映画版『白い巨塔』(66)(1992.3.26.)
浪速大学医学部を舞台に、上昇志向の固まりである財前五郎(田宮二郎)と、正義派で理想家肌の里見脩二(田村高廣)という対照的な主人公を中心に、さまざまな思惑を持った医師とは名ばかりの“妖怪たち”を登場させる群像劇として、医学界の暗部を告発する。山崎豊子の原作、監督の山本薩夫、脚色の橋本忍、多彩なキャストたちが皆素晴らしい。
ただ、この映画の場合、同じく田宮二郎主演の同名テレビドラマ(78~79、総監督:小林俊一、脚色・鈴木尚之、音楽・渡辺岳夫、里見役・山本學)の方を先に見ており、しかもそれはとても上質なもので、最後が田宮自身の自殺と重なった衝撃もあった分、どうしてもドラマのイメージを思い浮かべながら見てしまったところがあった。
だから、悪役の財前が教授になり、正義派の里見が大学を追われるという、この映画の救いのないラストの後で、財前自身が病に倒れるというさらなる悲劇が起きることを知っているので、映画の終わりが尻切れトンボのように見えてしまったのは否めない。
ただ、最近、偶然大映の映画を続けて見たもので、大映という映画会社が持っていた独特の暗いカラーと、所属スターの田宮二郎という適役を得てこその映画だという気もした。当時の東宝や松竹、東映からはこうした映画が生まれなかったのも当然なのだ。
それにしても、もはや“聖職”などという言葉は死語だとしても、こうした医学界の腐敗は直接人の生死に関わる問題だし、いざという時、われわれはこうした“妖怪たち”に命を預けざるを得ないのかと思うとゾッとさせられる。
そう考えると、いかにも社会派監督の山本薩夫らしい告発、問題提起映画だということもできるが、先に再見した『皇帝のいない八月』(78)同様、ここまで体制や権力、組織側の嫌らしさを魅力的に描けるということは、実は山本には、こうしたものに対する、かわいさ余って憎さ百倍的なところがあったのではないかと思ってしまった。
山本の映画の多くは、反権力という思想が根本に流れていたが、作られた映画は皆力強く、鋭く時代を捉え、社会問題を提起した。何より、主義や思想云々は別にして、一本の映画として見ても見応えのある良作が多かった。つまり、告発劇でありながら、同時にエンターテインメントとしての面白さも持っていたのだ。その点が、彼の映画群を希有なものにしている。
『薩チャン 正ちゃん~戦後民主的独立プロ奮闘記~』
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