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沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定です。
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狼魔人日記
江崎 孝
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■「死に所の森」の恐怖■
貧しかった昔の日本にはいたるところに「うば捨て伝説」があり,そこから生まれたのが鬼婆伝説だといわれる。
集団自決のあった座間味島にもうば捨て伝説がある。 だが、“その時”は鬼婆ならぬ鬼畜米軍の上陸に島全体が怯えていた。
座間味島のうば捨て伝説のある場所はシンジュの森という鬱蒼とした森の中にある。
シンジュという発音から鎮守の森を連想するが、実際は「死に所」という方言で、老いて働けなくなった老人が死に場所を求めて彷徨い入るという悲惨な印象の森だ。
1945年3月26日の未明の座間味島で、島を囲んだ米軍の艦砲射撃から逃げ惑う老人と子供の一行いた。
シンジュの森にある自分の壕に向かう途中、軍刀を持つ男に遭遇した。
未明の朝もやの中に立ちはだかったのは「鬼畜米兵」ではなかった。
その男が怒鳴った。
「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」
と日本刀を抜こうとした。
2001年7月5日付毎日新聞を引用する。
「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅
うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」
僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)
住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。(毎日新聞 2001年7月5日)
■本当の敵は誰だ■
憎むべき敵は「鬼畜米英」のはずだった。
だが、朝もやに霞むあの朝、死に切れない住民に軍刀を振るったのは日本語で怒鳴る軍服の男だった。
憎むべき敵は「日本兵」だと記憶に刻み込まれていた。
だが、「眼前の敵」は日本兵ではなかった。
軍人より軍人らしい男、「参謀長」と呼ばれる民間人だった。
軍人より軍人らしい男は、島で教頭をしていた山城安次郎氏だった。
*
“山城安次郎”、でググルと321件出てくるが、そのほとんど全てが「渡嘉敷島の集団自決の証言者」としての記述のみであり、他の意味での記述はない。
一例を挙げると下記引用のようなものだが、本人は隣の座間味島での体験者ではあっても渡嘉敷島での体験者でないのが不可解だ。
山城氏の不可解な言動の一例として曽野綾子著『ある神話の背景』の重要な箇所が次のように記されている。
「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」
山城氏は、戦後一貫してマスコミ業界を歩み沖縄テレビの社長にまで上り詰めた著名人である。 それにしては、他に一切ネット上に名前が出てこないのは不可解である。
「集団自決」の体験者では、山城氏と対照的なのが渡嘉敷島の金城重明氏であり、同じくググルと何と13,800件も出てくる。
それだけ金城氏が自分の体験を語り続けたことを意味する。
金城氏は「集団自決」で自分の家族に留まらず他人の親子にまで手をかけたが、本人は幸か不幸か生き残り、戦後は自己の悲惨な体験を語り続けた。
金城氏は語り続けると同時に「軍の命令だった」と責任転嫁し続けた。そうしななければ戦後生きていくことは出来なかったのだろう。
一方の山城安次郎氏はその後自分の体験について一切語ることは無かった。
言うまでもないが『潮だまりの魚たち』に登場する「参謀長」と呼ばれた元教頭先生は後の沖縄テレビ社長の山城安次郎氏である。
大田記者が『鉄の暴風』の取材をしていた終戦直後は、米軍は沖縄を日本から永久分離するため「日本軍=悪玉、米軍=善玉」という世論作りを行っていた。
その尖兵となっていたのが沖縄タイムスを始めとする沖縄の新聞であった。
その空気は曽野氏の著書にも次のように書かれている。
「当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。」
↓
、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ
沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日)
◇
太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。
≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm
沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、
敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。
それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にはこう書かれていた。
「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)
揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。
勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。
『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、
初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)
そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。
ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた文字通りの広報紙という意味である。
勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。
◇
■老人と子供■
「集団自決」問題を難しくしている理由の一つは生き残りの殆どが老人と子供だということである。
島の成年男子の殆どが応召で外地へ派遣されており家を守るのは老人と子供だけ。
それだけに米軍の上陸を前にパニックになる要素も多かった。
従って生き残った証言者も老人と子供が殆どで、それを戦後半世紀以上も経ってから証言を求めることに「真実」解明の難しさがある。
「集団自決」当時子供だった証言者の証言が、周囲の大人達の噂話等によって本人の知らぬ間に間違って伝えられる例を専修大学の学生達が卒論のテーマとして座間味島を訪問し研究している。
彼らは2004年、当時の座間味村の宮里芳和教育課長へのインタビューから実例を引き出している。
8月2日に座間味村役場会議室で行われた学生のヒアリングに答えて宮里氏は次のような証言者の例を語っている。
手りゅう弾の操作を知らない家族が日本兵にその使い方を教わった。
日本兵は使い方を教えはしたが「できるだけ最後ま生きてください」と言って去った。
当時傍にいた子供には親と日本兵の会話を聞いたはいても、その真の意味は理解できない。
その後、親は手りゅう弾で自決した。
遺された子供は日本兵が家族を殺したと思い込んだ。
戦後61歳になった証人は「親は日本兵の命令で自決した」証言した。
宮里氏はこのように「集団自決」の生き残りが語る証言が誤解され、歴史記述となって残される危険性の例を学生達に語っている。
以下は宮里芳和教育課長(当時)の話。
1945年3月25日の夜、忠魂碑前に集合という「軍命」が伝えられた。しかし、砲撃が激しいため人々は産業組合壕などに逃げ帰り、そこで「集団自決」に追い込まれた。
産業組合壕では、兵事主任・宮里盛秀氏をはじめ村の幹部とその家族67名が亡くなった。生存者は一人もいない。
説明役の、宮里芳和氏は宮里盛秀氏の叔父の孫にあたる人だ。戦後生まれだが、当時の歴史を調べ平和ガイドをしている。
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「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅
うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」
僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)
住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。(毎日新聞 2001年7月5日)
■本当の敵は誰だ■
憎むべき敵は「鬼畜米英」のはずだった。
だが、朝もやに霞むあの朝、死に切れない住民に軍刀を振るったのは日本語で怒鳴る軍服の男だった。
憎むべき敵は「日本兵」だと記憶に刻み込まれた。
だが、「眼前の敵」は日本兵ではなかった。
軍人より軍人らしい男、・・・「参謀長」と呼ばれる民間人だった。
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「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅 |
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「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」 僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談) 住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。 写真~うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森 |
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毎日新聞 2001.7.5 |
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死者に鞭打つ気はない。
戦時中の異常な状況の出来事を、戦後に育ち、飽食・メタボが悩みの現代に住む人が批判することは出来ない。
山城氏は座間味島で起きた事件について何も語らず墓場まで持ち込んだ。
それを敢て取り上げた理由は次の二点にある。
①終戦直後、沖縄タイムスを訪問して、自らは経験もしていない渡嘉敷島での赤松隊長の暴状を訴えたのは何故か。
②タイムス訪問当時、山城氏は座間味村助役という公的立場にあり、その後も新聞編集、テレビ会社とマスコミ界を歩んでおり、体験者として沖縄戦史を遺す社会的責任があるのにも関わらず一切語らなかったのは何故か。
もし、山城氏が①の不可解な証言をしなかったら、山城安次郎氏の名前は一切ネット上に出なかった可能性もある。