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沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定です。
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狼魔人日記
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沖縄戦史を書いた本は数多くあるが、米軍上陸後の米兵の住民に対する蛮行について記した本は殆どない。
恥じるを知る沖縄人は自分や家族が米兵の陵辱に会った事を他人に言いふらすはずはない。
昭和20年の米軍上陸から昭和30年の約10年間の米兵による住民への蛮行を米軍のプロパガンダ紙であった沖縄紙が報じるはずも無かった。
従ってこの間の約10年間は沖縄戦史にポックリと大きな空白を生じている。
昭和30年に起きた「由美子ちゃん事件」を契機に初めて地元マスコミが米兵の蛮行を大々的に報じることになる。
比較的戦闘の少なかった北部地域では米兵の強姦事件を防止するため4月の時点で既に米軍公認の売春宿が設営されていたと書いた。
詳しい状況を知りたいとの問い合わせがあったが、出典元の『天王山』は上下二冊で1000ページ近くの膨大な本故、同書から該等部分を抜粋し以下に引用する。
天王山 沖縄戦と原子爆弾 上 (早川書房) ジョージ・ファイファー 小城正 訳(267、258、269頁)
≪4月20日、北部地域における組織的な抵抗が終了した旨公式の声明がなされ、海兵隊6師団は掃討戦に転じ、兵器の手入れをしたり写真をとったり、赤十字のテントで歯磨きや剃刀の刃や煙草を受領し、大雨の降っている間はできれば昼寝をし、晴れている間には靴を磨くといったような、軍隊生活でのささやかな楽しみを味わいつつあった。(略)
まもなく、冒険を求めていた多くの若い兵が、運天村の近くのある家に急いで行くようになった。 物事がすべて厳格におこなわれているときには、売春宿を設けることは合衆国海兵隊としてふつうに行われていることではなかった。 しかし、ここでは例外を設けるだけの理由があった。 海兵隊がこれまで戦った太平洋のすべての島の中で、沖縄はたくさんの魅力的な女性を含めて、大きな民間人の人口を有するはじめての島だった。 すでにごく少数の女たちが食べ物と交換に売春していたが、花柳病を予防するとともに、部隊のあとを追って女たちがどこまでも移動するのを避ける手段として、こうすることが適切と思われたのである。 また、兵が村の中をうろついたり、既に若干の苦情が申し立てられているように、強姦事件を予防する上においても、良い方法であると判断されたのであった。
水上特攻艇や超小型潜水艇の巣窟として占領され運天は、本部半島の海兵隊第六」師団司令部所在地から15マイル北方にあった。 自ら志願して集まった女性達は毎日、衛生部員による検診を受け、大きい清潔な家で働いており、長い時間働いて、その地方の標準からすればかなりの金額を稼いでいた。 また、ここに通う者も相当の時間をかけなければならなかった。 まず、長い列を作って順番を待ち、三円(三十セント)券を買いーこのような占領を予期して既に軍票が作られていたー衛生部員のいるテーブルでコンドームを受領し、それから売春やどの入り口にできている、もっと短い列の後尾について順番を待たなければならなかった。 そして、マダムが相手を割り当ててくれる間、小部屋で待つのである(ある「年配」の兵はー26歳だったー小部屋の女性用のベッドに腰かけて待っていると、13歳ぐらいの女の子が入ってきた。 彼がその女の子に身振りで帰るように合図をすると、彼女はマダムと一緒に引き返してきた。 そして、マダムは彼に、その子で満足するか、あるいは帰るようにといったのである。 そこで、彼は女の子を受け入れることにした)。 このような「キャット・ハウス」の存在はもちろん発表されることもないし、認められてもいなかったが、連隊付きのカトリックとプロテスタントの従軍牧師がこの不名誉な話を聞きつけて抗議した。 連隊長は現代的な心の広さを見せて「もし私の部下がセックスすることを望むなら、そうさせてやるまでのことだ」と答えた。 二人の牧師は転属を願い出た。≫
『天王山』はアメリカ人が書いた沖縄戦記だが体験者として沖縄人が書いた沖縄戦記にも米兵による住民への残虐行為を記した部分がある。
以下に引用の「月刊ビューポイント」記事と上記引用文を照合すると米兵の知られざる「住民への蛮行」が垣間見れて興味深い。
平成19年10月31日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部 <9>
相次ぐ米軍の無差別攻撃・暴行
住民、一斗缶鳴らし自衛
日本兵の使っていた壕を海兵隊員が攻撃した際にケガをした少女を抱く第1海兵師団所属のデロマ薬剤師助手。民間人の誰もがこの少女のように扱われたわけではない(米軍撮影、沖縄県立公文書館所蔵) (中略)
だが、本土と沖縄を分断させる「米軍のヒューマニズム」戦術は、沖縄県民を一時的には感動させたが、人為的な政策であり、すべての米軍がヒューマニズムあふれる行動を取ったわけでは無論なかった。
長周新聞社(下関市)が平成十七年に発行したパンフレット『沖縄戦の真実-千人の沖縄県民に聞いた本当の声』は、原爆展を沖縄で行った時の劇団はぐるま座、富田浩史氏のルポを掲載している。そこには、沖縄のメディアや地元の学者らが強調する「日本軍が住民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したり、あるいは凄惨(せいさん)な集団自決にすら追い込んで“本土決戦”を準備するための“捨て石”にした」という沖縄戦とは全く違った県民の証言が収録されている。幾つか紹介しよう。
六十代の婦人。「糸満市のいま“ひめゆりの塔”のあるあたりで逃げ場所をなくしたとき、いったんすれ違った米兵に突然銃を乱射され、母は後ろから背中を撃たれて大ケガをして死んだ。叔母もいとこも即死だった。……父の弟の奥さんなどは、壕の中でなにかの破片が顔にあたり、鼻がとれて穴が空いているだけの無惨な顔にされてしまった……」
本部町出身の六十代の婦人。この女性は沖縄戦の時、二歳だった。あまりに泣くので壕から出されてしまった。「そのとき母が壕から出てわたしを守ってくれた。助けてくれたのは母親だった。米兵ではなかった」と話す。
<当時一六歳だったその婦人のお姉さんは、敗戦直後、女友だちと二人で歩いているとき、突然あらわれた米兵に襲われた経験があるという。お姉さんは危うく難をのがれたが、友だちは目の前でなぶり殺しにされたそうである>と富田氏は続ける。
ほかにも、壕の入り口で赤ん坊にお乳を飲ませていた母親が米軍の戦車砲の一撃で惨殺された、北谷(ちゃたん)町では軍人・民間人の区別なく皆殺しにして、遺体を股(また)裂きにして海に投げ込んだ、十歳の少年は降参旗を振ったが艦砲に撃たれて死亡、さらに戦後も米兵の暴行を告発する証言などがあふれている。
同新聞は、日本共産党から除名された福田正義氏が創刊したもので、反米色が強い。それでも現在の沖縄のメディアが封印している事実を暴露している点で意味があろう。
昭和八年生まれの宮里真厚氏は、戦争前後の様子を『乙羽岳燃ゆ』にまとめているが、そこには、戦闘が終わると黒人兵や白人兵が夜、民間地帯に出没、民家に上がり込み「女性を出せ」と要求して住民を不安に陥れた、と書かれている。実際、宮里氏の近所にもアメリカ兵が来た――。
<(米兵が上がり込んだ家の)奥の座敷の住民が打ち合わせ通りに、天にも届けとばかりに勢いよく一斗缶を叩(たた)き出したのである。そうすると隣の家でも一斗缶を叩く音がして、そのうち村中がガンガンなり出した>
しばらく茫然(ぼうぜん)として立っていた米兵は、事の成り行きを察知するや、一目散に大通りの方へ駆け戻っていったという。翌朝、門の前に大型の牛缶が二個あった。米兵が慌てて落としていったものだ。その牛缶をめぐって住民の議論が白熱したが結局、みんなで食べることに。その「恐怖の報酬」の味たるや、「終生忘れることはないうまさだった」と宮里氏。
戦中派の沖縄県民からも、頻発する米兵のレイプに対して、家に鉄条網を張ったり、各家庭にドラム缶を置いて、米兵が来たら思い切り鳴らして精いっぱいの威嚇をしたという話を聞いた。
「米軍のヒューマニズム」は広く流布されて、こうした占領下での米兵の乱暴狼藉(ろうぜき)を告発する記録はそれほど多くない。
(編集委員・鴨野 守)
米兵が女を求めて民家を徘徊したという証言を記録した『乙羽岳燃ゆ』 のタイトルにある乙羽岳とは沖縄の本部半島の運天の近くにあり、アメリカ人ジョージ・ファイファーが書いた『天王山』の記述と沖縄人宮里真厚氏が書いた『乙羽岳燃ゆ』の記述が一致し、沖縄における米兵の蛮行がここであぶりだされてくる。
現在の乙羽(おっぱ)岳はキャンプ地になっており近隣にある乙羽牧場の「おっぱ牛乳」や「おっぱアイスクリーム」は沖縄北部観光の名物にもなっており、名護入り口の「道の駅・許田」で販売されている。
「おっぱアイスクリーム」をなめながら夏のキャンプを楽しむ若者に、
かつてこの地で米軍による住民陵辱が連日のように行われていた歴史を知る者はいない。
「集団自決」に追い込まれた住民が怯えた「米兵の蛮行」はけして単なる噂ではなく実体験として沖縄住民を襲っていたのである。
「集団自決」のパニックへ住民を追い込んだのは軍命ではなく、
「米兵の蛮行」への恐怖心であると思う方
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■[道の駅 許田] おっぱ牛乳のアイスクリーム http://blogs.yahoo.co.jp/eminee_k/52991779.html
【おまけ】
読者の sana様が提供して下さった富村順一氏の独白です。
★
押しかけて来た大江派
話は変りますが、今大江(健三郎)先生を支援している方々の中には私の知人が沢山います。(11月)9日の裁判を傍聴に行き、多くの知人と会いました。それらは皆大江さんを支援する人達でした。沖縄からはフォークシンガーも来ていました。その人と私はレコードを出したこともあります。
実は去年(平成18年)10月に私は堺市の阪南病院という精神病院に一晩泊められたことがあります。大江支援者が何度も私の家に押しかけ、私と口論となり、私はその人達を木刀で叩き、大怪我をさせたことがあります。その連中は何遍も私の家に押しかけてきて、また私の留守中に出版物や名詞などを盗んでいくために私は犯人は判かっていました。大江先生を支援するグループと知ってましたから、警察に訴えましたが、警察は対応しませんでした。仕方なく私は、今度来たらひどい目に遭わせてやろうと思って枕元に黒檀の木刀を置いてありました。その木刀は朝日新聞で拳銃で自殺なさった野村秋介さんから頂いた木刀で、今手元にあります。
島を救った元隊長さん
どのようにして話してよいか、前後区別もつかなくなり、何度も録音を取り直しましたが、自分の云いたいことを録音できません。
私は人間を余り信用しません。と云うのは、座間味戦記を書いた、中村先生御存知の宮城晴美さん、あの『母の遺したもの』は、梅沢さんが自決命令を出してないと断言しています。だが彼女は法廷ではその立場を覆した。そのようなことを新聞で読んだことがあります。自分の書いたものにも責任が持てない。それは無論他人事だけではなく、私も赤松隊長について間違ったことを聞き、書いたことがあります。これは謝罪すべきです。何れ本が書けるようになれば、本で間違ったことを訴えているのなら、また本で謝罪をしたいと思ってます。
私は嘘を云って遺族年金をごまかした人間が一方的に悪いとは思っていません。
もし梅沢隊長や赤松隊長に濡れ衣を着せなければ、今の座間味島や渡嘉敷島はあのような仕合わせな島にはなってはいません。宮城初枝さんが嘘の沖縄戦記を書いたために、多くの本土の方々は宮城初枝さんから捏造した沖縄戦記を聞き、その家に泊り(宮城初枝さんは民宿を経営していた)、帰る時には余分な金まで置いて行ったために、宮城初枝さんの三人のお子さんが大学に進学出来た訳です。また本土から平和教育のために多くの中高校生が行ってます。その語り部が宮城初枝さんなんです。
亡くなられた赤松隊長には申し訳ありませんが、濡れ衣を着てくれたお蔭で島の人が仕合わせになったとお考えなされば、気も休まれるんではないかと私は思ってます。故に沖縄の座間味島、渡嘉敷島の戦後の困難を救った方が、濡れ衣を着た梅沢隊長であり、赤松隊長だと思います。そのようにお考えになれば、多少なり心が安らぐことがあるのではないでしょうか。
「沖縄出身の日本兵」のこと
さて、私が沖縄戦を語る時、ただ座間と渡嘉敷ではありません。久米島でスパイ容疑で殺された朝鮮釜山出身の具仲会さんのこともあります。戦前、具仲会さんは沖縄で鍋や薬缶(やかん)などを修理する鋳掛け屋さんをしていました。その方は標準語を使っていたので、日本人だと思ってました。あとで韓国人だと判りましたが、その家族七人がスパイ容疑で生後三ヶ月の赤ちゃんまで殺されました。
その日本名谷川昇、具仲会さんは三年間私の面倒を見て下さった方です。何故私が具仲会さん一家にお世話になるようになったかと申しますと、具仲会さんは鍋や薬缶、釜の修理をしながら、朝鮮飴とスクラップの物々交換をしてました。私はその朝鮮飴を全部盗んだのです。具仲会さんに捕まってしまい、盗んだ理由を話すと、「ならば家(うち)に居なさい」と云う訳で、私は具仲会さんと一緒に具さんの大八車の後(あと)を押して、三年間沖縄本島を渡り歩きました。その一家が私にとっては命の恩人であり、また具仲会さん夫婦は私にとっては三年間、お父さんでもあり、お母さんでもあった訳です。
長男坊に私より二つ歳下の一夫君がいましたが、一夫君が米軍の缶詰を持っていると山の部隊に報告したのは一夫君の先生なんです。その先生がカズオ君が米軍と会っていたとか、様々なことを部隊に報告した訳です。
また朝鮮人一家だけでなく、23人の町民もスパイ容疑で殺されましたが、そのリストを作ったのは学校の先生であり、女性で初めて県会議員になった上江洲(うえす)トシさんです。そのことは私は『隠された沖縄戦記』という本に書いていますが、事実であるから上江洲さんは私を訴えることは出来ません。
また島民を殺した日本兵と云えば、皆本土出身の日本兵と思うでしょうが、本土出身の日本兵は沖縄の地形はよく知らず、同じ沖縄人をスパイ容疑で殺したのは現地で入隊した防衛隊であり、護郷隊です。沖縄出身の日本兵です。だから沖縄の作家達は、沖縄戦記を書く場合には、「沖縄出身の日本兵」とは書かないのです。ただ「日本兵」と書けば、日本人は「本土出身の日本兵」と考えるでしょう。
このように沖縄人は、自分達に都合のいい沖縄戦記を書いています。
日本兵を殺した沖縄人
さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部(もとぶ)半島や今帰仁(なきじん)に上陸すると同時に、本部村と今帰仁村の村民は米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。故に久志村に行った人々は飢えてましたが、今帰仁や本部は無人の村となり、芋をはじめとする食べ物が沢山ありましたので、私達は久志村の山を越えて、四、五日おきに本部や今帰仁の畑に芋堀りに行ってましたが、久志村の山では南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人ずつグループをつくり、二百人近くいました。私達が歩いていると、飢えた日本兵がよく「芋を下さい」と云って私達少年に頭を下げてきました。
ある日のこと、元学校の先生が、「山には日本兵がいるでしょう。その日本兵にこの手紙を渡して下さい」と私達四、五人の少年が手紙を預りました。手紙の内容はよく分りませんでしたが、私達は本部に芋堀りに行く時に、途中の山に立て篭もっている日本兵に渡したのです。
その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから行ってみると、きのう私達が手紙を渡した日本兵です。後で知ったことですが、私達に手紙をことづけた元学校の先生は手紙に「食べ物はあるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。
翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。昭和21年の秋でした。沖縄は年に二度米が取れますが、二回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思ってます。
沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、米軍に狙い撃ちさせ、そのご褒美に食べ物を貰った人達も沢山います。私もその一人です。だがそのような沖縄戦記を書く人は沖縄には居ません。だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。私が一番今でも悲しい思いをしているのは、四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。一番奥には学校の先生や村の有志たちが一番安全な所に坐り、子供達お年寄りは弾除けのように壕の入り口に坐っている訳です。そのようにして犠牲になった子供お年寄りが沢山います。
また或る日のこと、元学校の先生が、或いは村の有志が、私達十二、三歳の少年達に「喉が渇いたので砂糖黍を取って来い」と云ったので、私達は三人で取りに行きました。その時に二人の少年は、米軍によって艦砲射撃で殺されましたが、それがきっかけで、私は村人の壕に帰らず、一人で居るハンセン氏病のお爺さんと沖縄戦を生き延びたのです。
戦後四、五年の沖縄の現状は、今の北朝鮮と同じだったのではないかと私は思ってます。終戦後、金は通用しません。全ての食べ物は米軍からの無償配給です。故に公平に分配すべきですが、この分配する係りになったのが元学校の先生や村の偉い方々です。その人達が他の一般の人達の何十倍も横取りして、飢えた人達は蘇鉄を食い、命を落とした人も沢山居ます。中毒死する蘇鉄も、食える蘇鉄もありますが、その見分けはつきませんでした。
故に人間は、いくら知識や知恵があっても、飢えた時には狼になると思います。
沖縄集団自決の真実
「沖縄人の見た沖縄戦」③
――「嘘を云ったお祖父(じい)やお祖母(ばあ)は沢山いる――
ルポライター(沖縄県国頭郡出身) 冨村順一(大阪市西成区78歳)
平成20年3月10日 昭和史研究所会報 第131号
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残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。
これは本来国家のなすべき事業なのです。
参考⇒「サイパンの悲劇」と「集団自決」 |
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yuu suke
9 日前(編集済み)