我那覇真子の現地報告、米大統領選
【追記】マスコミ
あの火砕流は市が出した避難勧告の地域で止まった。
マスコミ取材陣は避難勧告を無視するばかりか近隣の民家の設備を勝手に使用する暴虐ぶりだった。
その取材陣を監視するために警察官や地元の消防団が見回りについていた
大勢の消防団の犠牲はマスコミが押しかけ、留守の家に侵入し食べ物を漁ったり、電話を使ったり、盗電したりとパトロールする必要があった。
- 糾弾されるべきマスコミは他者の批判は鋭くても身内には甘い。
- 身内に甘い報道姿勢は、昨今の「給付金詐欺」を元社員が犯した沖縄タイムスの実名報道を拒否でも証明されている。
きょう雲仙・普賢岳噴火30年 火口近くに駆け付けた元消防署員 坂本梓さん 学んで危険性共有を
11/17(火) 12:06配信
長崎新聞
坂本さんが撮影した九十九島火口から噴煙を上げる普賢岳=1990年11月17日午前、普賢神社付近(坂本さん提供)
44人の犠牲者を出し、終息宣言まで約5年半に及んだ雲仙・普賢岳噴火災害。1990年11月、198年ぶりに普賢岳が噴煙を上げて17日で30年になった。島原地域広域市町村圏組合消防本部の元消防職員、坂本梓さん(87)=島原市有明町=はあの日、現場確認のため噴煙を上げる普賢岳の火口近くまで駆け付けた。その後も、91年6月3日の大火砕流惨事、同9月15日の旧大野木場小焼失では、警戒活動や現場確認に従事するなど噴火災害を間近で見続けた数少ない1人。発生当時を振り返り、「災害は体験しないと分からない。だからこそ、用語や現象を学び危険性を共有することが大切」と訴える。
噴火当日、島原消防署に現場責任者の当務隊長として勤務していた明け方、「雲仙岳で山火事」という119番通報が相次いだ。場所を調べると管外の雲仙区域。出動は見送りとなったが、午前8時ごろ、観測機関からの一報で噴火を確知した。
「島原にも影響があるかもしれない。消防署員として現場を確認する必要がある」との思いもあり、非番となる同8時半を待ち、部下と2人で仁田峠に向かった。麓の深江町辺りで、晴れ渡った冬の空に立ち上る煙が見えた。
仁田峠からは登山道に入り、1時間ほど歩いて山頂付近にあった当時の普賢神社に到着した。最初の噴火口となった二つの火口から立ち上る噴煙を間近で視認。約100メートル先には、地面が裂け白っぽい噴気とともに土砂が噴出する地獄跡火口が見下ろせた。恐る恐る近づくと「ジュクジュク」という音が聞こえ、硫黄の臭いも漂っていた。
同神社から約200メートル先には九十九島火口。煙が真っすぐ縦に上がる様子に、「このままなら安中、深江方面が危ない」と普賢岳東側斜面に位置する火口の場所を見て感じた。現場に滞在した半時間、写真4、5枚と8~9分間のビデオを撮影。噴火後に入山が制限された山頂付近を記録した貴重な資料となった。
下山後、「現場の映像を見たい」と鐘ケ江管一元島原市長から連絡を受け、ビデオを届けた。また、島原消防署長らに状況を報告。「もし噴火で(溶岩が)流れるなら安中地区」とも伝えた、と当日の慌ただしかった1日を振り返った。
「煙で人が焼けるとは」 火砕流の脅威 知る大切さ強調
「写真や映像を撮ったことで市長や関係機関幹部が情報共有できた。だが今はもう見たくない」。坂本さんは噴火災害の大規模火砕流発生時、それぞれの現場で業務に従事し、被災地の惨状を目の当たりにし続けた心境を吐露する。
坂本さんは1991年4月、布津出張所(当時)に異動。43人が犠牲となった同6月3日の大火砕流惨事発生時には、報道陣が撮影ポイントにしていた島原市北上木場地区の「定点」付近で水無川の警戒活動に従事していた。大きな音を聞いた午後4時すぎ、自宅を心配して同地区に戻っていた住民数人をポンプ車に押し込み、迫る火砕流から深江側に間一髪で逃れた。
「大野木場小まで来たら安心」。そう思ったのも束の間、ぼろぼろの服に足元ははだし、全身血だらけでひどいやけどを負った男性が島原側からやって来る姿が目に入った。すぐに救急を要請し搬送。後日、助かったと聞き安堵(あんど)したのを覚えている。「煙で人間が焼けるとは知らなかった。これは大変なことになった」と、この時が坂本さんが火砕流の脅威を目の当たりにした瞬間となった。
同9月15日、坂本さんは常駐していた当時の深江町役場2階から流下する火砕流を見ていた。その場にいた消防団員の一人が「うちも燃えよる」とささやいたのを覚えている。「なんで燃えているのかとの思いもあったが、改めて火砕流が火だと感じたのはその時」と話す。
夜明けとともに校舎が焼失した直後の旧大野木場小に出向くと、校庭や周辺の道路には、10センチほど灰が堆積。まだ燃えている家の前で、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす住民とおぼしき2、3人の姿もあった。「声を掛けることができなかった。火を消す手段がなく、ただ眺めるしかできず消防隊員として忸怩(じくじ)たる思いだった」と当時感じた悔しさをあらわにする。
30年の時が流れ、当時を知らない世代が徐々に増えている。一方で、全国各地では未曾有の大規模災害が頻発。噴火災害を現場で体験し続けた坂本さんは「当時の対応を知り、災害の脅威を改めて認識してもらわないといけない」と強調した。
普賢岳火砕流で消防団員や警察官やマスコミ関係者が死んだ「定点」は、避難勧告がでていた。
危険地域であることを示すため、公的機関の観測員、消防団員も勧告地域から撤退していた。しかし、マスコミ関係者は、強制力がないことから、雇い挙げたタクシーとともに避難勧告地域内の「定点」に詰めていた。
そんな中、避難して無人の住民の家に無断で上がり込み、電気、電話を無断使用する事件が 起こった。
いったん避難勧告区域外に撤退していた地元消防団は、ふたたび避難勧告地域内に入り、見回りを始めていた。
これらのマスコミ関係者、タクシー運転手、消防団員、許可を得て中に入っていた地元住民が火砕流に巻き込まれ死んだ。消防団員以外の地元犠牲者はたしか5名。それ以外が約35名。
避難勧告地域の境界で検問をやっていた警察官2名は、火砕流発生の連絡を聞き、中の人たちに知らせるために勧告地域内に入り、殉職した。
火砕流の到達範囲は、まさに避難勧告地域内におさまっていた。
避難勧告をマスコミが守ってさえいれば、死者数ははるかに少なくて済んだ
あの現場には、新婚の団員や、子供が生まれたばかりの団員や、もうすぐ結婚するはずだった団員や、親の介護してた団員がいた。
犠牲になった消防団員、警察官らは横暴なマスコミ関係者の犠牲になった。
しかし、マスコミはそんなこと一つも報道しない。
もう一度言うが、消防団員達はそこに居たくて居たんじゃない。
★
普賢岳噴火伝える火、消えたまま 「灯し続ける」島原市碑文消去 17日で30年
11/17(火) 6:30配信
毎日新聞
火が消えたままのモニュメント「平成新山の火」。碑の説明文も消されている=長崎県島原市で2020年11月15日午前11時16分、今野悠貴撮影
長崎県の雲仙・普賢岳が198年ぶりに噴火して17日で30年となった。島原半島には当時の噴火災害の教訓を伝える碑が残されているが、一部は壊れたり忘れられたりして防災に生かされていないのが実情だ。自然災害を伝える碑は全国各地にあるが、適切に管理されていないケースも多い。専門家は「災害の風化を防ぐためにも碑を大切にし、地域の防災意識を高めるべきだ」と指摘する。
【平成の災害の記憶】雲仙・普賢岳の大規模火砕流
普賢岳は1990年11月17日に噴火。翌91年6月3日に大火砕流が発生し、消防団員ら43人の死者・行方不明者が出た。その前後にも土石流や火砕流が頻発し、建物被害は2511棟、被害総額は2299億円に及んだ。11月17日の噴火は、96年6月3日に終息宣言が出されるまでの5年半に及ぶ長期災害の引き金になった。
普賢岳の東側に位置し、大きな被害を受けた同県島原市は97年8月、噴火災害を後世に伝えようと、市中心部にモニュメント「平成新山の火」を設置した。普賢岳の溶岩ドームから採火し、復興のシンボルとしてランプに火をともし続けてきたが2018年10月、台風24号の通過後に火が消えていることが判明。市役所旧庁舎で保管していた種火は17年に始まった市庁舎建て替え工事に伴い消されており、再びともすことはできなかった。
碑には「未来を照らす炬火(きょか)として ここに灯(とも)し続ける」などと刻まれていたが、火が消えたため市は碑文を消去。現在は火の消えたランプを囲む溶岩塊だけが残っており、何の碑なのか分からない状態になっている。
◇他の碑も乏しい認識
市内には、大火砕流で犠牲になった消防団員を追悼するため雲仙岳災害記念館の隣接地に設置した殉職者慰霊碑など、他にも噴火災害を伝える碑があるが、日常的に訪れる人はいない。報道関係者らが犠牲となった「定点」付近にあるモニュメントも広く認識されているとは言えない。
一方で200年以上前の噴火災害を伝える碑を大切に守り続けている人たちもいる。島原半島では江戸時代の1792年、普賢岳の隣の眉山(まゆやま)が地震で崩れ、膨大な土砂が有明海に流れ込み大津波が発生。「島原大変」と呼ばれ、死者は島原半島と肥後・天草地方合わせて約1万5000人に及んだ。
「平成新山の火」から約500メートル離れた島原市中堀町には、「島原大変」の津波などで犠牲になった105人の名前を刻んだ慰霊碑があり、町内会が大切に保管している。1981年からは毎年、供養祭を開き、普賢岳災害の犠牲者の冥福も祈ってきた。中堀町の町内会長、隈部政博さん(78)は「大昔のことだが、ここまで津波が来たことを伝える大切な碑だ」と話す。
18年の西日本豪雨で15人が犠牲になった広島県坂町(さかちょう)の小屋浦地区には、1907年に44人が亡くなった豪雨災害を伝承する石碑があったが、漢文で書かれていたため住民に十分に周知されていなかった。国土地理院は近年相次ぐ自然災害を受け、19年に災害の記録や教訓を刻んだ石碑、供養塔などを「自然災害伝承碑」として指定する制度を作り、新たに地図記号も制定した。その土地にどんな災害リスクがあるのか知り、防災意識を高めてもらうのが狙いで、島原市の11基を含む全国205市区町村の計646基が登録されている。
◇「記憶をつなぐため、適切管理を」
ただ、伝承碑の現地調査を続ける香川大の松尾裕治客員教授(災害伝承)によると、担当部署の連携不足から制度が共有されない自治体も多く、全国には登録されていない碑が他にも数千はある。松尾客員教授は「災害の記憶をつなぐために碑は重要。行政は積極的に碑を掘り起こし、適切に管理すべきだ。学校で地図記号を教える際に地元の自然災害伝承碑に触れるなどすれば、ハザードマップを真剣に見るようになるはずだ」と話している。【今野悠貴】
★
過去ブロブマスコミが報じない「雲仙・普賢岳噴火災害の真相2007-06-06の再掲です。
死者・行方不明者43人を出した長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流から16年を迎えた3日、被災地の島原市では火砕流発生時刻の午後4時8分に市内にサイレンが鳴り響いた。
消防団員らが亡くなった同市北上木場町の北上木場農業研修所跡では、遺族らが「慰霊之鐘」を打ち鳴らし、犠牲者を悼んだ。
同市平成町の雲仙岳災害記念館前では、災害を次世代に伝えようと、島原商工会議所青年部などが初めて企画した「いのりの灯(ともしび)」があり、小学生らが手作りのキャンドル約1000本に灯をともした。
火砕流では、読売新聞大阪本社写真部員だった田井中次一さん(当時53歳)ら報道関係者や警戒に当たっていた消防団員らが犠牲になった。
◇
◆教訓を伝える大切さを感じているのはマスコミも同じ。大火砕流で同僚三人を亡くしたテレビ長崎(KTN)報道部の槌田禎子記者(49)は、噴火災害を取材し今も被災地を見詰め続ける一人として使命感を代弁した。
「取材競争の過熱や日々のプレッシャーからマスコミは節度を保てず行動し、被災住民らに迷惑をかけた。私たちは犠牲者のことを胸に刻み、被災地がどう再生していくか継続して取り上げていく必要がある」
2006年6月2日長崎新聞掲載
長年テレビの報道カメラマンを務めた友人はカメラを構えると恐怖感は薄らぐと証言している。
「カメラのファインダーを通してみると普段は恐ろしい暴力団にも不思議と危険を感じなくなる」。
暴力団も報道カメラを向けられると、多少は怯んでしまうのだろう。
だが、自然の猛威にとってはカメラマンもクソもない。
燃えさかる火砕流はカメラマンも消防団員も容赦無く襲った。
被害に遭った消防団員や警察官は退避勧告を無視して危険地帯に入り込んだマスコミの身を案じて警戒していた。
マスコミが伝えない「雲仙・普賢岳噴火災害の真相」がここにある。
(雲仙・普賢岳噴火災害の)報道について
被害の背景には当初発生した小規模の火砕流が衝撃的だったことから取材競争が過熱し十分な知識を持たない報道関係者が火山学者の存在を免罪符として、取材のため、「定点」と呼ばれた山と火砕流を正面から望める地点に入ったことがある。報道関係者は避難して無人となった人家に侵入するなどトラブルを起こしていたため消防団員、警察官が引きずり込まれる形で危険な地域に多く存在し犠牲となっている。犠牲者発生以降この反省も踏まえ報道関係者が警戒区域内に入ることはほとんど無かったが、その後も自衛隊の情報独占に不満があると主張する報道関係者が許可なく警戒区域内に侵入し書類送検される事例もあり、報道のあり方が問われる事件となっている。(ウィキペディア)
以下コピペ
64 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2007/06/04(月) 12:46:45 ID:er+ywW1V0
マスコミ関係者などが死んだ「定点」は、避難勧告がでていた。
危険地域であることを示すため、公的機関の観測員、消防団員も勧告地域から撤退していた。しかし、マスコミ関係者は、強制力がないことから、雇い挙げたタクシーとともに避難勧告地域内の「定点」に詰めていた。
そんな中、避難して無人の住民の家に無断で上がり込み、電気、電話を無断使用する事件が 起こった。
住民に不安が高まり、そのためもあって、いったん避難勧告区域外に撤退していた地元消防団は、ふたたび避難勧告地域内に入り、見回りを始めていた。
これらのマスコミ関係者、タクシー運転手、消防団員、許可を得て中に入っていた地元住民が火砕流に巻き込まれ死んだ。消防団員以外の地元犠牲者はたしか5名。それ以外が約35名。
避難勧告地域の境界で検問をやっていた警察官2名は、火砕流発生の連絡を聞き、中の人たちに知らせるために勧告地域内に入り、殉職した。
そしてこれが重要なんだが、火砕流の到達範囲は、まさに避難勧告地域内におさまっていた。
避難勧告をマスコミが守ってさえいれば、死者数ははるかに少なくて済んだに違いない。
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 18:55:51 ID:J5ssSuib
当時消防団員だったからよく覚えているよ。
手柄狙いで勝手に居座ったマスコミのために、行かなくてもよい団員が行かされて焼け死んだんだよ。消防団員って素人だよ。プロの消防士じゃなくて、ほぼボランティアなのに、命令でそこに派遣されたんだよ。
で鬼畜なのはマスコミ
その後、何年もこの事件を取り上げるたびに、多くのマスコミ関係者などが犠牲となったって枕詞で始めやがる。で、死んだマスコミ関係者の話を美談として自分語りする。
あの現場には、新婚の団員や、子供が生まれたばかりの団員や、もうすぐ結婚するはずだった団員や、親の介護してた団員がいたんだぞ。
マスコミはそんなこと一つも報道しないけどな。
もう一度言うが、その団員達はそこに居たくて居たんじゃない。
⇒最初にクリックお願いします
【追記】
参考エントリー: