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本日(29日)午後1時10分、福岡高裁那覇支部に於いて、「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の高裁判決が下されます。
判決後の記者会見は、午後2時10分、県庁記者クラブに於いて行われます。
当初予定しておりました報告会は、午後3時に変更させて頂きます。
会場は、奥武山護国神社社務所2階会議室で御座います。
ご出席頂けますようご案内申し上げます。
お問合せ 090‐9780―7272 ニシコリまで
映画「終戦のエンペラー」 トミー・リー・ジョーンズ、マ元帥に魅了され
■復興へ奮闘
終戦直後の日本を舞台に、日本人の精神性を描いた物語がハリウッド映画になった。27日に全国公開される「終戦のエンペラー」(ピーター・ウェーバー監督)は、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥から真の戦争責任者を探すよう命じられた米国人准将の活躍を中心に、壮大な歴史秘話がつづられる。来日したマッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズ(66)は「マッカーサーが戦後の日本の復興のために奮闘した姿にひかれた」と、この作品の魅力を語った。(藤井克郎)
ジョーンズの取材は、マッカーサーが昭和天皇と対面し、有名な写真が撮られた東京都港区のアメリカ大使館で行われた。映画にも描かれた歴史的な空間について、「とても居心地のいい場所だね」と話す。
日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が戦争責任者を訴追する中、真の責任者を探すよう命じられたボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)が日本の政治家や皇室関係者らと接触しながら困難な任務を遂行していく。フェラーズは実在の人物だが、歴史秘話と並行して日本人女性との恋模様も描かれており、がれきだらけの東京を再現した映像などとともに見応えのある大作になっている。日本人役では初音映莉子(31)、西田敏行(65)、桃井かおり(62)らが出演している。
日本の文化、とりわけ日本人の精神性や天皇に対する特別な感覚にまで踏み込んでおり、会見に出席した西田は「アメリカの方が書いた脚本なのに、なんて日本人の心をぐっとつかんでくれたんだとの思いが強かった」と驚いたほど。缶コーヒーのCMに出演し、以前から日本文化には造詣の深いジョーンズは「マッカーサーも日本文化の重要性は分かっていた。もし京都が空襲で焼け野原になっていたり、天皇を裁判にかけようとしたりしていたら、日本社会は崩壊してしまっていただろう。私も日本の文化は貴重なものだと考えている」と言う。
この映画はもともと、「ラストサムライ」(2003年)などでキャスティングディレクターを務めたプロデューサーの奈良橋陽子さん(66)の企画から生まれた。知己を頼ってハリウッドで活躍するスタッフが集結、撮影前に徹底した調査が重ねられ、日本文化の神髄に触れる作品に仕上がった。「現在も世界各地で紛争が絶えないが、交戦国同士の文化的な理解が十分でないからテロへとつながっていく。最初に文化交流があれば理解になる。それが今の日米の友好関係に結びついている」と奈良橋さんは強調する。
「マッカーサーが日本を理解しようと尽力した部分が、この映画ではよく描かれている」と指摘するジョーンズも、奈良橋さんの考えに同調する。「文化の違いを乗り越えることで得られるものは大きい」とうなずいた。
☆
「終戦のエンペラー」を見た。
主人公のフェラーズ准将の日本人の恋人探しを重点を置いて、若い観客の獲得を狙ったようだが、観客のほとんどは中高年であり、ラブロマンの要素よりも、史実の解明に重点を置いたほうが作品に更なる重みをを与えたという感じた。(歳のせいなのか)
したがって元恋人の親戚夫婦として登場する芸達者の西田敏行や桃井かおりの熱演が、空回りしていた。
従来のハリウッド製戦争映画に見られるような「大日本帝国は世界侵略を狙う悪の帝国」といった決め付けがなく、中村雅俊扮する近衛文麿に「東京裁判」の批判をさせてみたり、昭和天皇の描き方にも一定の配慮が見られた。
特に正装の昭和天皇がマッカーサーを訪問し、ラフな普段着のマッカーサーに対し、『すべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたに代表する諸国の裁決に委ねるためおたずねした』(マッカーサー回想記)と、たどたどしい英語で話すシーンには、連れ合い共々も思わず涙した。
この映画は、敵国である米国製の映画にしては、以前に見た「パールハーバー」のように日本人対する偏見は抑えた表現に徹しており、少なくとも最近の沖縄2紙のように、日本軍に対する憎悪を煽るような表現は見られなかったのは、救いである。(⇒フライング・タイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」)
戦後間もなく米軍に占領され外交権も剥奪された日本で、昭和天皇が独自の外交を行った。
歴史の事実はこうだ。
昭和20年(1945年)9月27日敗戦直後、第一回目の昭和天皇とGHQマッカーサー司令官の会見が行われた。
場所は赤坂の米大使館。
藤田侍従長、石渡宮相、フェラーズ准将らは隣室で控え、会見に立ち会ったのは通訳をつとめた奥村勝蔵外務参事官だけで37分つづいた。(映画ではフェラーズ准将がドアの隙間から昭和天皇の「自分が全責任を負う」というお言葉を聞いたという設定になっている)。
マッカーサーは当初、昭和天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう懇願するのではないかと予想していた。
だが、昭和天皇の口からは全く予想外の言葉が飛び出してきた。
同行した侍従長の回想ではこうなっている。
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委ねする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
奥村通訳の会見録には上記の責任発言が記載されていない。 東京裁判を控えて発言の重要性から削除したようである。
マッカーサーは、昭和天皇が別の会見で皇室財産を差し出すので食糧を緊急輸入して国民を飢餓から救ってくれと申し出たのを聞き「私は初めて神のごとき帝王を見た」と感動している。
欧米の歴史から考えると王や皇帝などは私服を肥やすものと相場が決まっており、特に敗戦時の国王、皇帝などは先ず財産を持って他国へ亡命するか、さもなくば命乞いをするのが相場と考えていた。 マッカーサーが感動したのも無理もないことである。
昭和天皇が大使館に到着したとき、迎えに出なかったマッカーサーは、会談が終わると昭和天皇をお見送りした。
その時のマッカーサーの様子を側近のフォービアン・バワーズは「我々が玄関のホールに戻った時、元帥ははた目にみてもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた」と証言している。
この映画製作される6年前、同じ題材を書いたメルマガがあるので、それを紹介する。
人物探訪: 昭和天皇を護った二人のキリスト者(上)
占領軍司令部の中でフェラーズはただ一人、昭和天皇
を戦犯裁判から護らねばならないと考えていた。
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■1.「ミチ・カワイという女性を探して欲しい」■
昭和20(1945)年8月30日、厚木飛行場に着陸した飛行機
から、マッカーサーがコーンパイプをくわえてタラップを降り
た。続く幕僚たちの中に49歳のボナー・フェラーズ准将がい
た。
一行は車を連ねて横浜のホテル・ニューグランドに投宿した。
フェラーズはさっそくホテル側に、「東京にいるミチ・カワイ
という女性を探して欲しい」と頼んだ。すると意外なことに、
支配人の中山武夫が「ミチ・カワイ」を知っているという。中
山は以前、商社の米国駐在員としてニューヨークに長く暮らし
たことがあり、その英語力を買われて、占領軍の応接役のマネ
ジャーとして雇われ、今日が出社初日だった。
不思議な縁に驚きながら「ミチ・カワイとはどういう知り合
いかね」とフェラーズが尋ねると、中山は「十年ほど前に河井
先生がニューヨークで講演をなさった時に、私の女房がお世話
をさせていただきました」と答えた。河井は無事で、恵泉女学
園を経営しているという。
フェラーズが早速、手紙を河井あてに届けさせたのは9月3
日。この日はちょうど恵泉女学園の2学期の始業式で、河井は
学校にいた。まるで天が後押ししているようなとんとん拍子で
ある。河井はすぐに英文の返事をよこした。
あの恐ろしい戦争の日々、私たちは何度、あなたのこと
をうわさし合ったことでしょう。あなたがご無事でご活躍
の様子を知って、こんなに嬉しいことはありません。
あなたにお目にかかりたいのはやまやまですが、お願い
ですから、いましばらく私たちに会いに来ないでください。
私たちはいまは、ただただ疲れきって、たとえお目にかかっ
ても、あなたを喜ばせるような姿をお見せできません。
[1,p11]
■2.「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」■
しかし、フェラーズにとっては、そんな悠長な事を言っては
いられなかった。やがて始まるであろう戦犯裁判で、彼は昭和
天皇を護らねばならないと考えていたからだ。それは極めて困
難な仕事だった。
アメリカのある世論調査では、天皇を死刑にすべきだという
意見が33%を占め、それを含めて70%が何らかの処分を求
めていた。さらにオーストラリアとソ連が強く天皇訴追を主張
していた。マッカーサー司令部の中でも、フェラーズ以外の全
員が天皇を起訴すべきだと考えていた。
その中で、ただ一人、フェラーズは「天皇裕仁はルーズベル
ト以上の戦争犯罪人ではない」と信じていた。家族への手紙で
は、こう書いたこともある。
きょうまで私はルーズベルト大統領がアメリカ国民を戦
争に巻き込まないように努力した行動をひとつも見いだす
ことができない。そうではなくて逆にあらゆる施策がまっ
すぐ戦争に向けてリードされた。[1,p195]
これは当時の共和党系の人びとの共通認識だったと言える。
[a,b,c]
しかし、フェラーズはさらに天皇と日本国民の関係について
深い洞察を持っており、そこから日本のためにも、またアメリ
カのためにも天皇を戦争犯罪者として裁くようなことがあって
はならない、と考えていた。そのために協力してくれる日本人
として河井道を探していたのである。
■3.「教育とはまずよき人間になるために学ぶことです」■
河井道とボナー・フェラーズが初めて会ったのは、大正11
(1922)年4月、東京においてであった。河井は44歳、フェラ
ーズは26歳。陸軍中尉だったフェラーズは、赴任地のマニラ
から休暇を利用して、初めて日本を訪れたのだった。
おりしも桜が満開で、「日本は魅惑的で美しい。神秘に満ち
た心温まる国だ」とフェラーズは記している。そこで出会った
何人かの日本人の一人に河井道がいた。「ミチ・カワイは傑出
している」というのが、彼の印象だった。
明治24(1891)年、14歳の河井道は札幌のミッションスク
ール、スミス塾の5年生だった年に、隣接する札幌農学校(現
在の北海道大学)の教授を務めていた新渡戸稲造が出張授業に
来るようになった。やがて河井は毎週土曜日の夜に新渡戸の自
宅に食事に呼ばれ、その後、新渡戸が英語で口述する日記を筆
記するようになった。河井は新渡戸を終世の師と仰ぐ。新渡戸
はよくこう説いた。
あなた方は良妻賢母となる前に、一人のよい人間となら
なければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶこ
とです。[1,p40]
明治31(1898)年、病気療養のために妻の故国・米国に渡る
新渡戸に同道する形で、21歳の河井はアメリカに渡り、奨学
金を得て、ブリンマー女子大に学んだ。帰国後、女子英学塾
(現在の津田塾大学)の教授となり、英語、歴史、購読を受け
持った。同時に、日本YWCAの設立に奔走し、初代総幹事と
なった。その関係で、32歳から1年半も欧米を回った。
こうして当時の日本人女性としては異例の経歴と行動力を持っ
た河井に、フェラーズは出会ったのである。「ミチ・カワイは
傑出している」と思ったのも当然である。
■4.ラフカディオ・ハーンに導かれて■
日本に魅惑され、もっと理解を深めたいと思ったフェラーズ
は、ラフカディオ・ハーン[d]の著作を見つけた。その後、数
年で「ハーンの本はすべて読んだ」というほど魅了された。フェ
ラーズは日本を再訪した際には、ハーンの未亡人を訪れ、遺児
の面倒まで見るようになる。
フェラーズは後にアメリカ陸軍きっての日本通となり、各種
の論文や報告書を書くが、その一つ、対日戦のテキストとして
広く読まれた「日本兵の心理」ではおおよそ次のように述べて
いる。まさにハーンの日本観に基づいた見解である。
日本人は祖先は神であると考える。死者に対する尊敬や
親に対する孝道が日本人の特色である。
欧米では天皇は現人神としてゴッド・エンペラーなどと訳さ
れおり、「人間をゴッドのように崇める狂信」として反感や警
戒心を与えていた。フェラーズは「ゴッド」と日本の「カミ」
とは違うことに気がついていた。そこから天皇についても、こ
う理解した。
天皇は権威の象徴である。明治時代以前は天皇は実際に
は国を治めていなかった。最強の武家が天皇の上にいて国
を統治していた。各武家は天皇を自らの味方につけようと
戦った。だがたとえどの武家が天皇を味方につけようとも、
国民が最大の敬意を払うのは天皇であり、天皇以上に国民
から愛着を持たれる者はこの国には存在しない。[1,p49]
太平洋戦争中、フェラーズは対日心理作戦の責任者となる。
そして日本国民に空からビラを撒く作戦を展開するが、そのビ
ラの一つにはこんな文句があった。
今日4月29日は御目出度い天長節であります。・・・
戦争の責任者である軍首脳者はこの陛下の御誕生日の日に
戦捷(せんしょう、戦勝)を御報告申し上げる事も出来ず、
むしろ自身の無能の暴露を恐れてゐるのでせう。軍首脳部
は果たして何時まで陛下を欺(あざむ)き奉る事が出来る
でせうか。[1,p144]
国民の天皇への敬意を尊重しつつ、軍首脳部を攻撃するビラ
は、その戦意を挫く上で多大の効果があった、と東条英機・首
相も認めている。
■5.日米戦争を避けるために■
河井は昭和4(1929)年4月に恵泉女学園を創設した。米国留
学までした河井は当時の女性としては傑出した存在だったが、
「女が少しばかり学問に励んだからといって家事ができないな
どというのは恥です」と、学生寮では炊事、洗濯からトイレ掃
除、風呂焚きまで教えた。教室の窓ガラスを生徒と一緒にせっ
せと磨き、雑巾を拭いた後が残ると見苦しいと叱って、やり直
しを命じた。
第一期生を送り出した昭和9(1934)年4月7日、一通の手紙
がアメリカから届いた。アメリカ・キリスト教連合婦人会から、
「私たちの国の戦争の風説に反対するために、あなたのメッセ
ージが必要です」との講演の依頼だった。アメリカでの日系移
民排斥や日本の満洲事変をきっかけに、日米関係は険悪になり
つつあった。
師の新渡戸稲造は2年前に渡米して、全米で約百回の講演を
こなした。昭和天皇からもじきじきに、両国の和解に骨折って
貰いたい、とも依頼された。新渡戸は知人にこう語っている。
本当に陛下は御立派な方だよ。私心なんかこれほどもお
ありにならない。そういう陛下を戴いている日本は本当に
幸せなんだ。[1,p100]
しかし、新渡戸は前年の昭和8年10月にカナダのビクトリ
アで客死していた。師の志を継ぐべく、河井は8月から12月
までの4ヶ月間で全米60余の都市を回り、約2百回の講演を
行った。この際に、ニューヨークで世話をしたのが、冒頭、横
浜のホテル・ニューグランド支配人の中山武夫夫妻だった。
カンザス市ではエリート養成学校・陸軍指揮幕僚大学に学ん
でいたフェラーズが河井を迎え、二人は時の過ぎるのを忘れて
語り合った。河井はこの時のフェラーズの態度を「実に公平な
議論をして、自国の反省すべき点」を語り、日本兵士の忠誠に
敬意を表した、と回想している。
「公平な議論」とは、ルーズベルト大統領が大恐慌以来の経済
的危機を避けるために、さまざまな挑発をしかけている、とい
うフェラーズの認識である。
■6.皇室への敬愛■
戦争が始まると、河井はよく生徒たちに「この戦争は間違っ
ている」と語り、憲兵隊に呼び出された事もあった。軍や文部
省から御真影(両陛下のお写真)を校内に掲げるよう要請があっ
たが、「校舎があまりにお粗末すぎて、大切なお写真をお預か
りするにふさわしい部屋も安全な場所もありません」と、言葉
巧みに逃げた。
しかし宮城遙拝では、頭を上げるのが早い、と生徒たちを叱っ
たりしている。キリスト教徒として、天皇をゴッドのように礼
拝はしないが、国民としての心からの敬意は払う、というのが、
河井の立場だった。
終戦の日に玉音放送を聞いた時の思いを、後にこう自伝に書
いている。
この未曾有の国家的危機に際して、・・・「大道を誤り、
信義を世界に失う如き」を戒めよという天皇の父親らしい
戒めに対して、国民は孝心を明らかにして従順に従ったの
であった。天皇に対する代々の忠誠心は、塵や埃のように
一吹の風にあえなく散ってしまいはしない。[1,p179]
■7.「私がいの一番に死にます」■
7百万の日本兵が降伏したなんて、まるで奇跡のようだ。
日本を占領するために、どれだけの日米の兵士、民間人の
命が犠牲になったか考えてみて欲しい。[1,p209]
と、フェラーズは家族への手紙に書いているが、天皇の玉音放
送で7百万の将兵がただちに矛を収め、整然と武装解除されつ
つある姿を見て[e]、フェラーズは「国民が最大の敬意を払う
のは天皇」という自分の洞察が正しいという確信を深めた。
9月11日、東条英機ら39人が逮捕された。天皇を護るた
めに早く手を打たねばならない。9月23日、来日3週間目に
ようやくフェラーズは河井道と再会できた。
「仮にの話ですが、もし天皇を処刑するということになったら、
あなたはどう思いますか」と聞くフェラーズに、河井は答えた。
日本人はそのような事態を決して受け入れないでしょう。
もし陛下の身にそういうことが起これば、私がいの一番に
死にます。・・・もし、陛下が殺されるようなことがあっ
たら、血なまぐさい反乱が起きるに違いありません。
フェラーズは、玉音放送後の整然たる降伏と武装解除を目の
当たりにし、さらにこの河井の言葉を聞いて、腹を固めた。も
し天皇を処刑したら、日本国内は血なまぐさい反乱で収拾がつ
かなくなる。占領統治を円滑に進める最善の方法は、天皇を罰
することではなく、逆にその力を借りることである。
フェラーズは、マッカーサーに天皇の処遇に関する意見書を
早急にまとめるので、ぜひ力を貸して欲しい、と河井に頼んだ。
■8.「陛下にお目にかかれて光栄です」■
4日後、その天皇の姿がフェラーズの目の前にあった。9月
27日午前10時、昭和天皇が米国大使館にマッカーサーを訪
ねたのだった。出迎えたフェラーズに、天皇はトップハットを
とり、日本語で「お会いできてうれしい」と挨拶しながら軽く
お辞儀をして、手を差し出した。フェラーズは天皇の手を握り、
英語で「陛下にお目にかかれて光栄です」と答えた。
後のマッカーサーの証言では、この会見で昭和天皇は「戦争
の全責任をとる」と発言して、彼の心を揺すぶった[e]。天皇
は深く覚悟されて会見に臨まれたのだが、アメリカ大使館で最
初に出迎えたフェラーズの応対は、そのお気持ちをなごませた。
天皇は後にフェラーズに次のようなお言葉を伝えられている。
あなたが温かく迎えてくださったときから、私はマッカ
ーサー元帥との関係がうまくいくだろうと思いました。
昭和天皇は、この「温かく迎えた」相手がアメリカ陸軍きっ
ての親日家、知日家である事など予想だにされなかっただろう。
まして、彼が天皇ご自身を戦犯裁判から救わねばならないとの
覚悟を内心に秘めていたとは。
(文責:伊勢雅臣)
『パンドラ訴訟』の高裁判決は、7月29日に下されます。
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