今日でちょうど阪神大震災から15年目である。
とは言っても、自分自身が被災したわけでもなく、ただテレビの画面を
通じて震災の被害を見ていただけで、今日まで今ひとつ実感がないのが
正直なところである。また、年齢的にもまだ若かった為、社会の出来事
に対して、それほど関心がなかったのだろうと、当時を思い出して推測
した次第である。
その頃、当時、25歳だった私は福岡県の博多に住んでいた。確か中途採用
で一つ目の旅行会社で働いていた頃である。前年の年末から年始ににかけ、
同僚の友人と韓国に遊びに出かけ、帰国予定日に釜山からのビートルという
高速船に乗り遅れ、年明けの仕事始めに間に合わず、翌日、上司からこっぴ
どく叱られて、まだ意気消沈して仕事をしていた頃が、1995年1月の半ばで
あった。
まぁ、そんなことはどうでも良いことだが、今後も、日本に住んでいる以上、
必ずどこかでこういうことが起こるだろう。大事なのは「減災」である。
被害を最小限に食い止めるような、日ごろの備えと可能な限りの自己防衛、
そして国の迅速な支援体勢が不可欠である。
政治家が私腹を肥やし、いいかげんな国づくりをした結果が、先日、震災に
見舞われたカリブ海の国、ハイチの人々を苦しめている。せめて大統領府
くらい耐震建築にすべきであったはずである。外見はホワイトハウスそっく
りだが、その作りはまるで張りぼてであった。
ひとたび震災が起きれば、政治に携わる者の責任の大きさを思わずにはいら
れないということを象徴する出来事であった。

とは言っても、自分自身が被災したわけでもなく、ただテレビの画面を
通じて震災の被害を見ていただけで、今日まで今ひとつ実感がないのが
正直なところである。また、年齢的にもまだ若かった為、社会の出来事
に対して、それほど関心がなかったのだろうと、当時を思い出して推測
した次第である。
その頃、当時、25歳だった私は福岡県の博多に住んでいた。確か中途採用
で一つ目の旅行会社で働いていた頃である。前年の年末から年始ににかけ、
同僚の友人と韓国に遊びに出かけ、帰国予定日に釜山からのビートルという
高速船に乗り遅れ、年明けの仕事始めに間に合わず、翌日、上司からこっぴ
どく叱られて、まだ意気消沈して仕事をしていた頃が、1995年1月の半ばで
あった。
まぁ、そんなことはどうでも良いことだが、今後も、日本に住んでいる以上、
必ずどこかでこういうことが起こるだろう。大事なのは「減災」である。
被害を最小限に食い止めるような、日ごろの備えと可能な限りの自己防衛、
そして国の迅速な支援体勢が不可欠である。
政治家が私腹を肥やし、いいかげんな国づくりをした結果が、先日、震災に
見舞われたカリブ海の国、ハイチの人々を苦しめている。せめて大統領府
くらい耐震建築にすべきであったはずである。外見はホワイトハウスそっく
りだが、その作りはまるで張りぼてであった。
ひとたび震災が起きれば、政治に携わる者の責任の大きさを思わずにはいら
れないということを象徴する出来事であった。
