田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『トリュフォーの思春期』

2019-05-20 08:57:16 | 映画いろいろ
『トリュフォーの思春期』(76)(1982.6.12.)



 フランソワ・トリュフォーが、夏休み前の子供たちの何げない日常を断片的なエピソードで綴る。『大人は判ってくれない』(59)『野性の少年』(70)で“子供”を主人公にして描いた彼の集大成のような映画。『アメリカの夜』(73)では自身の映画に対する愛を、この映画では子供に対する愛を描き切った感がある。
 
 子供ほど扱いが難しい“役者”はいないだろうが、その半面、大人の俳優には決して出せない純粋な味も持っているから、監督としては使いたくもあり、使いたくもなしという複雑な思いを抱くのではないか。多くの監督が子役を使って成功し、また失敗もしている。要は、監督が子役の心に入り込む純粋な心を持っていなければ駄目だということ。その点、トリュフォーは見事に子供たちの立場に立って映画を作っている。

 聞けば、トリュフォーはオーディションで選んだ子役たちとディスカッションを重ねながら撮影を進めていったらしい。それ故、大人の目から見た子供という、一方的な視点にはなっていない。そこには邦題の「思春期」を象徴するような、異性への目覚め、子供じみたいたずらといった、誰もが通る成長過程での変化や戸惑いが微笑ましく描かれている。

【今の一言】後年、小説化された『子供たち時間』(山田宏一・訳、和田誠・絵)を読んだが、こちらも素晴らしかった。
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『映画に愛をこめて アメリカの夜』

2019-05-19 09:24:12 | 映画いろいろ
『映画に愛をこめて アメリカの夜』(73)(1981.11.26.八重洲スター座)併映はゴダールの『勝手にしやがれ』



 この映画は、巨大なセット撮影の場面から始まる。そこから『パメラを紹介します』という映画を作るスタッフ、キャスト、あるいは集まった報道陣の姿を追いながら、映画作りの実際を見せてくれる。

 例えば、トリュフォー自らが演じる監督は現実の映画製作に忙しく追い回されながら、映画に夢を託していた少年時代に『市民ケーン』(41)のスチール写真を盗みに行った夢にうなされる。夢と現実の違いは苦い。

 また、ハリウッドから来た主演女優(ジャクリーン・ビセット)は、フランスの男優(ジャン・ピエール・レオー)に同情し、思わず一夜を共にしてしまう。何日も自由を束縛され、苦労を共にしている俳優たちの間にこんなことが起きても不思議ではないし、役に成り切れば成り切るほど、映画の世界と現実がごっちゃになってしまうこともあるだろう。
 
 他にも、停電で現像前のフィルムが駄目になり、ベテラン女優(バレンティナ・コルテーゼ)はセリフが覚えられず、スタントマンとスクリプターは駆け落ちし、ネコは芝居をしないなど、てんやわんやで、撮影は遅遅として進まない。

 そんな中、女優と男優の情事を知ったスタッフの妻が叫ぶ「映画が何よ。やれ、誰かと誰かがくっ付いただの離れただのって、まるで精神病院じゃない」という一言が、映画製作の現場をズバリと言い当てているとも思える。

 所詮映画なんて、現実から逃避して夢の中でしか生きられないような異常な人間が集まって、心のよりどころとして作っているだけなのかもしれない。そして、映画を見る側も、それが嘘の世界だと知りながら、一時現実を忘れたくてその世界に浸るのだ。『アメリカの夜』というタイトルが示す通り、映画は虚構以外の何物でもない。結局、映画なんて作る側と見る側のばかばかしい共同作業なのかもしれないのだ。

 ただ、この映画の素晴らしさは、こうした数々のマイナスを超えて、映画を完成させる喜びを描き、それでも映画は生き続ける、それでも映画は素晴らしいと感じさせるところだ。また『パメラ~』の撮影開始から完成までが描かれるだけに、いっぺんに2本の映画を見たような不思議な気分にもなる。これは、まさに映画に対するトリュフォーの屈折に満ちたラブレターなのだ。

【今の一言】約40年前の、何とも支離滅裂な一文。当時の自分はこの映画を見て相当感動したはずなのに、それを素直に表現していない。それにしても、この頃のジャクリーン・ビセットは本当にきれいだったなあ。

『20世紀の映画』(2001)から
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『恋愛日記』

2019-05-19 07:14:32 | 映画いろいろ
『恋愛日記』(77)(1993.2.)



 1970年代のフランソワ・トリュフォー監督作。同時期『アメリカの夜』(73)で映画への愛を語り尽くし、『思春期』(76)で子供たちへの愛を語り尽くした彼が、今度はその愛の対象をひたすら女たちに向けたのがこの映画であろう。

 とはいえ、この映画は一種の変化球で、ひたすら女の脚に魅かれる決して二枚目ではない男(シャルル・デネル)を主人公にすることで、少々危ない雰囲気とコミカルさを同居させた、何とも不思議な味わいを持った映画なのだ。

 何しろ、この脚フェチ男が、何人目かの魅力的な脚に気を取られているうちに車にはねられ、一命はとりとめたものの、結局、看護婦の脚に興奮し、点滴をひっくり返してお陀仏となるのだから、これはもう変態の所業なのだが、冒頭を女ばかりの彼の葬式で始め、彼が書き残した本の出版で締めくくることで、実はこの男は滑稽だが幸せな一生を送ったのだと感じさせるところにトリュフォーの才がある。

 トリュフォーは生涯、愛の不毛と成就の間を行き来し、この映画のような温かいものと残酷なものを相前後して撮ったが、そのどちらもが魅力的であったという、愛すべき不思議な監督だった。
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【ほぼ週刊映画コラム】『アメリカン・アニマルズ』

2019-05-18 17:33:01 | ほぼ週刊映画コラム
エンタメOVOに連載中の
『ほぼ週刊映画コラム』

今週は

ドキュメンタリーと劇映画を融合させた
『アメリカン・アニマルズ』



詳細はこちら↓
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/week-movie-c/1189097


【インタビュー】『アメリカン・アニマルズ』バート・レイトン監督
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1188683
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『暗くなるまでこの恋を』『ポワゾン』

2019-05-18 11:05:29 | 映画いろいろ
『暗くなるまでこの恋を』(69)(1989.9.)



 フランスの植民地の島で、たばこ工場を営むマエ(ジャン・ポール・ベルモンド)が写真見合いをする。ところが実際に現れたのは、写真とは全く違う美女(カトリーヌ・ドヌーブ)だった。マエはその女と結婚するが、彼女はマエの預金を引き出して姿を消してしまう。フランソワ・トリュフォー監督。原作はウィリアム・アイリッシュ。

 10数年ぶりの再見。以前見た時は、トリュフォーのヒッチコックへの傾倒ぶりを知らず、この映画のルーツとも言うべき『めまい』(58)を見たこともなかったので、当時『アメリカの夜』(73)『思春期』(76)といった傑作を撮っていたトリュフォーが、それ以前は、随分と詰まらない映画を撮っていたんだなあと単純に思ったものだった。

 ところが『めまい』を見た後で、改めてこの映画を見直すと、不出来という印象が変わったわけではないが、『めまい』同様に、一人の女が前半と後半とでイメージを変える二重構造、ドヌーブのブロンドヘアを映すのに、『めまい』のキム・ノバクを意識したようなカメラアングルを使っているのが分かったりして、何だかひたすらヒッチコックに憧れるトリュフォーがかわいらしく思えるようなところがあった。

『ポワゾン』(01)(2005.12.16.)



 テレ東「木曜洋画劇場」で『ポワゾン』を。いわゆる毒婦ってやつですわ。舞台は19世紀のサンチャゴ。裕福な事業家のもとに、写真とは別人の花嫁が来るって、これはひょっとしてトリュフォーの『暗くなるまでこの恋を』(69)のリメークか? と思ったら、クレジットで原作コーネル・ウールリッチ=ウィリアム・アイリッシュ(『暗闇へのワルツ』)と出た。やっぱりそうか。まったくノーマークの映画だったのでちょっとびっくり。

 それにしてもアントニオ・バンデラスとアンジェリーナ・ジョリーの組み合わせとはなんとも濃い。おかげで妙な話に変わってしまっていた。『暗くなるまでこの恋を』も決して傑作ではなかったけれど、ここまでやられるとジャン・ポール・ベルモンドとカトリーヌ・ドヌーブのコンビがとても良かったように思えてしまう。
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『隣の女』

2019-05-18 06:50:46 | 映画いろいろ
『隣の女』(81)(1988.1.17.)



 主人公の男(ジェラール・ドパルデュー)の隣の家に、偶然、昔の恋人(ファニー・アルダン)夫婦が引っ越してきたことから起こる悲劇の物語。ラストシーンのセリフ「一緒では苦しすぎるが、一人では生きていけない」がキャッチコピーになった。監督はフランソワ・トリュフォー。

 トリュフォーの遺作となった『日曜日が待ち遠しい』(83)を見た時は、何と楽しく愛すべき映画なのだろうと感嘆したのだが、先に作られたこの映画からは、ひたすら悲痛で苦い印象を受けた。どちらもアルダンが主演しているだけに、その極端なまでの陰陽の違いに彼の二面性が表れている気がする。

言い換えれば、この映画はトリュフォーが抱えていた男女の愛を信じたいのに信じ切れないジレンマや、この時期のアルダンに対する自身の気持ちの揺れを代弁していたのかもしれないとも思うのだ。

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『焦土の野球連盟』『ドンキホーテ軍団』『狼たちが笑う日』『素晴らしきプロ野球』(阿部牧郎)

2019-05-17 20:00:37 | ブックレビュー
『焦土の野球連盟』(1993.3.)



 阿部牧郎が、終戦直後、幻の如く現れ消えた国民リーグの勃興を描きながら、大塚幸之助という一人の男の夢の挫折や、野球が人々の夢であり、生きる力でもあった幸福な時代を浮き彫りにする。

 ここでは元セ・リーグ会長の鈴木龍二が敵役であり、今は忘れられた終戦成金の大塚がヒーローの如く描かれる。つまり歴史に名を残していない人物の方が、作家の思い入れも含めて、読む側にドラマチックな印象を与えるということ。いわゆる敗北の中の栄光というやつだ。

 もっとも、後書きには、国民リーグの敗北を予感させるこの小説のラストが、本当の意味での大塚の流転の始まりであるとも書かれている。阿部はこの続きを書いたのだろうか。それともあえて大塚の旬の時代だけにとどめたのだろうか。追跡の要あり。

『ドン・キホーテ軍団』(1993.4.)


 
 『焦土の野球連盟』の続きを探したが見つからなかった。結局、阿部牧郎の中では国民リーグと大塚幸之助についてはあれで完結してしまったようだ。その代わりに見付けたのがこの一冊。

 これまた敗者の栄光伝であり、野球を捨て切れず、半ばだまされていると知りながら、グローバルリーグ設立といううさんくさい話にのめり込んでいってしまった男たちの喜怒哀楽が描かれる。

 もちろん、この小説を読む前にグローバルリーグの失敗は知っていたし、何より筆者がタイトルでその結末を明かしている。にもかかわらず、一気に読まされてしまったのは、幻と終わる野球への見果てぬ夢、魅力的な主人公が体験する絶頂と挫折という物語の構成が、『焦土の野球連盟』と重なるところと、野球や、アウトロー、不器用な男たちに寄せる筆者の優しいまなざしに心打たれたからだろう。

『狼たちが笑う日』(1993.5.)



 阿部牧郎が『焦土の野球連盟』『ドン・キホーテ軍団』と続いた実録ものに変えて、架空の球団を舞台に描いたフィクションだが、そこに実在のセ・リーグ6球団を絡めて、架空と現実のギャップや現実の欠点を明らかにするという仕組み。この小説が書かれたのは79年だが、応援団の横行、もはや選手ではない長嶋の人気に便乗した愚行、企業の宣伝として野球を利用する経営側などの問題はさらに悪化していると感じさせられた。


『素晴らしきプロ野球』(1994.1.)




 久々に阿部牧郎の野球小説を集めた短編集。筆者の野球人を描いた一連の小説の特徴は、話のエピローグを描かない、つまり主人公たちの人生の途中のある時期で、話をすぱっと切って終わらせるところだ。それ故、彼らのその後の人生は読み手の思いに託されるところもあり、もやもやしたものが残るのだが、その半面、主にその人物の旬の時代を描き、あえてその後は描かないところに筆者の優しさも感じるのだ。今回は巨人の監督・水原茂が浪商の坂崎一彦を、阪急代表の村上実が多治見工の梶本隆夫を発見し、再び立とうとする姿を描いた2編のラストが印象的だった。
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『90番死なず』『失われた球譜』(阿部牧郎)

2019-05-17 13:54:50 | ブックレビュー
 作家の阿部牧郎が亡くなった。著作には官能小説が多いが、自分は彼が書く野球小説が好きだった。

 1980年の長嶋監督解任、王選手引退を受けて書かれた『90番死なず』(1981.4.)



 官能小説が多い阿部牧郎の、野球小説家たる一面が垣間見える短編集。突拍子がない設定と言えなくもない内容だが、「OにはNが、NにはOが不可欠であった。Nはジャイアンツの華であり、Oはジャイアンツの力であった。この二人の引退によりジャイアンツは崩壊した」という一言は的を得ている。

 直木賞受賞後に出版された『失われた球譜』(1988.6.)



 野球小説家としての阿部牧郎を見直した。名もない人々の生活の中の野球を描き、アメリカとは違う日本独特の野球の存在を浮かび上がらせているからである。5編それぞれが好編だが、中でもフランク・ハワードをモデルにしたと思われる、外国人助っ人の悲哀を描いた「桃色の巨人」、村山実を心の支えにして人生を強く生きる男を通して語られる村山の球史「ある男の熱球」が心に残った。
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『日曜日が待ち遠しい』

2019-05-17 12:08:15 | 映画いろいろ
『日曜日が待ち遠しい』(83)(1985.5.31.有楽町シネマ2)



 不動産事務所の秘書をしているバルバラ(ファニー・アルダン)が思いを寄せる上司のジュリアン(ジャン・ルイ・トランティニアン)に妻殺害の容疑がかかる。バルバラは彼を事務所の地下室にかくまい、素人探偵として調査に乗り出す。

 フランソワ・トリュフォー監督の遺作である。遺作となると、それが監督であれ俳優であれ、そのどこかに何かしらのメッセージを感じ取りたくなるような、センチメンタルな気持ちで見てしまうところがある。この映画にしても、トリュフォーの過去の傑作と比べれば驚くような出来ではないのだが、彼は最後までヒッチコックに傾倒し、女を愛し抜いたんだなあと、見る側に思わせるような、素直さを感じさせられる。

 また、トリュフォーには最後まで巨匠というイメージはなかったような気がする。それは、いい意味で、俺たちと同じような映画好きの男が、フィルムを通して、自らが愛するもの(映画、女たち、子供たち)へのオマージュを捧げ続けただけだったと感じさせるからなのだろう。それにしても、この映画はファニー・アルダンの魅力を引き出そうとしたシーンが終始目に付く。トリュフォーはよっぽど彼女に惚れていたんだろうな。


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『アラジン』作曲のアラン・メンケンにインタビュー

2019-05-17 06:53:27 | 仕事いろいろ
 『アラジン』の音楽を作曲をしたアラン・メンケンにインタビュー。



 オリジナルのアニメ版(97)から27年。改めてどんなアレンジを施したのか。また、ガイ・リッチー監督や新曲「スピーチレス」についても聞いた。
詳細は後ほど。

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