沖縄戦で、圧倒的物量をほこる米軍は、その戦力の余裕から数多くの報道班を配備した。
彼らが撮影した多くのフィルムは冷徹に戦争の実像を記録をした。
だが、後世これらを見た沖縄の「識者」たちはそれを基に数多くの神話を捏造した。
イデオロギーまみれの「平和教育」のために。
白旗の少女の写真を知る者は多いが、「平和教育」のために作られた少女にまつわる神話の背景を知る者は少ない。
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米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。
その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。
うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!
白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。1986年公開の米軍撮影記録フィルム「沖縄戦・未来への証言」の中の笑顔が県民の印象に残った。少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。 手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)
後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影したという。 以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。 白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。 白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』というタイトルの本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。 白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。 「平和教育」のため、沖縄の「識者」の予断により歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿に衝撃を受けたのである。 米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは結構なことだが、それを扱う「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される例は多い。 例えば子供用の絵本として出版されたの『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』(文・新川明、版画・儀間比呂志)には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)では、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争うクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。 <兵隊たちがいいあらそいをはじめました。 「おとなしく出れば殺さないはずだよ」 「では、だれがさいしょに出るのか」 「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」 ほかの人たちもいいあらそっています。 「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」 りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと 隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。 「ためしに子どもをさきに出してみよう!」 ゆっくりと目をあけると すきとおるひかりのむこうに アメリカ兵のすがたがみえました。 戦車のかげで鉄砲をかまえたまま 白い歯をみせてわらっています。
ふりかえると、日本兵たちが 両手をあげてついてきました。 おじいさんや女の人も よろよとつづいていました。 そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。>
同書の「あとがき」には次のようなことが書かれている。 日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。 また、版画による絵を担当した儀間比呂志氏は沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は大きなインパクトを与えた。 絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾にその後ろから、米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。 で、実際はどうであったのか。 記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。 それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。
1985年、沖縄の「識者」たちによる『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。 それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。 そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。 その本の後書きには、当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していた比嘉が、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。 <・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。 比嘉富子さん、よくぞ生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。 不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られたであろう。 ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されないが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」が定着していたであろう。 記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。 だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。
では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。 否、相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。 これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。
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