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沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定です。
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狼魔人日記
江崎 孝
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■「潜在主権」と「天皇メッセージ」
大田海軍中将の電文や関係者の努力だけで法治に厳しい日本の官僚機構である厚生省が、違法とも取れる拡大解釈までして沖縄住民に援護法の適用をした理由は解明できない。
ここで忘れてはならないのが沖縄の「潜在主権」にこだわった昭和天皇による「天皇メッセージ」の存在である。
もとより1979年にその存在が公表された「天皇メッセージ」を、1950年当時の関係者が知るはずもなかった。
ただ昭和天皇が大田少将の電文を読んだ可能性は充分考えられる。理由は昭和天皇が20歳の皇太子時代、ヨーロッパ旅行時の船旅の第一歩を印されたのが沖縄であり、その沖縄が米軍の銃弾に蹂躙されたことを大田少将の電文で知り心を痛めたことも想像に難くないからだ。
人間誰しも多感な青春時代に訪れた土地の想い出が深く心に刻まれるもの。ましてや長いヨーロッパ旅行の船旅のお召し艦の艦長が沖縄出身の漢那憲輪和少将とあれば、皇太子時代の昭和天皇が船旅の最初に上陸した沖縄のことを特に身近な土地と考えてもおかしくはない。
裕仁親王は沖縄訪問を大変喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、艦長の漢那少将を始め関係者を宮中に招いて午餐会を催したという。
お召し艦「香取」が宮古列島沖を航行中、艦の甲板上に飛び魚が躍り込んできた。それから46年後の67(昭和42)年、宮中新年歌会始で、昭和天皇は皇太子時代沖縄で見た飛び魚を回想し和歌を詠まれた。
「わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航きつつ」(「さきはひ」は幸いの意味)
昭和天皇は青春時代に訪問された沖縄のことをしっかり心に刻んでおられ46年の時の経過を乗り越え青春時代の想い出を和歌に詠まれたのだ。御製碑は宮古神社に建立されている。
皇太子(裕仁親王)の沖縄訪問時、特筆すべきエピソードがある。最近の沖縄ブームで、沖縄ソバやゴーヤーチャンプルーなどが全国区になったが、それでも「エラブ海蛇」を食する人は極めて少ない。
裕仁親王は沖縄県民でさえ好き嫌いの激しい沖縄特産の「エラブ海蛇」に興味を示され、漢那艦長に食べてみたいと所望された。
艦長は急遽、「エラブ海蛇」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。
ここまで縷々と青春時代の昭和天皇と沖縄の関係について書いたのは、終戦直後の1947年の時点で、昭和天皇が当時既に米軍統治下にあった沖縄の将来について思いを馳せ、「臣吉田」と自称するほど昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相を通じ、何らかの影響を厚生省に及ぼしていた事実を明らかにしたいからだ。
■吉田茂とダレスの熾烈な戦い/肉を切らせて骨を断つ
米軍は沖縄を「信託統治」により、将来は米国の自治領にしようと目論んでいた。
昭和天皇は米国に対し「天皇メッセージ」と言う形で、次の4点を認めさせた。
(1)沖縄住民の主権の確保、「潜在主権」
(2)沖縄の分離ではなく期限付き租借、
(3)本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)、
(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用など)、を米国側に認めさせた。
これは紛れもない歴史の事実だ。
昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相は、1951年の講和条約締結にあたり、米国務省顧問のアレン・ダレスと丁々発止の外交交渉をしたことが外交文書の公開で明らかになっている。
戦勝国の権威をバックに、自国の権益を要求するダレスに対し、まだ独立もままならぬ敗戦国の首相がどのような秘策で対応したのか。
吉田首相とダレスの交渉の前哨戦は、それに先立つマッカーサーと昭和天皇との「外交交渉」によって大方の下地は出来上がっていた。
昭和天皇は、マッカーサーの6年間の在任中に11回も会談を持っている事実から、終戦直後のこの時期に「君臨すれども統治せず」という自身の信念を破って「天皇親政」による外交交渉を行っていたことがわかる。
その期間に沖縄の将来を慮る「天皇メッセージ」が寺崎御用係を通じてワシントンに伝わった。
吉田首相は、昭和天皇の意を受け「潜在主権」という切り札を根拠に、骨を切らせて肉を断つ覚悟で、沖縄に関する上記の「本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)」「本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用)など」、を米国側に認めさせた。
■天皇メッセージとは何か
そもそも「天皇メッセージ」とは何か。 1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したものを「天皇メッセージといいう。
同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。
これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。
「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」
沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系にも「天皇メッセージ」とは昭和天皇が自身の延命のため「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。
だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。
「天皇メッセージ」の重要ポイントは昭和天皇が、沖縄に「潜在主権」を強く望んだこと。つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任すること希望したことだが、これを親子の場合で言えば、次のように例えることができる。
破産状態で子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。
当時戦勝国のリーダーであり世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。
その名残の一つがランチョンミート(スパム)文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。
◇
大江岩波訴訟は2005年に提訴されるが、2005年の時点で軍命派の先頭に立つ沖縄タイムスは未だ提訴の情報を得ていない。したがって「援護法のカラクリ」似ついて解説した当時の記事がオウンゴールになるとは夢にも思わなかったのだろう。 援護法の概略を知る参考になるので、古い沖縄タイムスの記事を引用する。
<沖縄タイムス 2005年3月4日 朝刊30面>
[戦闘参加者とは誰か](6)
申請
「救えるものは救おう」
役場職員も事務研究
一九五七年、厚生省は、沖縄戦で亡くなった一般住民のどのような行動が「戦闘協力者」として、該当するかを調査した。その後、実際の受け付け業務は、琉球政府から委託され、各市町村役所が担当した。
申請の過程でも、援護法が「軍への協力」を前提としていたため、そのことが、強調されていくこととなった。
長嶺秋子さん(70)=糸満市=は五三年、兼城村役場(当時)の初代の援護係に着任し、その後八年間担当した。
援護法の申請手続きは、兵隊や現地召集の防衛隊など軍人軍属が先だった。
「軍人の場合は、政府から一次名簿というのが届いていた。しかし、戸籍がなく、仮戸籍で受け付けた。防衛隊の場合は名簿もないので、各字を回って、誰が隊員なのかを申告してもらった」
地域の公民館に机を置き、住民が申請に来るのを待った。「援護金の支給があると言っても、なかなか信用してもらえなかった。『戦争のことは思い出したくない。辛いことを思い出すからやりたくない』。そんな声が聞こえてきた」と振り返る。
その後に、一般住民が対象となる「戦闘参加者」の申請が続いた。
申請には、戦没者氏名、生年月日、死亡月日、死亡場所に加え、どのようにして亡くなったかを記した「戦闘参加概況書」を添付する必要があった。
職員は、概況書を基に、「戦闘参加者」の基準となる二十項目、「義勇隊」「直接戦闘」「弾薬運搬」「戦闘協力者」などの、どれに当たるのかを判断した。
申請は、琉球政府を通して、厚生省援護局未帰還調査部に送付。厚生省は、添付資料を基に、「戦闘参加者」に「該当」するのか、否かの審査をした。その結果を「戦闘参加該当予定者名簿」として、市町村に送り返され、該当遺族に通知が送られた。
厚生省へ送付される「戦闘参加概況書」では、住民が協力した、軍隊の部隊名も特定する必要があった。住民の立場からすると、混乱した戦場での正確な記憶が求められるのは、土台無理な話だった。しかし、書類はそれを要求していた。
結局、申請を受け付けた役場職員が、日本軍の作戦状況を把握して、日時場所から、部隊名を記入することもあった。
市町村の援護課職員は事務研究の連絡会をつくり「戦闘概況」について、どう記せばいいのかを検討し、連携したという。長嶺さんは「琉球政府の方針も、沖縄は復帰できるかも分からない、援助できるものは援助しようということでした」と振り返る。
同村役場三代目の援護課担当だった大城美根子さん(62)は六五年に着任。当時の業務は、「戦闘参加該当予定者名簿」の中から、「『非該当』の人を『該当』となるように救うことだった」と振り返る。「沖縄戦で亡くなった人たちが、救えないのはおかしい。亡くなった人たちは、皆『戦闘協力者』だと思っています」と語る。(社会部・謝花直美)