旧軍人と住民の暖かい交流を示す証拠写真である。
◇
富山眞順氏は、老人クラブ記念誌の他にも手記を寄稿している。
呪縛を解かれた富山氏の「伝言」を読み取ってみよう。
同手記は「続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係」で紹介したが,集団自決の翌日の富山氏と赤松隊長との関係を知る上で貴重な資料故、再度以下に引用する。
◇
富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」
渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行)から ※(29日)等()書きは挿入
略…元嘉豊丸組合当時の加工場は補助金により建築された建物で周囲はコンクリート流し込みで、屋根は赤瓦葺で頑丈な建物であったが今時大戦で鈴木部隊の食料米倉庫であったため白米を加工場一杯積み込んでいたのを米軍により食料と共に焼かれました。
私は村民玉砕の翌日(29日)、故赤松隊長の命令を受けて渡嘉敷港海岸の加工場に食料、特に白米を保管してあるから敵前線を突破して兵員200名を誘導して加工場にある白米を確保してこいと命じられた。赤松隊長は更に部隊の前方50m程度を隠密に先行してうまく誘導し成功させよと命令されたので夜の9時を期して出発した。誘導案内はイシッピ川の高淵までの命令であったので、そこへ来ると加工場の2ヶ所嘉豊丸、源三丸加工場は石炭火の如くお米が真っ赤に燃えている。記念運動場も飯盒炊事の後が燃えている。
イシッピ川の高淵に全員集まったところ私の命令はここまでだったから、ここから先は斥候兵の方と敵情調査に行きなさいと私が言うと、中隊長が「道が判らないから加工場まで誘導してくれ」と云うので将校斥候の方々を私が更に加工場まで案内した。
私達が加工場に到着した時米軍の大きな輸送船が港から出航していった。運動場は米兵の飯盒炊事の後が燃えているので油断がならず、敵に撃ち込まれる場合は騒がずに私について来れば絶対弾に当たることはないからと指示をしました。私の考えは撃ち込まれたらイシッピの河川づたいに戻るつもりでした。ところで神祐丸加工場はダイナマイトで爆破されて、ここにはカンメンポ食料が納められて、食えるカンメンポが散乱しているので私が集めていたら、将校斥候長の方が敵襲と言うので、運動場をすかして見ると村中の和牛が鼻綱を切って運動場にかけ込んでいた。当時、村の繁殖牛は百頭以上に繁殖していた。私の家には父が飼育している和牛が3頭もいました。
米兵隊と思ったら牛でしたので安心したのか「あなたはここに休んでおけ、私達は内を捜索して来るから」と云うので休んでいると、甘い臭いが漂うので手さぐりをするとカルピス瓶をつかまえた。あたりには米軍の非常食や煙草、お菓子等があったので背負袋に詰めた。すき腹にカルピスの原液を飲んだ甘さは生涯忘れません。
暫く休んでから、斥候長が私に「何か要望はないか」と問われたので「あります」といって、村民玉砕で乳飲み子の母親が戦死して、空腹で泣く子供達が居るので農協の倉庫に粉ミルクがあるだろうから運搬を協力してほしいと要望した。部隊の200名を呼んで粉ミルクを担ぎに行きました。ところがそこには粉ミルクどころか何一つなく、部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。
赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。…以下省略
◇
この手記(随想)が書かれた平成5年(1993年)は、「富山証言」(1990年)の三年後であるが、
「富山証言」の1年前に書かれた手記(随想)と同じように「自決を命じた旧軍人への憎悪」は少しも感じ取ることは出来ない。
いや、むしろ「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出し、自決が実行された日(29日)の翌日(30日)にしては、この手記でも富山氏と赤松隊長との関係はいたって良好のようである。
後に(戦後45年経って)「富山証言」(手榴弾による自決命令説)をする関係とは到底信じることは出来ない。
やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。
なお後に吉川に改姓した役場職員は、沖縄タイムスのインタビューに答えて「耳打ち」するのを聞いて、「それが軍命だった」と細木数子もビックリの証言するのだから、富山証言もまだカワイイ部類に入るのかも知れない。
吉川勇助証言⇒(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」
爆音の中で、耳打ちするのを傍で目撃し、(勿論、本人は聞こえない)それを「軍命だった」と言い当てるのだから、細木先生もビックリでしょう。
なお、戦後語り部として「軍命」を主張している吉川嘉勝氏は吉川勇氏の実弟。⇒(13)母「生きよう」脳裏に鮮明
更にこの二人の証言を取材した沖縄タイムスの謝花直美記者は、元渡嘉敷中学校長の吉川嘉勝氏の教え子であるというから、「軍命あり派」の人脈は濃密に繋がっている。
【おまけ】
原告準備書面(4)全文2006年9月1日
3 手榴弾配布=軍命令説の破綻
渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠は、詰まるところ、米軍上陸前の8月20日に手榴弾が配布されたという富山真順の証言に尽きるようである。
富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。
被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。
同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。
米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。
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