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■沖縄の怪人,太田昌秀県知事と大乱闘
本書は、沖縄戦の真実の信実解明という極めて地味なテーマの検証のため、予備知識の無い読者にとっては、無味乾燥な記述に頁をめくる手が鈍るのを恐れる。 だがテーマは地味だが、これを検証する人物は多士済々で、読者の興味を引き付ける「怪人」(奇人・変人)が数多く登場する。 数多くの「怪人」の中でも特に重要な証言により、本書に屡々登場するドキュメンタリー作家上原正稔氏について触れておこう。
上原氏は天皇陛下(現在の上皇)がご宿泊したことのある沖縄の最高級ホテル「ハーバービューホテル」の宴会場で、内外の著名人が見守るなか、酒乱の太田昌秀県知事と殴り合いの乱闘をした人物だが、沖縄タイムス等沖縄2紙はこの乱闘劇を一切報道し無かった。 宴会場には大山哲氏など沖縄タイムスの記者も臨席し、乱闘を一部始終目撃していたにも関わらず、この大スクープを報道し無かった理由は、乱闘の発端は酒癖の悪い太田知事の方が、先に手を出しており明らかに太田知事に非があったからだ。 つまり沖縄タイムスは自社が支援する著名人の悪行は黙殺するという慣習がある。
■太田知事と大江健三郎の北朝鮮賛美
太田知事と言えば、2000年5月125人の訪朝団を引き連れて北朝鮮を訪ね、北朝鮮を「地上の楽園」と賛美した極左政治家である。
北朝鮮を「地上の楽園」と賛美した著名人では、後に「大江岩波訴訟」の被告となった大江健三郎の北朝鮮賛美と軌を一つにする。
ついでに言うと、沖縄タイムスの大山哲記者は、大田昌秀がハーバービュー・ホテルで上原氏に対して酒乱の上乱暴狼藉を働いた時、目と鼻の先で一部始終を目撃していながら、記事にしなかった。 それどころか、その年上原氏が沖縄タイムスで連載していた「続沖縄戦トップシークレット」に大田昌秀知事の意を受けた知事公室長の高山朝光が大山に電話し、「上原の連載を終わらせろ」との一言でトップシークレットが中断した。 新聞記者が極左政治家の権力に屈した瞬間だった。
沖縄は、沖縄タイムス、琉球新報の地元2大紙の歴史観にそぐわない人物の意見は掲載しない、という不文律がある極めて偏向した言論空間である。
上原氏は「沖縄戦を記述するのに右も左もない」をモットーにしており、沖縄では多数派の左に偏向した学者達とは一定の距離感を持つ作品で知られていた。そのため沖縄タイムス、琉球新報の沖縄2紙に実証的戦記を連載するなど特異な作家として知られていた。
結局、上原氏は琉球新報に長期連載中の「沖縄戦記、パンドラの箱が開くとき」の集団自決の記事で琉球新報の歴史観を否定する原稿を書き、そのため琉球新報から本人の了解なく記事の削除を余儀なくされ琉球新報を相手に訴訟を起こした「沖縄の怪人」と知られていた。
■ハーバービューホテルの決闘!
先ず筆者の友人N氏が、初めて上原正稔氏を探し当てた時の体験談を紹介しよう。
今から約20数年前の話である。
当時N氏は本土のジャーナリストの依頼を受け、上原正稔氏と面談設定を予定していた。 そのころ携帯電話を持たない上原氏に連絡することは至難の業であった。 風の便りによると、上原氏は秘書の屋比久氏の携帯電話を通じて連絡できると聞き、秘書が呼び出してくれるものと早合点し,早速屋比久氏に電話を入れ取次ぎを依頼した。
ところが秘書氏曰く「呼び出し?勘弁して下さい」と丁重に断られた。
それもそのはず、秘書氏の住居は寄宮中学校の先のマンションの一室であり、上原氏の住居は再開発前の農連市場内にあるという。 直線距離にしても5000㍍以上離れており、おいそれと電話呼び出しできる距離ではない。
これでは「勘弁して欲しい」も当然である。
そこで、N氏は秘書氏に農連市場内にあるびっくり食堂の裏に間借りしている上原氏の住居を教えてもらい、直接上原氏の探索を開始した。上原氏は以前から農連市場界隈でその特異な風貌にパイプをふかしながら散策する姿を目撃されていた。 だがN氏はその日まで上原氏を捉えることも目撃することもできなかった。びっくり食堂とは当時ボリューム満点でびっくりするほど美味しい沖縄そばが売り物の大衆食堂だった。
N氏はびっくり食堂の裏に間借りをしていた上原氏宅の前に立ち、声をかけた。
「ごめん下さい。上原先生。お邪魔します」
だが何度呼び掛けても返事がない。
留守かと思ったが念のためドアを開けたら鍵は掛かっていない。
「不用心だな」と呟きながら、中を一瞥して驚いた。
家具一つない部屋の中にはゴミクズの山があるだっけだ。
「しまった。一足遅かったか。引っ越したか。」と内心思った。
引っ越し跡と思われるゴミクズが散乱する人気のない光景が目の前にあった。
だが、いくらゴミの部屋とは言え他人の部屋だ。土足で踏み込むわけにはいかない。
念のためもう一度声をかけた。
「上原先生、いらっしゃいませんか」
その時、信じられない光景が目の前で展開した。
部屋の中央にうず高く積まれたゴミの山が突然グラグラと動きだいたのだ。
そして、中から顔面を髭で覆われた達磨大師のような怪僧が姿を現したのだ。
いや、実際は僧侶ではなかかった。
この人物こそ沖縄の怪人上原正稔その人だった。
上原氏は、眠そうに目をこすりながらこう呟いた。
「誰かね、こんな早く」
その時、時間は既に午前11時を過ぎていた。
「早いですか」
「なるほど、昼飯には早いかもしれない」
びっくり食堂でソーキそばでも食べながら用件を伝えるつもりのN氏は、上原氏の寝起きの一言にミョウに納得した。
部屋の中は家具類やテレビはおろか、電気製品らしきものは何一つない。
N氏が引っ越し跡の「廃墟」と間違えるのも無理はなかった。
だが、N氏は部屋の片隅にこの部屋には不似合いの電気釜があるのを発見し、そっと蓋を開けてみた。 廃墟と見える部屋の様子では自炊の様子は見られなかったが、時には米でも炊くのかと思ったのだ。
電気釜の中にご飯の残り物あるいは炊飯前の米など自炊の形跡を期待したN氏の思い込みは見事に裏切られた。 中には近隣の農連市場ではよく廃棄されている萎びたキャベツの葉が二枚ほど入っていた。
N氏の驚きを目ざとく見つけた上原氏は呟いた。
「あーそれ、知人からのもらい物だが、コメが無いのに自炊などできる筈もない」「電気釜など、不便なものだ」
「キャベツも煮炊きできないなんて」
長々と、N氏と上原氏の衝撃的な出会いについて述べてきたが、これ以上上原氏の正体を暴露したら、問題が生じる可能性がある。
金銭的には全く無欲な人物だが人並み以上に名誉を重んじる上原氏の逆鱗に触れ「名誉棄損」の請求でも提訴されたら困る。今日はこれくらいにしておこう。
代わりに最近産経新聞の那覇支局長が上原氏宅で撮影した写真を引用しておこう。
もっともN氏がゴミの山から出てくる上原氏の衝撃的姿驚いた時に比べれば、産経新聞の写真の衝撃の度合いがはるかに少ないが・・・。
産経新聞は執筆用のテーブルの置き場を聞いたが、元々テーブルはないとのことだった。(執筆は図書館を利用するとのこと)
沖縄関連の資料などが乱雑したマンションの一室で過ごす上原さん=那覇
上)反戦運動に不都合な人間「真実明かせばパージ」
産経新聞 2021/6/20
沖縄戦関連の資料などが乱雑したマンションの1室で過ごす上原正稔さん=那覇市
「ぼくは沖縄の反戦運動にとって、最も都合の悪い人間だから…」。そう語る作家が沖縄にいる。上原正稔(まさとし)さん、78歳。以前は地元紙に沖縄戦のノンフィクションを連載するなど知られた存在だったが、今は表舞台から姿を消し、知人のマンションに身を寄せる。
「沖縄戦の真実を明らかにしようとすれば、パージ(追放)されるさ」。上原さんは自嘲気味に笑った。
★
佐野眞一著の『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(集英社)の一部を拙ブログで引用したところ、太田昌秀元知事とドキュメンタリー作家上原正稔氏の「ハーバービューホテルの乱闘」について、もっと詳しく知りたいという声があった。
詳しくは同書を読めば済むことだが、何しろ650頁を超す膨大な本ゆえ読破するにも覚悟がいる。
だが、沖縄に在住する者なら殆どの登場人物は新聞等でお馴染みの名前なので、その「書かれたくなかった」実像に触れると下手なコントよりよっぽど笑わせてくれる。
筆者が個人的に知る人物も複数登場する。 中には共に酒を酌み交わした友人も登場して笑いを誘ってくれる。
だが、夥しい数の登場人物の中にあって、太田元知事と上原氏という特にキャラの立った怪人の乱闘場面は圧巻である。
お二人の絡んだ場面を抜粋して同書読破の手引きとして引用する。
<太田に会った目的は、米留体験を聞く以外にもう一つあった。太田の知事時代の業績に、沖縄戦最大の激戦地の摩文仁の丘に「平和の礎」を建てたことがあげられている。
その「平和の礎」と、やはり琉球大学教授時代の太田が、アメリカの国立公文書館に出向き、同館に所蔵されていた沖縄戦の未公開フィルムを調査、発見したことから大きな記録運動のうねりとなった「沖縄記録フィルム1フィート運動」の二つのアイディアは、自分のアイディアが盗まれたものだと、抗議する男がいる。
この人物は上原正稔(まさとし)という1943年(昭和18年)生まれのドキュメンタリー作家である。 上原には太田に会うだいぶ前に会った。 上原を人目見て、この男は現代のキジムナーだな、と思った。 キジムナーとは、沖縄の人々に昔から愛される伝説の妖怪である。
黄色のシャツにピンクと紫というちぐはぐな靴下を履いたファッションの配色感覚だけでも、この世のものとは思えなかった。 その奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な出で立ちに小さな体を包んで登場したときは、立派な髭をたくわえた顔とも相まって、愛玩用の犬が二本足で立って現れたかと思った。 若者が被るようなキャップ、首のスカーフや茶色のサングラス、ポパイのようなパイプも、どこか現実離れしていた。
「1フィート運動も、“平和の礎”のアイディアも、最初に発案したのは僕です。 それを太田昌秀に盗まれた。 それ以来、太田とはケンカです。 僕は太田に首を絞められたこともある。 彼は知事失格というより、人間失格の酒乱男です。 売名欲の塊です」
―首を締められた? 穏やかじゃないですね。 どこで首を絞められたんですか。
「ハーバービューホテルです。 その件で僕は太田を告訴しました。
初めて聞く話だった。 後で入手した告訴状には、こう書かれていた。
〈被告人(引用者注・太田)は、告訴人(引用者注・上原)に対し、平成4年9月13日、午後9時頃、那覇市泉崎2-46の沖縄ハーバービューホテル二階「鳳凰の間」において、右手拳で告訴人の左わき腹を一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の左上腕部を痛みを感じるほど強く握り締めて、3メートルひきずるなどして暴行を加えた〉
告訴状に付随した陳述書には「太田氏が顔を上気させ、目を吊り上げ、恐ろしい形相で私に駆け寄り」といった、さすがはドキュメンタリー映像作家らしい臨場感あふれる記述もあった。>
著者の佐野氏が描く上原氏の描写が秀逸で思わず笑ってしまったが、対する太田知事もこれに決して引けをとらない。
筑紫哲也氏が「沖縄の良心」と沖縄に忖度して紹介する太田元知事の素顔の怪人ぶりは、上原氏がキジムナーなら、太田氏は脂塗れのアンダケーボージャー(脂食い坊主)とでも言うべきか。
アンダケーボージャーとは沖縄の伝説の怪盗ウンタマギルの子分のこと。
元知事のことを怪盗の子分に例えるのは礼を失するとも思えるが、上原氏のアイディアを盗んだというのなら怪盗の子分程度に例えられても仕方がないだろう。
それにしてもかつて今上陛下(現在の上皇)もご宿泊したことのある沖縄の最高級ホテルの宴会場で、満座注目の中現役の知事が上原氏の首を絞め3メートルも引きずる暴挙にでたとは。
通常では到底信じられることではない。
まさに『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する人物の中でも際立つ千両役者である。
太田氏は琉球大学教授から県知事、そして参議院議員とエリートコースを歩む人物だが、一方の上原氏は組織に属しない一匹狼で、その名は知る人ぞ知る沖縄の怪人である。
まるで接点のないように見えるご両人だが、沖縄戦記を発掘してそれを出版するという分野においてはご両人の活動分野は重なっている。
ここで佐野氏は上原氏が言う「乱闘劇」について裏付けのため再度太田氏にインタビューするのであるが、その部分を紹介する前にキジムナーこと上原氏について少し触れておきたい。
太田氏については沖縄を忖度のみで沖縄を語る筑紫哲也氏などによって「沖縄の良心」のように描かれているので、当日記の読者ならよく承知のことと思う。
一方、上原氏については沖縄県人でも知る人は少数派であるが、古くからのブログ「狼魔人日記」の読者なら、琉球新報に連載中の沖縄戦記を前日になって突然発表中止という言論封殺の被害を被ったドキュメンタリー作家として、大江岩波集団自決訴訟でも原告側の証拠となった『沖縄戦ショウダウン』の著者として記憶に新しいだろう。
「大江岩波集団自決訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。
≪さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。
(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。
(略)
(4)太田氏(「鉄の暴風の筆者」ー引用者注)は沖縄タイムス上での論戦において、「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした。
上原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白しているのです。 さらに、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」と結論しています。
『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。
いま、上原氏の「沖縄の人々の責任は限りなく重い」という言葉に込められた沖縄の良心の叫びを、噛みしめる時が来ているのです。≫(大江岩波訴訟・準備書面)
これに対する被告側は、「『沖縄戦ショーダウン』は、赤松氏を一方的に評価する人物だけからの証言によって執筆されたもので信用性がない」などと客観的反論を放棄し、「信用性がない」といった極めて情緒的文言で終わっている。
被告側は上原氏の著書は信用できないというが、上原氏は被告側のバイブルともいうべき『鉄の暴風』を出版した沖縄タイムス刊で、同じ沖縄戦を扱った 『沖縄戦トップシークレット』『1995年3月刊)を出版している。
同じ沖縄戦関連で同じ沖縄タイムスが出版した『鉄の暴風』はバイブル扱いして、他方では同じ沖縄タイムス刊で沖縄戦を出版する上原氏を自分の都合の悪い記述だから信用できないという。
これが「集団自決」訴訟を通じて被告側弁護団が取ってきたダブルスタンダード手法である。
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雑誌『うらそえ文藝』(2009年5月)に掲載の集団自決特集は星雅彦氏執筆の論考「集団自決の断層」と、上原正稔氏執筆の論考「人間の尊厳を取り戻す時 ―誰も語れない“集団自決”の真実―」そして執筆両氏の対談という三部構成になっている。
沖縄戦記の実証的調査の先駆者とも言える沖縄在住の知識人のお二人の対談から要点を抜粋引用する。(太字強調は引用者)